書き下ろし小説 ほろほろ、卵焼き (第1回)
桐 りんご

(2014.07.25)

ほろほろ、卵焼き

新しい青春文学を発掘する『坊っちゃん文学賞』。第13回の大賞受賞作品『キラキラハシル』、作者の桐りんごさんの書きおろし小説『ほろほろ、卵焼き』の公開です。
ほろほろ、卵焼き 第1回

 ぱちぱちぱちっと小気味よい音を立てて、フライパンに流し込んだ卵はゆっくりと膨らんでいく。よく晴れた土曜日の朝、私は台所で卵焼きを作っていた。その卵焼きを作りながら、私はおばぁのことを思い出していた。
 
 「雪ちゃん。これからおばぁと一緒にお出かけしようね!」
 おばぁはよくそう言って、幼い私をいろいろな所へ連れて行ってくれた。今考えると幼い孫を引き連れて電車やバスで外出するということは、おばぁにとってとても難儀なことだったに違いない。足の悪いおばぁにとっては尚更だ。幼い私はそんな事情も知らず、普段歩いている距離を超えてしまうと、
 「おばぁ、疲れたよ~。アイス食べたい!」
 「おばぁ、足が痛いよ~。おんぶして!」
 などと我が儘を言って、おばぁを困らせていた。そんな私に対して、おばぁは、
 「はいはい。もうちょっと歩いたらアイス食べようね。足が痛くなったら、おばぁがおんぶしてあげるよ」
 とにこにこ笑って、私の我が儘を聞いてくれた。私は、おばぁの笑顔が大好きだった。笑うと更に皺が増え、顔がくしゃっとなるおばぁの笑顔は向日葵のように明るく、稲穂のように凛としていた。
 私には妹と弟が一人ずつ居たが、何故だかおばぁが一緒に連れ出すのは私一人だけだった。妹と弟は私よりも小さく、何かと面倒だったからかもしれない。だが、その状況は私が小学校四年生頃まで続いた。その頃になると妹も弟も手は掛からないはずなのだが…。あれから何十年も経ったというのに、未だに妹と弟は、
 「おばぁは姉ちゃんばかり、いろんな所に連れて行ってたよね。ずるいよな!これは完全な贔屓だよね」
 と、この話題になると膨れっ面になる。そんなことを言われても、私にだって理由は分からない。真相はおばぁのみぞ知るなのだ。
 おばぁには美味しい物を食べさせてもらったり、好きな物を買ってもらったりもした。おばぁが買ってくれた物でよく覚えている物がある。それは幼稚園の入園式の時に着たドレスだ。私は昔からお姫様願望が強く、真っ白なドレスに憧れていた。その日、私は入園祝いにとおばぁにドレスを買ってもらった。ふんわりとした真っ白のドレスで、中心にハートのかわいいブローチが付いていた。そのドレスは一万円もした。当時の私はお金の価値がよく分かっておらず、理想のドレスを見つけることだけに没頭していた。年金暮らしのおばぁにとって、決して安い値段ではなかったはずだ。
 「おばぁ、ありがとう!雪、すっごく嬉しい!このドレス、大切にするね!」
 「はい、どういたしまして。雪ちゃんによく似合ってるよ」
 そう言うと、おばぁの顔はくしゃっとなった。その日、私は幸せな気持ちで家に帰った。早速、私はおばぁに買ってもらったドレスを母に見せた。
 「あら、かわいい!ん?一万円!何、このドレス一万円もするの?馬鹿じゃないの、あんたは!何で入園式で着る物に一万円もかけるのよ!全く、もう。さぁ、行くわよ」
 母が私を怒る理由が全然分からなかった。訳も分からず母に言われるがまま付いていった場所は、そのドレスを買ったお店だった。
 「ねぇ、これなんか良いんじゃないの?色もピンクでお花が付いてるし。値段もあのドレスの半分で済むし!ね!これにしなさい」
 母が薦めたドレスは、私が気に入る物ではなかった。
 「でも…雪、おばぁに買ってもらったドレスの方が良い…」
 母の機嫌を損ねないように、小さな声でそう抵抗した。すると母の怒りが頂点に達した。
 「いい加減にしなさい!おばぁに我が儘ばかり言ってあんたは!おばぁを困らせていることも分からないの?一万円っていうお金は大金なの。それなのに簡単に手に入るって思ったら駄目よ!良いわね、これにします」
 そう言うと、母はおばぁに買ってもらった白いドレスを返品し、代わりにピンク色のドレスを購入した。私は目の前が真っ暗になった。
 後日、おばぁの家に遊びに行った私は、その時のことを泣きながら話した。
 「白いドレスの方が気に入ってたのに…勝手に他のに換えちゃったの…それにお母さんが『雪はおばぁを困らせている』って…雪、おばぁを困らせている悪い子かな?」
 そう言うと、おばぁは私の目を真っ直ぐに見つめ返しこう言った。
 「それは違う!雪ちゃんはおばぁを困らせてもいないし、悪い子でもない。それはお母さんの勘違いね。あのね、こう考えてみたらどう?これは良いチャンスだって」
 「えっ?それ、どういうこと?」
 「白いドレスは、誰か他の人からプレゼントされるってことかもしれないって!」
 「誰か他の人?それって誰?」
 「うふふ。おばぁは思うんだけど、それは雪ちゃんが将来結婚する相手かなって」
 「えっ?それ本当?」
 「おばぁはそう思うよ。ね!そう考えたらわくわくしてこない?今回選ばれたドレスがピンク色だったことには、ちゃんと意味があるの。だからお母さんを悪く思わないでね」
 とやさしく諭してくれた。振り返って考えると、おばぁの懐の深さには脱帽する。そして、私はピンク色のドレスで入園式に臨んだ。
 
 おばぁが大切にしてくれたお陰で、私はすくすく…いや、ぶくぶくと肥大化していった。そんな私を心配した母は、ある日私を病院へ連れて行った。おばぁと私が外出している時の様子を知らない母は、ぶくぶくと太っていく私が何かの病気に冒されているのかもしれない、と思ったのだろう。医者に診てもらい、医者が私に放った言葉は、
 「娘さんは病気ではありません。肥満ですね。お母さん、毎日家の近くでも走らせてください。そうすれば今の状態よりは、良くなるんじゃないですかね!ははははは」
 といった屈辱的なものだった。当時私は幼稚園生だったが、その医者が発した言葉が良くないことは理解出来た。
 「はぁ…。先生、ありがとうございました」
 と母は礼を言い、顔を真っ赤にして俯き、私の手を強引に引っ張り診察室を後にした。待合室にいる人達が私を見てくすくすと笑っていた。医者の馬鹿でかい声が、きっと外に漏れていたのだろう。私を見てくすくすと笑う大人も、デリカシーのない言葉を投げつけた医者も大嫌いだ、と思った。心の底から湧き上がってくる怒りと悔しさで、気がつくと私は涙を流して泣いていた。
 「泣きたいのはお母さんの方よ。病気だと思ったら肥満だって…。恥ずかしいったらありゃしない。おばぁが美味しい物をたくさん食べさせているせいね」
 「恥ずかしい」と言った母の言葉も気になったが、「おばぁのせい」と言ったことの方が気になり、私を驚かせた。この屈辱は、大好きなおばぁがもたらしたもの?私が太ったのはおばぁのせい?頭が混乱して物事や状況をうまく飲み込めなかった。
 家に帰ると、母はおばぁに電話で今日の病院での出来事を伝えていた。
 「ということなので、雪にはあまり食べさせないで下さい。雪を可愛がってくれて、いろいろとしてくれるのはありがたいのですが…どうぞよろしくお願いします」
 母がそう話しているのを、私は何気なくという風に聞いていた。大好きなおばぁが私のせいで…私が太ったせいで責められている気がして悲しくなった。
 (おばぁ…雪のせいで…ごめんね。私、毎日走って太らないように頑張るからね…)
 くしゃっとなった笑顔のおばぁを思い出し、心の中で何度も「ごめんね」と呟いていた。
 その件があってから、おばぁは私に美味しい物をあまり食べさせてくれなくなった。この日も私はおばぁの家に遊びに行っていた。おばぁは長男の家族と同居していて、私達とは別々に暮らしていた。
 「ごめんね…アイスとかケーキとか、雪ちゃんが好きな物、食べさせてあげたいんだけど…お母さんと約束しちゃったから…」
 おばぁは眉毛を八の字にして、肩を落としてこう言った。
 「ううん。おばぁは悪くないよ!悪いのは雪がデブだからだよ…お医者さんも、周りにいた大人も、みんな雪を見て笑ってた…お母さんも恥ずかしいって…」
 しょんぼりしているおばぁを励ましたくて、私はこう言った。けれど、言っている途中で悔しさと悲しさが綯い交ぜになったような、何だかよく分からない感情に襲われ、しくしく泣き出してしまった。
 「それは違う!雪ちゃんは何も悪くないのよ!あのね、人を見て笑うということは絶対にしちゃいけないよ。お医者さんもその周りにいた人達も大人だけど、時々は間違いをしてしまうの。大人がすること、言うことが全て正しいとは限らないんだから。お母さんが恥ずかしいって言ったのは、雪ちゃんが嫌な思いをしたのに、守ってあげられなかった自分に対して言った言葉だと思うよ。だから気にしないの!いいわね?」
 「…おばぁ…うん!分かった!」
 と頷いた私の頭を、おばぁは「よしよし」とやさしく撫でてくれた。
 「そうだ!雪ちゃんにあれを作ってあげよう!ちょっと塗り絵でもして待っててね」
 おばぁはぽんと手を叩くと、徐に立ち上がり台所へ消えて行った。塗り絵をしながらおばぁを待っていると、暫くしておばぁが両手でお皿を持ってやって来た。
 「はいはい、お待ちどうさん!さぁさぁ、熱いうちに食べなさい!」
 そう言うと、おばぁは座卓の上にことりと丸いお皿を置いた。お皿にはたんぽぽのような黄色い、形の良い卵焼きがきれいに並んでいた。
 「うわぁ~!卵焼きだ!雪、卵焼き大好きなんだ!いただきま~す!あれ?ねぇおばぁ、お醤油はどこ?うちは卵焼きにお醤油をかけて食べるんだけど…」
 「そうなの?でもね、おばぁの卵焼きはお醤油は必要ないの。そのままで食べてみてちょうだい」
 と言い、おばぁはうふふと笑った。怪訝に思いながらも、私はおばぁが作ってくれた卵焼きを一つ口に放り込んだ。
 「…美味しい!何でお醤油をかけていないのに、ほんのりしょっぱい味がするんだろう?」
 「うふふ。不思議でしょ?何でかな?」
 「ねぇ、教えてよ~!秘密にするから!」
 「本当?それじゃ、おばぁと雪ちゃんの二人だけの秘密だよ。実はほんの少しお塩が入っているんだよ」
 「えっ、塩?たったそれだけ?」
 「そう。お塩だけ。ほんの少しのお塩だけで、卵が持っている本来の味を引き出せるんだよ。美味しいでしょ?」
 「うん!すっごく美味しい!」
 「人間も同じ。その人が元々持っている美しさがあるの。見た目だけでなく、心の美しさよ。だからいろいろと飾り立てる必要はないの。雪ちゃんには雪ちゃんにしかない素晴らしいものがあるんだからね!さぁ、食べて食べて!だけど…ご飯は一膳だけね」
 そう言うとおばぁは左目を瞑りにこっと笑った。そして台所へご飯を装いに行った。
 (雪にしかないもの…それって何だろう?雪、デブだし…そんなのあるのかな?いけない!さっきおばぁに気にしないように言われたんだった。気にしない、気にしない!それにしてもこの卵焼き、すごく美味しい!)
 心の中でそんなことを考えながら、私は卵焼きをぺろりと全部平らげてしまった。
 それから、私がおばぁの家に遊びに行くとおばぁはたまに塩味の卵焼きを作ってくれた。「二人だけの秘密」と言われていたので、私は母に塩味の卵焼きを作ってほしいと要求することはなかった。家では相変わらず、お醤油をかけた卵焼きが食卓に出されていた。私はおばぁの卵焼きにすっかり夢中になってしまった。黄色く照り輝く卵焼きは、口に入れると熱々ふわふわで、絶妙なしょっぱさが堪らなかった。卵焼きが口の中にある間は、幸せで満ち溢れていた。この幸せがずっと続くものだと、私は信じていた。
 

『坊っちゃん文学賞』
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