書き下ろし小説 ほろほろ、卵焼き (第3回)
桐 りんご

(2014.07.25)

ほろほろ、卵焼き

新しい青春文学を発掘する『坊っちゃん文学賞』。第13回の大賞受賞作品『キラキラハシル』、作者の桐りんごさんの書きおろし小説『ほろほろ、卵焼き』の公開です。
ほろほろ、卵焼き 第3回

 
 中学の卒業式の日、学校から帰ると家には誰も居なかった。激しい空腹に襲われ、とにかく何か口に入れたかった。いろいろな場所を物色したが、何もめぼしい物はなかった。
 「ったくしょうがないな…何か作るか」
 卒業式という晴れの日に、何が悲しくて自分の為に料理をしなければならないのかと寂しい気持ちになったが、頑固な空腹に負け、私は台所に立った。冷蔵庫から二つ卵を取り出すと、それをボウルに割り入れ、丁寧且つリズミカルに溶いた。そしてフライパンに油を少し引き、火を付けた。フライパンがよく熱された頃合いを窺い、溶いた卵を流し入れようとしたその時、私はボウルを慌てて引っ込めた。そして溶いた卵の中に、一つまみの塩を入れ、丁寧にかき混ぜた。気を取り直して再度、よく熱されたフライパンにそれを流し入れた。ぱちぱちぱちっという音がしてきたので、私はきれいな層を織り成すイメージで卵をくるりと巻いて…いこうとしたのだが、上手く出来なかったので予定変更!スクランブルエッグにすることにした。
 「よしっと!これ位で丁度良いんじゃない」
 卵がきれいな黄金色と香ばしい匂いを醸し出してきたので、私は火を止めた。適当なお皿にそれを盛り、ご飯を装る。
 「では!いただきま~す」
 自家製スクランブルエッグを一口、口の中へ放り込んだ。
 「…おばぁ…」
 私が作ったスクランブルエッグは、おばぁの美しい卵焼きとは似て非なるものだった。けれど、口に放り込んだ瞬間、卵本来の持つ旨味と懐かしいしょっぱさが、口いっぱいに広がった。おばぁから、卵焼きの手解きを直接受けたわけではない。だから私のスクランブルエッグはおばぁの卵焼きではない。だが確かに、そこにはおばぁの卵焼きが存在した。
 「…何で…私のこと許してくれるの?」
 おばぁに伝えたい言葉はたくさんあるはずなのに、後に続く言葉は出てこなかった。私は声を上げてわんわん泣いた。あの日、おばぁのお葬式の日に全然出て来てくれなかった涙が、時を超えて今、ダムが決壊したかのように流れ出てきた。おばぁにずっと謝りたかった。「力になる」って誓ったのに、私は途中で挫けてしまい、最後までその約束を果たせなかった。そしておばぁは一人、逝ってしまった。おばぁがこれまで私に注いでくれた愛情は計り知れない。それなのに…私は何の恩返しも出来ずに、自分を守ることだけを考えていた。そんな自分を嫌悪し、現状を変えられない自分に憤慨した。本当は、心の中ではいつも泣いていたのだ。
 「…おばぁ…さすがだね!私の卒業式の日に、こうしてちゃんと会いに来てくれるんだもんね…全く、おばぁには敵わないよ…」
 この日、初めて自分の気持ちと向き合えた気がした。おばぁの卵焼き(実際は私が作ったスクランブルエッグなのだけど…)が、解けていたおばぁとの絆を、再び結びつけてくれたのだ。
 「ただいま~。雪、帰ってるの?」
 玄関から母の声が聞こえた。ぱたぱたと歩く音を響かせて、母がリビングへ入ってきた。
 「遅くなってごめん。お母さん方と話し込んじゃって!卒業式、感動的だったわね!それ自分で作ったの?え、あんた泣いてるの?」
 スクランブルエッグとご飯を泣きながら食べている私を見て、母は怪訝そうにそう言った。
 「…お帰り。て言うか質問多すぎ!家に誰も居ないし、お腹空いてるのに食べるのは何もないし。だからこうして、自分で適当に作って食べているわけ。泣いているのは…別に何でもない!」
 泣いている所を母に見られ気まずい思いをした私は、適当に言い訳をした。母からすると、泣きながらスクランブルエッグとご飯を食べている娘はかなり奇妙だろう。
 「ふ~ん、そうなの。どうせ卒業式でも思い出して、一人で感傷的になってたんじゃないの?あはははは。それより、お醤油かけないの?それじゃ、何の味もしないでしょ?」
 と言い、母は醤油を手に取りスクランブルエッグに回しかけようとした。
 「ちょっ、お母さん!余計なことしないでよ!これで良いの!もう既にお…いや、卵本来の味を楽しんでいるんだから…」
 「ふ~ん。いつもはお醤油をかけて食べるのに、変な子ね。まぁ良いけど」
 そう言って疑いの視線を投げてきた母を無視した。平静を装いながら食事をしていた私は、内心焦っていた。
 (危ない!おばぁの卵焼きの味は秘伝だもん!二人だけの秘密だって、あの時おばぁと約束したんだ…だから、もう約束を破るわけにはいかないもんね!)
 心の中で、おばぁとの大事な約束を反芻していた。その時、さーっと心地良い風が部屋に入ってきた。そこに、ふわりと風に乗ったひとひらの桜の花びらが、スクランブルエッグの隣に舞い降りてきた。私は「おばぁがそこに居る!」と思った。おばぁが顔全体をくしゃっとさせた向日葵みたいな笑顔をこちらに向け、私の頭をぽんぽんとやさしく撫でてくれていると感じた。
 「おばぁ…ありがとう…」
 私は、おばぁの手に自分の手をそっと重ねた。そよそよと吹く風と、やさしい太陽の光がいつまでも部屋の中を温かく包んでいた。

 「おっ、これいけるね!素朴な味で卵の持つ本来の旨さが引き立つって言うか…ケチャップや醤油も良いけど、これも良いね!」
 (よっし!おばぁ、やったね!)
 私は心の中で歓喜し、ガッツポーズをした。
 「美味しいでしょ!しょうがないな~。そんなに絶賛するなら、また作るか」
 笑いが込み上げてくるのを堪え、努めて冷静にそう言った。私もその卵焼きを口に放り込む。おばぁに直接教わったわけじゃないから、「おばぁの卵焼き」を忠実に再現できていないかもしれない。
 中学の卒業式の日、きれいに卵を巻くことが出来ず、卵焼きではなくスクランブルエッグになってしまった。あれから十五年が経ち、今の私はおばぁ程ではないが、まぁまぁきれいな卵焼きを作れるようになった。懐かしさとほんのりしょっぱい切なさが、じんわりと口いっぱいに広がる。
 彼は卵焼きにケチャップをかけて食べる家庭で育った。私の家庭は醤油だった。結婚してからまだ日は浅いけれど、今日まで卵焼きにはそれぞれ別の調味料が施され、それを食べていた。しかし今日は、大好きなおばぁの秘伝の卵焼きを、どうしても彼と一緒に食べたかった。そして彼は、おばぁの卵焼きを笑顔で受け入れてくれたのだ。
 (おばぁ…ありがとうね!)
 卵焼きをゆっくり噛みしめながら、心の中でそう呟いた。外は鳥達のさえずりで溢れ、青一色の空がどこまでも続いていた。
 「今日は天気も良いし、これ食べたらどこか出掛けるか?あっ、ご飯おかわりお願い!」
 と言い、彼が私の大好きな笑顔をこちらに向けてくれる。
 「うん!行こう!卵焼き、たくさん食べて」
 私も嬉しくなり、自然と笑顔になる。
 (おばぁが言ったこと、本当だったよ!私、理想の真っ白なドレスを着られたよ!おばぁが言った通り、大切な人からプレゼントされたの。やっぱりおばぁはすごいね!ねぇ知ってる?おばぁと同じくらい大好きで大切なこの人も、おばぁと同じく笑うと顔全体がくしゃっとなって、向日葵みたいに明るくて稲穂のように凛とした笑顔なんだよ。これからも見守っていてね)
 私は、ウェディングドレスを着て微笑んでいる写真を見た。そして徐に立ち上がり、彼の為にご飯を装いにいく。また一つ、卵焼きが彼の口へと消えていった。
  

  

『坊っちゃん文学賞』
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