片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)「名も無きサラリーマン」か?
「真のジャーナリスト」か?

(2011.07.18)

コラム「NGOな人々」とは、”Non-GAMAN-Optimist”(今の世の中に、とにかく「ガマン」していられず、チャレンジをし続け、決して諦めない「楽観人」)を毎回インタビューさせて頂き、コラム形式でご紹介していく新連載企画です。第1回はジャーナリスト・ブロガー 藤代裕之さんです。

藤代裕之さんと話したかった

私のTwitterのリストには「藤代裕之」専用のリストがあり(こういうリストの使い方が良いのかわかりませんが)私は彼のツイートをよくチェックしています。藤代さんと初めてお会いしたのは3年ほど前のことです。当時設立準備中だった現在のWOMマーケティング協議会の会合の席でした。当時、私が行って物議を醸したマーケティング活動について内々の会で発表をさせてもらったのが縁でした。その後、クチコミのガイドライン作成委員に加えて頂き共に手弁当で合宿に参加したり、パネルディスカッションの壇上で議論したりとお会いする機会は何度かあったのです。ただ、藤代さんとお会いするときはいつも大勢の方が入る「オン」の場でした。「サシ」でゆっくりお話しを伺ったことがなかったことが、今回、取材をさせていただこうと思った理由です。(もちろんこの取材も「オン」なのですが。)そして、藤代さんが3月11日の震災直後からボランティア情報を集めるサイトを立ち上げ、Twitter上で募集の告知をされてらっしゃることも気になっていました。その間、私が応援できたことといえば彼のツイートを「公式リツイート」することだけでした。


藤代さんって何の「プロ」ですか?

「それは… (ちょっと考えられた後) ジャーナリストです。現在はNTTレゾナントでgooラボのプロデュースの仕事をしています。基本はサラリーマンで、ジャーナリストとしての活動は有休を取得して行っています。比較的理解のある会社なので助かっていますが、それでも有休の残り数が毎年あぶない。(笑) ジャーナリストもプロデュースも『伝える』ことが仕事ですからやっていることは、あまりかわらないと思っています。原石を見つけて出すのがジャーナリストだとすると、原石を磨いて出すのがプロデュース。原石を見る目、筋目、潮目を視て判断する『目』というのは一緒だと思います。その辺のことが最初はわからなかったけれど、だんだんとわかってきました。どのような仕事にでも共通項はあります。それに、本来、『ジャーナリスト』という職業の持つ役割はもっと幅広いはずです。」

藤代裕之 プロフィール
ジャーナリスト・ブロガー

(ふじしろ・ひろゆき)1973年徳島県生まれ、立教大学21世紀社会デザイン研究科修了。1996年広島大学文学部哲学科卒業後、徳島新聞社に入社。記者として社会部や文化部に所属。徳島大学病院医療情報部助手を経て、NTTレゾナントにて、ニュースデスク、CGM編集長を勤め、新サービス立ち上げや研究開発支援を行う。学習院大学非常勤講師。日本広報学会理事。2004年からブログ「ガ島通信」を執筆、日本を代表するアルファブロガーの1人としても知られる。


既存のジャーナリストとは違う?

「ただ日記を書いたり、Twitterでツイートしたりするだけでも。古い時代の洞窟の走り書きと同じで、時には『考察』の対象になります。

『ジャーナル=記録する』

『ジャーナリスト=時代の記録者』

「『技術を知る』=『時代を知る』でもありますから、SNSやネット技術を全く知らない人はジャーナリストとしても、今の時代はダメだと思います。歴史的にみても、もともとジャーナリストの社会的地位は高くありませんでした。結婚相手にしても悪くないような地位になったのは、戦後しばらくしてからです。ところが、現在、既存の4媒体(テレビ、新聞、ラジオ、雑誌)が苦しくなってきている、生き残っていくにはマーケティングやイノベーション、さらには経営についても知らないといけない。アメリカのジャーナリズム・スクールでは企業家精神を学ぶことも始まりました。もっとIT技術やウェブを理解しないとビジネス的にもうまくいかないでしょうし、伝え手としても、これだけ世の中にたくさんあるソーシャルメディアを使えないのはもったいない。ウェブ・プロデュースをしていることはひとりのジャーナリストとしても勉強になります。メディアは貴重ではなくなり、競争にさらされています。間違いなく日本もそうなります。しかし、今勉強しておかないといけないはずの人たちがあまり勉強してなかったりします。」

 

震災当日は何をしていました?

「知人の先生のゼミを見学するために京都にいました。発生直後は全く気付かなかったです。移動中、タクシーの運転手に東北が大変なことになっていると聞きました。Twitterのタイムラインをみました。ワンセグを視ようとしましたが、いつもとエリアが違い設定に戸惑いました。PCを立ち上げたら中学生がNHKの生中継を勝手にUstreamで流していました。その中学生の『配信』を通じて津波の映像を視ました。TwitterとUstream、何よりも中学生がいなければ、もっと長い間状況を知らなかったと思います。その後NHKはUstreamやニコニコ動画で映像配信を行いました。先日、NHKの人と話をしていて『視たい人がいるのに伝わっていない。だとすれば、伝えないといけない。伝わらないと全く意味がない。』ということをおっしゃっていました。全く同感です。ここ数年、マスメディアVSネットや、紙かネットかといった対立軸の議論が多くありましたが、情報を求める人がいて、その人に伝えるためにはどんなメディアでも使わなければいけない。4媒体、特に新聞、テレビの人たちはそんなジャーナリストとしての思いを忘れているのではないでしょうか。メディアは単なる伝える手段でしかありません。」

ジャーナリストとしての一線

「京都での講義の後、実家の徳島に帰っていたので首都圏の『帰宅難民』騒ぎには巻き込まれなかったこともあり、震災への当事者意識は少なかった。しかし、報道を見ていくと次第に状況が分かってきました。インターネット的な支援、情報に関わる支援、今の自分にすぐにできること、そしてマスメディアにはできないことをやらなくてはならないと思いました。それが『ボランティア情報を集めてボランティアを被災地に送ること』でした。ボランティア情報は既存のマスメディアではニュースではないので報道しません。マスメディアに欠落していることをやる、これもジャーナリストとしての仕事の1つだと思います。3月14日にまとめサイトを立ち上げました。そしてTwitterで呼びかけた。「報道すること」で社会に影響を与えるだけではなく、自ら『行動すること』を選びました。これは『アントレプレナー・ジャーナリスト』なのかもしれません。媒体が全てというわけではない。媒体は自分で作れる。媒体も含めたアーキテクトが重要な時代になってきました。」

つまりは社会起業家?

「社会企業家のように見えるかもしれません。でも僕は自分が現地に行って自分の手で瓦礫を動かした訳ではありません。自分にまずできること、情報をどう動かすかにフォーカスしました。その背景には現在のマスメディアが流す情報が本当に現地の役にたっているのか?という疑問が常にありました。マスメディアが扱う情報が本当に全てなのか?誰のための情報なのか?マスメディアの欠落を埋めるために自分ができること。役に立つ情報とは何か?少人数で効果的なこと。決して自分が社会起業家になったわけではなく、ジャーナリストとして『被災地の役に立つ情報は何か?』と考えて活動した結果、結果的に物事が動きました。やったことはいつものジャーナリスト活動と一緒だと思っています。ボランティア情報を探し、見やすいように編集し、メディアに掲載する。取材して記事を書くのと同じプロセスで『ボランティア情報を載せた』ということに尽きます。」

ボランティア情報ステーション

「『助けあいジャパンボランティア情報ステーション(VIS)』を設立し、呼びかけに応じてボランティアの学生などが集まりました。彼らの動きは早かったです。はっきりいうと彼らはジャーナリズムを学ぶために集まってくる人たちと比べて問題意識が違う。ソーシャルベンチャー業界の学生の意識は非常に高いです。『ジャーナリスト』という呼び名自体が、すでに手垢のついてしまった呼び名で、『自己が肥大化してしまった人』を指す言葉なのではないかと感じることさえあります。『ボランティア=自分で動ける人、アウトプットを出せる人』『ジャーナリスト=批判だけ、動かない、やらない、自分だけは偉いと思っている人、記者会見や取材で自分の意見を開陳したい人』もっと言ってしまえば、今の時代、単に『ジャーナリストになりたい』と思う人の多くは、劣化してしまったメディアの中の『そういう人たち』になりたいのではないかと思うことさえあります。優秀な学生が新聞業界に集まってこないという話をよく聞きます。僕は新聞業界の出身だから、魅力的だと思ってきたけれど、世の中は変わってきています。情報伝達が『メディア』から『ツール』になり誰でもできるようになったいま、『情報を使って何ができるか』に学生は注目しています。『自分が何をやりたいか。何ができるか。』に興味がある。決してこれまでのメディアの特権には興味がない。もしかしたら、いわゆるジャーナリストになりたい人がメディアの特権に興味を持っているからこそ、ネットを敵視し、伝えることに向き合えないのかも知れませんけれど…」

5時からジャーナリスト?

「メディアで何をしたいのかを考えるのがボランティア。一方、まずはメディアを持ちたいと思う学生がージャーナリストを目指す。普通の会社に行きながらメディアを持てるそういう時代がやってきています。普通の会社に就職してもじゅうぶんに面白い活動ができる。それこそTwitterなどを使えばいくらでもやりたいことができる。メディアという『場所』が貴重なのでなくなる。やりたいことをまずやってみて、飽きたら飽きたで今度は違う場所でまた違うことができる。僕はこういう活動を『パートタイム・ジャーナリスト』『日曜ジャーナリスト』あるいは『5時からジャーナリスト』とポジティブな思いを込めて呼んでいます。そしてこういう人たちが、これからものすごく増えてくるでしょうし、メディア側もこういう人たちをうまく取り込もうとしている。」(実際に藤代さんは、日経にもITメディアにも原稿を書いています。そして私も…)「これまで日本のメディア産業は『流通』が強く力を持っていた。コンテンツは弱かった。ネット技術の進化で、流通ルートが増えてきた。だから必然的に今後は『製造』が強くなる。良質な『コンテンツ』を創る側が強くなる。」

若いジャーナリストを育てる?

『JCEJ(Japan Center of Education for Journalist)』という団体を設立しました。伝えることに関心がある人たちが切磋琢磨し、勉強しようという会です。『ジャーナリズム』ではなく『ジャーナリスト』というのがポイントです。『主義』を学ぶ場ではありません。『個人』としての『ジャーナリスト』のあるべき姿を共に学び会う場です。PR会社の社員、企業の広報の方、研究者、フリーの記者、エディターなど、一般の社会人が多いです。現役記者は少ないですが新聞社の人もいます。媒体が増えてきている中、現状に飽き足りない人たちです。今、自分が変わらないといけないと思っている人たちです。」

実際、変われます?

「会社の中の一記者が変わっても、自分ひとりが変わることで大きなシステム全体を変えることは難しいです。むしろ無理だと思って諦めています。業界や会社を変える気はあまりない。だけど個人は変われる。まずはひとりひとりの気持ちを変える。だけど変わるのは大変。だから一緒に学び、議論をしようという趣旨です。既存のメディアは変わらなかったらなくなるだけです。所詮はビジネスなのでユーザーに支持されない産業はなくなる。クールに考えればそれだけのことです。ただ、ジャーナリストと既存のメディア産業はイコールではありませんし、若い人には危機感を持つ人も大勢いる、そうでない人も大勢いますが(笑 少なくともJCEJは危機感をもっている人の集まりです。去年、ジャーナリストキャンプという1泊2日のイベントを東京で行ったのですが、全国から40人が集まりました。ことし初めて地方で実施します。宿の定員が20人程度で、スタッフと地元新聞で既に10人埋まっています。募集は10人していますが、5人でもいいくらいです。メディアを自分で作れる時代だからこそ、個人としてジャーナリストの『腕』を磨き、尊敬されるジャーナリストになってもらいたい。こいつの書くことは面白いか、そうでないか。個人が評価される時代です。大企業の看板に隠れているわけにはいかない。単なる『名も無きサラリーマン』で終わるのか『真のジャーナリスト』となるのか。参加費2万円。交通費もいれると5万円。決して安いとは思いませんが、それでも参加したいという高い意欲を持った人に来てもらいたい。これが組織の中での議論だと、しょせんは会社のための議論になってしまう。」

なぜジャーナリストに?

「もともとはなりたくてなったわけではないです。たまたま受かったのが新聞社でした。ただし、『知りたい』という思いや『好奇心』は強かった。高校時代の倫理政経の先生の影響が強かったです。大学では哲学科でした。ソクラテスの『無知の知』という言葉、あの言葉が原点です。人には知らないことがたくさんある。だから謙虚さを持たないといけない。自分の知識や専門性への懐疑。反省的な気持ちを大切にしたい。仮にひとつの『円』を描いたとします。勉強すればするほど知識が増え、この『円』が大きくなる。ところが知れば知るほど、その周りの知らない領域が増える。だから人との『対話』が必要です。そのためには『出会い』が重要。自分の人生はそういう旅になるのではないか。対話やコミュニケーションが大切。高校の先生から影響を受けました。ここ数ヶ月の間に、Twitterで呼びかけて手をあげてくれた人たち、ボランティアの人たちからも大きな影響を受けています。ネットを通じて出会った人たちは、自分を自ら変えている。ネットでやりとりするだけではダメで、まず会って話してみる。そういう意味では最近はとてもつながりやすくなっています。」

男気(オトコギ)のある人

藤代さんと同じく、私も社会人になって最初の仕事は「ジャーナリスト」でした。やはり私もなりたくてなったわけではなかった。受かった会社がたまたま報道を(も)する会社でした。94年に入社し95年に阪神淡路大震災が発生し現地取材を経験しました。瓦礫の合間を縫うように取材活動をしながら、何とも言えない無力感を感じていました。あれから16年が経ち、再び震災に見舞われた今年、今度は無力感とともに焦燥感を感じています。また今度も何もできないのではないか。藤代裕之さんとお話しできて良かったです。彼は間違いなくNGOな人(Non- Gaman Optimists)でした。