片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)奇跡なのか? 都市伝説なのか?
「無名」の「大人気」アーティスト

(2011.08.11)

コラム「NGOな人々」とは、”Non-GAMAN-Optimist”(今の世の中に、とにかく「ガマン」していられず、チャレンジをし続け、決して諦めない「楽観人」)を、毎回インタビューさせて頂き、コラム形式でご紹介していく新連載企画です。第3回はミュージシャンの高井俊輔さんです。

■高井俊輔 プロフィール

高井俊輔(たかい しゅんすけ)1981年生まれ。静岡県浜松市生まれのシンガーソングライター。Street Music Records所属。エレクトロニカ、ファンクの要素を取り入れたJ-POP×ダンスビートの曲が特徴。2011年2月にfacebookページでデモ音源を公開したところ、世界各国のマイケル・ジャクソン、LADYGAGA、OWL CITY、MIKAファンらの絶賛を集め、同年6月2日には、X JAPANのYOSHIKIのファン獲得数を抜き去ったことがYahoo! トップニュースに掲載される。

2006年8月 1stデモシングル『スクラッチ・ノイズ@ne.jp/おりこうさんごっこ』リリース。
2007年10月 1stデモミニアルバム『ストリートMIXTAPE19』リリース。
2009年2月25日 1stミニアルバム『フレッシュでクールでキュートでクラッシュなジーパンでデジャヴュ』全国発売。アルバムには田渕ひさ子、クレイジーケンバンドのメンバー、BACK DROP BOMBの 篭橋俊樹らが参加。
2009年4月22日 iTunes storeにて全楽曲の世界配信開始。
2011年2月 facebookページ開設。
2011年6月2日 Yahoo! トップニュースに高井俊輔の特集記事が掲載される。
2011年7月6日 1stフルアルバム『DANICING BOY DANCING GIRL』日本国内盤発売。


2011年6月9日、「無名歌手がfacebookで人気に」という見出しのニュースが全国を駆け巡った。日本国内ではなく、海外の利用者を中心にアクセスが急増加。この報道によれば、5月6日時点でのファン獲得数は46075件にのぼったという。(第1位は坂本龍一84938件。第3位はYOSHIKIの19989。)日本人アーティストとしては世界で第2位。(8月9日現在は81749件)このアーティストの名は「高井俊輔」。ご本人には大変失礼だが、「坂本龍一」「YOSHIKI」のビッグネームと比すれば、「高井俊輔」の名は確かに「無名」である。「無名」で「大人気」のアーティスト、高井俊輔さんにお会いしたいと思った。

変わった「世界デビュー」ですね

「こんな形での『世界デビュー』になるとは思ってもいませんでした。大学生の頃から楽曲を作り始めました。ある日、メジャーレーベルのディレクターから連絡を頂きデモのやりとりなどが始まりました。育成アーティストのような立場になり、もしかしたらメジャーデビュー出来るのではないかと順調に話は進みました。ところが音楽業界には大変なことが起き始めました。CDがあまり売れない時代になり、レコード会社はどこも大変革が必要になったのです。社内では社員数のカットや人事異動があり、僕の担当だったディレクターも岐路に立たされました。大ヒットではなくてもいいからと、良い音楽を一緒に作っていきたいと思ってくれていた人だったのですが、『売れる』ことがまず最優先とされる時代になりました。アーティストを長い時間をかけて育てていこうという志あるディレクターも、僕のような若いアーティストにも、色々な決断が迫られました。

僕はゴッホの絵画が大好きで、たった1枚しか売れなかったとしてもその作品には価値があると信じています。音楽も同じです。ゴッホと同じように才能があっても時代やタイミングが合わず埋もれていってしまった芸術家たちも多いと思います。でも彼らの『魂』は永遠だと信じています。自分が信じた音楽を、自分が信じた人たちと一緒に作っていけないだろうかと思いました。

すると音楽業界では『変わり者』と思われているような人たちが集まってくれました。みんな今の業界の在り方に危機感を持った人たちでした。『今なら逆にこういう方法があるぞ』『ああいうことはできないだろうか』といったことを考え始めました。その結果、現在のマドンナやポールマッカートニーやプリンスのような、アーティスト主体での音楽活動をしていくことになりました。『異端児』たちが力を合わせて、大きな組織にはできないチャレンジができると信じています。」

どうして急に人気に火がついたの?

「たまたま僕の周りにいた外国人の友達がfacebookを教えてくれました。『何でやらないのか?』と言われ、最初は『何それ?』という感じでした。外国人がやるものとだ思っていました。気がついたら自分のページができていました。次第に周りの友達もやり始め、『デモを公開してみたら?』といわれ、お金をかける大きなプロモーションはできなかったので、とりあえずチャレンジしてみました。まだデモ段階の完成前の音源を公開して、楽曲が出来上がるまでの過程を全て見せてしまおうと思ったのです。外国人の友達が『いいね!』を押し始めると、すぐに30人くらいになりました。それが火がつくきっかけでした。僕の周りには日本にきている留学生が多かったので、日本文化、アニメ、JPOP好きなど、似たようなタイプの人たちが集まっていました。日本のアニメに出てくる男の子にキャラクターが似ていると言われ、『Cute!』とか『KAWAII』などと書き込みが続きました。海外ではJ-POPに対する最大限の褒め言葉のようです。こうしてファン数が急激に増え続け、最近では、メキシコ、ロス、フランスなどからもコメントがつきます。『海外でのフェスに出演しないか?』などと直接誘われることもあります。」

プロモーションビデオ面白すぎます

「前回のアルバムでは渋谷のセンター街でゲリラ的にダンスを撮影してプロモーションビデオとしてYouTubeに公開しました。(渋谷ゲリラDANCE “Guerilla Dance Party in Shibuya”)元々はダンサーの友達から、『こういうことやりたいけど曲を使ってもいいか?』と言われたのがきっかけでした。こういうゲリラ的なお金のかからないやり方が好きな人たちが次第に周りに集まってきました。YouTubeの映像をみた人が次々にfacebookにコメントを書き込んでくれました。あまりお金を使わないでできることは、こういう手法しかないのですが、結果的にインターネットを使ったことで、ネットがミュージシャンとファンとを直接つないでくれました。こうした形でないと僕のようなミュージシャンは絶対に世に出て来られなかったと思います。」

医者か?ミュージシャンか?

「中学生くらいから洋楽が好きでした。バンドをやりたくて軽音楽部がある高校を選んだくらいです。バンドではギターとボーカルやっていました。文化祭や運動会を積極的に行う学校でした。3年間好きなバンド活動をやり、浪人してからは医者になろうと東京の予備校に通い下宿生活を始めました。医者を目指すか音楽を続けるか悩みましたが、音楽を選ぶのは『危ない人生』を選ぶことだとその時は思いました。周りの同級生はこのような道を選びません。僕が『医者を目指す』ことにはもちろん誰も反対しませんでした。」

「浪人生」と「浪人生」の出会い

そんなもやもやした思いだった浪人中に出会った人がいます。それまでの18年間では出会わなかったタイプの人でした。当時28歳で大学を出てIT企業に4、5年勤めた後、医者になることを目指して大学を再受験しようとしている人でした。その人と話をしているうちに、『本当に医者でいいのか?』と自分の心を疑いました。そして本当の心が見えてきました。『音楽やれ。医者なら再受験すればできる。音楽は今の自分でないとできない。』自分自身の本当の気持を誤魔化してはいけないと思いました。その人と出会わずに受験勉強を続けていたら、今頃は医者になっていたかもしれません。」

これからどうします?

「多くの海外の人たちに自分の音楽を聴いてもらってコメントもらった経験などなかったので、全く予想さえしなかったのですが、友達から『すげー』と言われたり、街を歩いて声をかけられたりして、初めて嬉しさを実感しました。そのうち次第に日本人としての自覚が現れました。『自分は日本人なんだな』と改めて自覚し良い意味での日本への愛情が沸いてきました。今後は、せっかくチャンスを頂いたので、日本の文化を世界に伝えていきたいです。

今までは日本で売れて、武道館のような大きいところでライブをやってから初めて海外で行うというのが普通でしたが、日本でヒットさせるという常識ではなく、最初から世界を目指したいです。自分自身が良いと思うものを良いと思ってくれる人が世界のどこかに必ずいます。音楽で世の中を変えるなどとはあまり考えていません。聴いてくれた人ひとりひとりの『心』が変わり、世の中が変わることがあるのだと信じています。

みんなにとっての『正しい』はない時代です。ひとりひとりにとっての『真実』があります。僕は僕自身が生きてきた中の真実を正直に伝えていくしかない。そこから何かを感じ取ってもらいたい。歌いたいと思ったことを伝えて行きます。自分の人生の答えを自分で出していきたい。100年後、1000年後にも聞いてもらえるかもしれない普遍的な価値のある曲を歌っていきたいです。」

時代との闘い?

「大手レコード会社でお世話になった方に『もう5年早かったらもっとガンガンできたのに。今の時代にはちょっと……。』と言われた時は正直悔しかったです。何でも時代のせいにしてしまうと尊厳が失われます。何らかの別のやり方があるはずです。旧来の音楽活動のように、じっくりアーティストを育てていくというやり方がもう通用しない。今はそんな余裕がない。売れる物だけを作っていく。僕がその世界に入っていくことは難しいことだと思いますが、今は周囲に恵まれ、音楽作りに関してはかなり突っ込んだ活動ができます。でもそこから先が難しい。

今までの音楽ビジネスとは違ったことをどうやっていくか。ミュージシャンが自宅で作った作品を自分で公開できるようなもっとフラットな時代に早くなればいいと思います。僕は丁度過渡期だったので何度も壁にぶつかりました。でも本当の音楽好きはこっそり音楽活動を続けています。決して大スターにはならなくても、じっくりと良いものを作っていきたい人はちゃんといます。僕にとってはかえってチャンスの時代なのかもしれません。ファンになってくれた方には今までの『聴き方』ではなく、新たしい『聴き方』や『知り方』をして欲しいです。

もしも僕と同じように音楽を続けるか、あるいは辞めてしまおうかと迷っている人がいたら、『怖い』と思う気持ちが強ければその人は音楽を続けることは止めた方がいい。『怖い』とは思わないぶっとんでいる人、音楽に対する感受性が強い人だけが続けていければいい。最近、あまり音楽業界に良い話がないですが、情熱のある人たちと出会い、つながり、一緒に階段を上がっていけています。ほんとうに楽しいです。音楽は自分自身の思いを誤魔化さずにやっていける世界です。明日どうなるかはわからないけれど、今を最大限生きていける世界です。」

共時性・偶察力・ソーシャル性

仕事柄、色々なタイプの方とお話しをする機会があります。話し始めて30秒もするとわかるのですが、高井さんは医師になることを目指しただけあって、非常に「ジアタマ」の良い方です。(初めてお会いしたミュージシャンの方にこう言うのは失礼な表現かもしれませんが。)理路整然とした受け答えの中にも、その時にその場で考えたことや、考え直したことなどを自分の言葉で正確に丁寧に表現してくれます。

右肩上がりの成長が続いていた時代ならば、高井さんは会社員として立派に出世し大会社の社長になったかもしれません。医師の道に進んでいれば立派な医師となり活躍されていたかもしれません。ところが高井さんはミュージシャンの道を選びました。音楽業界が低迷さえしていなければ、順調に大手レーベルからメジャーデビューできたのかもしれません。でも「時代」がそれを許さなかった。それが「運命」だったのかもしれません。でも彼は「できない理由」ではなく「できる方法」を仲間たちと一緒に考え続けてきました。そんな高井さんを応援しようと、今度は多くの業界関係者が彼のことが気になって彼の周りに集まり始めています。もしかしたら高井さんはそういう「星の下」に最初から生まれている人なのかもしれません。高井さんにお会いできて良かったです。彼は間違いなくNGO(Non-Gaman Optimists)なミュージシャンでした。