片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)「鉛」を飲んだことありますか?
衆議院議員・石川知裕

(2011.10.04)
photo / 渡辺 遼

コラム「NGOな人々」とは、”Non-GAMAN-Optimist”(今の世の中に、とにかく「ガマン」していられず、チャレンジをし続け、決して諦めない「楽観人」)のインタビューをコラム形式でご紹介していきます。第8回は衆議院議員、石川知裕さんです。

元小沢一郎秘書、衆議院議員
石川知裕さんとは?

言うまでもなく日本は「報道の自由」が保障された民主主義国家です。メディアが誰に取材や出演の依頼をしても、違法でない限りはいかなる制約も国から受けません。一方、日本も批准している国際人権規約では「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。」と明確に「推定無罪の原則」を保障しています。しかし、どういうわけか、地上波テレビなどでは、いったん刑事被告人となった人物のことは、その裁判に関するニュース枠以外で(討論番組のゲストや情報番組のコメンテーターとして、あるいは出版した書籍の著者として)は、通常は出演させようとしません。これはどうしてなのでしょう?

2011年8月30日。国会で内閣総理大臣指名選挙が行われ、民主党代表野田佳彦が第95代内閣総理大臣に指名された歴史的な日に、石川知裕衆議院議員(元小沢一郎秘書)にお会いして近況を伺いました。

■石川知裕 プロフィール

石川知裕(いしかわ・ともひろ)昭和48年、北海道足寄町で生まれ。早稲田大学在学中に小沢一郎事務所入所。
書生として小沢一郎代議士の自宅に住み込みで車洗い、庭掃除などしながら大学に通う。平成16年民主党十勝の衆議院議員公認候補(北海道11区)の公募に合格。平成17年衆議院選挙(落選)平成19年に繰り上がり当選。平成21年2回目の当選。2010年1月、小沢秘書時代において陸山会事件に関し、東京地検特捜部から政治資金規正法違反で公設第一秘書の大久保隆規や元私設秘書らと共に逮捕。2010年2月、東京拘置所から保釈。民主党離党。7月『悪党―小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)を出版。2011年9月26日、第1審の東京地裁で禁錮2年執行猶予3年の有罪判決が言い渡されたが、控訴の予定。尊敬する人は小沢一郎と斉藤隆夫。座右の銘は不撓不屈。

photo / 渡辺 遼


なんとか田舎を元気にできないか、
という思いで政治家に。

ー小沢一郎氏の秘書になって後悔は?

「『秘書になって後悔していますか?』と聞かれると、後悔していますね。後悔の理由は2つあります。ひとつは秘書になる前に社会人経験を踏みたかった。普通の会社に入って政治とは別の世界の勉強をしてみたかったです。今でも言われて辛いのは、『サラリーマン経験がない』と批判されることです。これは後悔しています。もうひとつは、政治家秘書ではない別の道から国会議員になっても良かった。『小沢さんの秘書』になったことについては後悔したことはないです。それは運命ですから。ただ、マスコミとか一般の会社に最初は勤めてもよかった。そうすれば、結果として逮捕されることもなかったわけで、そう言うと、結局、小沢さんの秘書になって後悔しているのかってことになるんですけど(笑)。」

ーそもそも、なぜ小沢氏の秘書に?

「小沢さんの秘書になったきっかけというのは本当に偶然でした。大学を留年したので、就職活動のための求人票が全く来なかったのです。それで、自分で求人票を出して職を探していると、たまたま当時、小沢さんの秘書だった方から連絡を頂いて、自由が丘のイタリア料理店に呼んでいただきました。『書生やってみないか?』と言われました。これも縁だなと思って、一晩考えて即決しました。」

ー政治に興味があったのですか?

「私は北海道の足寄町生まれです。面積が日本一広い町です。スクールバスの台数が日本一多い。面積は1400平方キロメートルで、香川県より少し狭いくらいですが、それだけ広いのに人口はわずか8000人くらいです。とにかく過疎が激しい町です。商店街の店がどんどん廃業して消えていくわけです。こういう店を糾合してデパートのような複合商業施設を作った方が近隣の客を呼べるのではないかなどと、子供心にもいろいろ考えたりしましていました。

でも、大きな店が進出してくると、現実には商店街の小さな店舗を席巻してしまうのです。政治家になった理由はなんとか田舎を元気にできないかという思いでした。物心ついた頃は中曽根さんが総理大臣でした。高校を卒業するくらいから徐々に政治に興味を持ち始め、経世会分裂。新政党結成と、まさに第一次政界再編の時期でした。小沢一郎さんは自民党の幹事長として活躍されていました。小沢さんの持つ『自分にないもの』に惹かれたのかもしれません。」

『悪党―小沢一郎に仕えて』は朝日新聞出版より出版。 1,680円(税込) photo / 渡辺 遼
『胆力』がついた
書生時代。

ー「自分にないもの」とは?

「彼の持つ『豪腕』さです。『無口』で『強面』なところでもあります。」

ー石川さんは小沢さんと違うタイプ?

「自分はいわゆる『豪腕』ではありません。全くの調整型です。『和をもって尊しと為す』タイプといいますか、そうじゃないと小沢さんの秘書はまず勤まらないです(笑)。ただ、小沢さん自身がどういう人間が好きかというと、私みたいな人間ではないですね。無口でコツコツ働く人の方を小沢さんは好みます。政界再編期にあって、日本が二大政党制に向かっていくと言われていました。やがて小選挙区制によってそれが実現するわけです。政治を変えていくという力、『豪腕』に物事を解決していく能力では小沢さんが抜きんでていました。彼のそういう点に惹かれました。」

ー書生時代は苦労しましたか?

「書生時代には大変な苦労を強いられました。一方で、自分がどんな立場になっても『俺はこれだけ苦労してきたのだ』と腹に据えて立ち向かっていく『胆力』がつきました。色々な人と接して、並大抵以上の苦労をしてきたという自信があります。それだけの自信を持たせてくれたのが書生時代でもあります。『鉛を飲む』ということ、これを教わらないと常に自分が良い子ちゃんになっていたら、組織や社会は回らないということを学びました。」

ー「鉛を飲む」とは?

「例えば、私が小沢さんから怒られて、でも実際は先輩がやったことだったりします。『それは私じゃありません』と言っても小沢さんはそれを聞いたまま、ずっと黙っていました。私が原因を突き止めて『何々先輩がこうやったみたいです』と言ったら小沢さんはムスッとしていました。『そうじゃないんだ』と。『そんなことでいちいち時間を使って身の潔白を証明してどうするんだ』と。小沢さんはそういう気持ちだったのかもしれません。」

ー立候補を決意した時、小沢氏は?

「小沢さんからは、『立候補をするっていうのは、周りから求められてするものなんだ。』『公募で落ちたらどうするんだ?』って言われました。『その時は仕方ないです』って答えたら、『バカ野郎! お前だけじゃなくて俺が恥をかくんだ。すぐ引っ込めてこい』と言われ、結局、引っ込めさせられたことがあったんです。これは初めてメディアで言うのですが、私が選挙に立候補すると、事務所としては、私の代わりに新しい人間を育てなくてはいけません。私には後輩もいたのですが、小沢さんは、『石川に教えたことを、また俺が一から他の人間に教えないといけないのか?』と。人を育てるという視点で考えると、普通の企業は社員を一人前に育てるまでに一億円くらい使いますよね。そういうこと考えると、やっぱり私は残らなきゃいけないのかなって思いました。」

「ナンバー2」のポジション

ー大物政治家には例えば、田中角栄にとっての早坂茂三さんや、小泉純一郎にとっての飯島勲さんみたいに、実質、本人の「分身」となって活動を切り盛りする「ナンバー2」とも言われる立場の大物秘書の方がいることがある。そういう立場になろうとは考えなかったですか?

「考えなかったですね。過去にはそういうポジションの人もいましたが、後に小沢さんと袂を分けて以来は不在でした。私は経理の責任者でしたが、小沢さんは、むしろ、そういう決定的なポジションの人間を作らないだろうと私は思っていました。どんなに自分が小沢さんの『分身』となっても、(いま私が38歳で小沢さんが69歳です。あと10年したら48歳と79歳ですよね。)小沢さんだっていつかは引退するわけです。人生で一番実力を発揮できる年齢の時に、私はどこか別の所に行かなきゃいけない。大企業と違って、組織が永続するわけではないので、そういうナンバー2の立場という選択肢は考えなかったです。」

ー政治家への道のりは?

「正直言うと、私は小沢氏の秘書を経て、北海道議会に出馬しようと思っていました。小沢さんところに何年か修行して、その看板で出馬すれば当選するかと思っていました。でも、政治の世界に入って自分の未熟さを思い知らされました。先輩の秘書さんや小沢さんから、政治家になる以前に社会人として必要な基本的なことを沢山教えられました。例えば手紙に『御中』なんて書くことさえ知りませんでしたから。それで20代後半のときにもう立候補やめようと思ったのです。自分は政治家の器じゃないと思いました。ところが、一方で、自分の周りの同僚や後輩たちがどんどん県会議員や市会議員になっていくわけです。綺麗な言葉で言えば、『自分で頑張りたい』と思う気持ちが次第に出てきました。そして、こんなやつらが頑張っているのだったら自分ならばもっとできるのではないかと。」

「20代、30代でこのインタビューをご覧になられている方にお伝えしたいのは、そういう『ハングリー精神』って非常に重要だと言うことです。あとは、『自分』という商品が売れるかどうかマーケティングしなきゃだめだってことです。政権交代で自民対民主になったときに、私は絶対選挙で勝てると思って飛び込んでいきました。」

まずは訪問からはじまる
政治献金集め。

ーところで政治献金ってどう集めるの?

「自分が売る『商品』の、ベストポイントを調べるということからですね。小沢さんの場合、ひとつは『保守層にうける』ということ。そしてもうひとつは『岩手県出身』ということ。だから、東北出身の方などにどうやってパーティー券を買って頂くかが『営業』のポイントでした。私は会社四季報の一部上場の企業を全部コピーし、そこに書き込むのではなく、自分で作ったA4の紙に一枚一枚貼り付け、下に書き入れる欄を作って『何月何日訪問』だとか『岩手県出身の社長がいる』とか『岩手県に営業所があった』とか、徹底的にそういう情報を調べてとにかく細かく書き込んでいきました。そして、まずは訪問するわけです。」

ーひょっとして「飛び込み営業」ですか?

「もうこれは、ほぼ飛び込み営業でした。政党の党首の秘書が飛び込み営業するわけですからびっくりされることが多かったです。中には、『うちはシェア60%だから政治家と付き合わなくていいんだ』という会社もあり、勉強になりました。そうか業界のシェアとか調べてから、頭に入れてもう1回行かなきゃいけないなと思いました。『こういうのはアポイントとってからきなさい』と怒られたこともあります。営業成績のことなどで苦戦して悩んでいる若い世代の人には、まず『知恵を絞る』ということを知って欲しいです。この地獄の苦しみを経て初めて成果があがります。成果をグラフにしておくことも大切なことです。これが自分の励みになる。何社回っていくらという表を自分でエクセルファイルを作りました。心が折れそうになった時に、この表を見て、自分はこれだけ頑張ったと。」

評価というものは常に他人によるもの

ーバッシングされてますが平気ですか?

「今日も岩手の修学旅行の学生がやって来たのですけど、学生と私が接触するのを町の教育委員会の人が良く思わなかったらしい。『そんな問題のある議員の所に行って』と。私も改めて世間からそういう目で見られているのだと実感しました。こっちは無罪を信じて戦っているのに。残念ではありますけど第三者の目から自分をみないといけないと思っています。評価というものは常に他人によるものなのだと。

しかし、よくびっくりされるのですが、大学などに講演に行くと、『こんなに喋る人だったんですね』と驚かれることです。地上波テレビに映る私はいつも『静止映像』ですよね。拘置所から出てきてフラッシュがパッとたかれてストップモーションがかかっている(笑)。」

「日本は起訴猶予がだいたい4割くらい。だから『起訴=有罪』のイメージが出来上がってしまっています。それがいちばん大きな問題だと思います。社会全体が『起訴=有罪』と認めてしまっている。これでは裁判所の意味があまりありません。」

ー発言には気を付けているのですか?

「例えば、もし仮に私が検察を批判したとします。メディアを通すとその中のワンカットだけが使われることがあります。検察も人間で感情の動物ですから、冷静に話していかないと感情同士がぶつかってしまいます。結局、田中角栄さん以来の『怨念』が続いています。特捜部のそれぞれの人たちのことが憎いわけではないのです。そうした体制にどうしてなってしまったのか。新しく検事総長に就いた笠間治雄さんが組織の体質そのものについて発言されていますが、通常、特捜部というものは公正取引委員会だとか、国税だとか、横のつながりで持ち込まれた事案を捜査するもの。これからは独自捜査を縮小していくのではないでしょうか。

これまでの特捜は独自捜査にこだわって、何が何でも大きな事件をあげなければいけない。成果をあげなくてはならない。『よしやってやろう』という成果主義が問題でした。だけど、こうした話の流れのなかの一部だけが編集されて使われて『石川が検察批判』のようにならないようにするという配慮はこれまでもありましたし、今でもそういう配慮をしています。」

政治力とは多くの議員の賛同を得て
投票してもらう力

ー小沢氏とは今でも内々に連絡を?

「全くとっていません。5月30日に本のインタビューに伺って以来、1回も話をしていません。ただ、小沢事務所にはよく行きます。秘書を通して報告をしなければいけないことはあります。例えば小沢さんの支援者が小沢さんに直接合う機会って少ないじゃないですか。だから私のところに来られて意見をおっしゃって帰る方も現にいらっしゃる。そういう方からこういう意見がありましたとか、こういう相談がありましたとか。秘書を通して世話をしたりはしています。」

ー民主党に戻りたいですか?

「民主党かどうかっていうのは別にして、やっぱり政党の中に戻って活動をしたいと思います。政治家の究極の目標って、やっぱり総理大臣になって自分の思ったとおりに国を動かすことです。でも、そういうのはほんの一握りの人間です。そうすると、大臣、副大臣、あるいは政務官…として、議院内閣制ですから行政の中に入って国家を動かしたい。それは政党の中に属さないと議院内閣制では無理です。だから政党に属したいと思っています。」

ー結局、権力を握りたいのですか?

「小沢的な手法っていうのは非常に批判されます。私はあえて問いたいのですが、『政治力』って何ですか?『政治力』っていうのは(これは私の解釈ですけど)実際に『政治を動かす力』のことです。『政治を動かす』というのは、『権力の配分』と『結果』です。『権力』とは何か? ひとつは『税金の配分』を決めること。もうひとつは『法律の改廃』のこと。そのためには衆議院と参議院がそれぞれ法律案を通さなければいけません。そして、行政の裁量もありますから『行政』をどうやって動かすかということになります。やっぱり『政治力』っていうのは、『多くの議員に自分の考えに賛同してもらって投票してもらう力』ということになります。そうするとやっぱり政党の中に入って活動しないといけないのです。」

合理的保護主義を
世界全体で考えていかなければいけない

ー日本をどういう国にしたいですか?

「地域が元気にならないと、日本全体豊かにならないと思うのです。大学だとか公共機関だとかもっと田舎にもっていかなくてはいけないと思います。アメリカでは民間企業の上位50社のうち45社がニューヨーク以外にあります。ニューヨークにあるのはわずか5社だけです。あとは全部地域経済につながっている。各地域で大学と産業との連携がとれています。

ところが日本は上位50社中38社が東京に本社があるのです。これは一極集中し過ぎています。そのあたりをなんとかしたいなと思います。それなりに地域で暮らしていけるようなそういう世界にしなきゃいけないと思っています。もうひとつは、昔は『一億総中流社会』っていわれましたけど、その格差が大きくなってきています。今、私が注目しているのは、フランスの学者でエマニュエル・トッドという社会人類学者が唱える『合理的保護主義』という考え方です。

2002年から2006年にかけて、確かに日本の景気は上向いているのに、平均賃金の方は下がっている。どこかで合理的保護主義っていうのを世界全体で考えていかなければいけないと思うのです。どういう社会作りをしていくか。所得税の累進課税をある程度高めていくべきだと私は思っています。」

「中国のGDPが米国のGDPを抜く日は近いです。国連否定論者の方の多くは、要は日米同盟なのだと言いますが、今後は中国やインドなどの意向を無視して東アジアの安定は得られません。国連では今5カ国に拒否権が課せられていますが、なかなかこれを変えるのは難しい。現実問題としてやはり国連を中心にしつつ、ものごとを進めていかなければならないと思います。」

ー小沢さんの政治思想の影響ですか?

「そうですね、影響を受けています。実は、小沢事務所では政策に関わる仕事っていうのはほとんどやらなかったのですよ。小沢さんの日程調整や選挙のこと、政治資金のことがほとんどです。小沢一郎というのは常に政党の党首でしたから、小沢一郎個人の政策ではなく、常に党の政策でもありました。イラク戦争が起きた時に、小沢さんは自由党党首でしたが、日米安全保障条約、国連憲章、日本国憲法これを比べて表を作るといった機会を与えられました。次第に文章の添削なんかを多少は任させるようになりました。そういった経緯もあり、小沢さんの安全保障面での考え方の影響を受けています。」

今、もの凄く凹んでいる人がいたら、
『そんなに気にすることないよ』と。

ー今、検察に対して思うこと

「最終的に自分が有罪になるか無罪になるかわかりません。ただ、最近、特捜部が扱う事件というものの『ハードル』があまりに下がってきているということは否めません。

例えば私が水谷建設から5千万円もらったなんてことを水谷建設が言って、それを検察が信じています。今時、これだけ入札価格が下がってきて、建設業者がばったばったと倒れる中で5千万円も持ってくるなんて現実的には私には考えられない。収支報告書のいわゆるミスというのは誰にでもあることなのですが、それなのに、そこを結局『やる』っていうのは、検察の恣意的なものでしかないと思うのです。

私は先ほど検察の『成果主義』についてお話ししましたけど、村木さんの事件で有名になった前田さんもそのひとりだったのかもしれません。『上司の期待に応えたい』『世間から喝采を浴びたい』ということなんです。特にそれが特捜部には強かった。検事さんと副検事さん全部あわせると2千人くらいいるのですが、そのうちの40人しか東京地検特捜部はいないのです。新しい検事総長が月刊誌かなにかで、検察の改革について答えていました。あとは正しい方向に進んでくれればいいと思います。ただあまりにも改革しすぎて『凶悪を逃した』とは言われないように。」

ー逮捕されて凹みましたか?

「逮捕された直後はすっきりしたいと思いました。もう政治家も辞めたい。なんもかんもやめて、デンマークあたりでも行きたいなって。まったく違うところで、酪農や農業に興味もあったのでそういう分野を勉強して、もう1回政治の世界にもどってもいいし、企業人になってもいいと思いました。でも地元にもどった時に、地元の会場に1500人を越える人が集まってくれて、『石川がんばれ』と集会をやってくれたんです。こういう人たちを裏切ることできないなと思いました。こういう人たちは私の無罪を信じてがんばれってやっているわけだから、少なくともそれまでは自分も頑張らなくてはと。

もしも読者の方の中に、何かの理由で、今、もの凄く凹んでいる人がいたら、『そんなに気にすることないよ』と、僕はそういう方たちに言ってあげたいですね。私だって、街を歩いていて、これだけテレビや新聞で報道されても、『石川知裕』だと気付く人はそんなに多くはないわけです。私にしてみれば、みんな自分のことを『汚いやつだ』『嫌なやつ』とか思っているのではないかと思っても、そうでもないのです。逮捕された直後は、それは私も凹みましたよ。でも、実際は、人間みんな自分のことだけで精一杯なのです。」

■■インタビューを終えて■■
NGO(Non- Gaman Optimists)な人

私は司法や政治について詳しいわけでもなく、そもそも石川知裕さんが関わったとされる事件がどういう事件で、今後どうなっていくのか、詳しくはわかっておりません。私が興味を持ったのは、私とほぼ同世代の石川さんが、いったいどういう方なのかというその1点でした。直接、お話を伺うこともなく勝手に批判したり、刑事被告人だからといって無視したりすることは誰にでもできることですが、私はそういう人間が嫌いです。直接お会いした上で相手を理解しようとすることの方が、はるかに難しいことだと思っております。

私は都会生まれ、都会育ちです。私にとっての「故郷」の思い出とは高度成長期の都会のコンクリートの壁に囲まれた父の勤務していた会社の社宅の敷地中での出来事です。石川さんと世代は近くても、石川さんが心に抱く「故郷」とは恐らく全く異なる「故郷」の原風景が私にとっての「故郷」です。ただ、石川さんにとっての「故郷」(自然豊かだが過疎の進んだ)は、私の父にとっての「故郷」と近い故郷の姿なので、私にはどういうものか容易に想像がつきます。

昔も今も「格差」は日本に存在しています。「格差」が存在することが問題なのではなく、お互いの持つ想像力ではカバーし得ないほど「格差」が開いてしまうことが「格差問題」の本質かもしれません。

相手を「理解する」ということの難しさをつくづく感じました。一方で「対話をして相手の気持ちを想像する」ということの大切さも感じました。この場が、多くの方にとっての「対話」と「理解」と「想像」の場になっていけばと考えております。この日、石川知裕さんにお会いできて本当に良かったです。

photo / 渡辺 遼