片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)縛られながらこぼれ落ちるもの
女優・神野三鈴

(2012.03.01)

「NGOな人々」”Non-GAMAN-Optimistとは「ガマン」していられず、チャレンジをし続け、決して諦めない 「楽観人」。NGOな人々へのインタビュー第14回は、三島由紀夫作、野村萬斎演出『サド侯爵夫人』でシミアーヌ男爵夫人を演じる女優の神野三鈴さんです。

日本の現代戯曲作品の最高峰と言われている三島由紀夫の『サド侯爵夫人』が、狂言師であり俳優でもある野村萬斎の演出でこの3月に世田谷パブリックシアターで上演される。『サド侯爵夫人』は18世紀のフランスを舞台に、「サディズム」という言葉の由来にもなっているフランス革命期の貴族マルキ・ド・サド(サド侯爵)について、6人の女性が語り、人間に潜む闇を描いた作品である。肉体的快楽をも肯定し、暴力的ポルノグラフィーを含む作品として、初演の1965年には、あまりに過激で衝撃的な内容として単なる”公演”を超えて”社会現象” “事件”として受け止められた。

この注目の舞台に、サドの幼なじみのシミアーヌ男爵夫人役で出演される女優の神野三鈴さんに、お話しを伺った。

■神野三鈴 プロフィール

1966年、神奈川県生まれ。女優。舞台を中心に、テレビ・映画・CMなどでも活躍。近年の出演作は、舞台『組曲虐殺』『トップガールズ』『欲望という名の電車』『人形の家』、フジテレビ『Dr. コトー診療所』、WOWOW『Strangers6』(レギュラー出演中)。CM『サントリーニューオールド~会社帰り編~』『スイートテンダイアモンド』に出演。「サントリーニューオールド」のCMでは長塚京三と共演。人混みの中で後ろを振り返りながらの「若い子はもういいんです」という艶のあるキャッチが話題となった。ご主人は世界を股に掛けてご活躍のジャズピアニストの小曽根真氏。
神野三鈴オフィシャルサイト

『サド侯爵夫人』
作:三島由紀夫 演出:野村萬斎
出演:蒼井優、美波、神野三鈴、町田マリー、麻実れい、白石加代子

東京公演:2012年3月6日(火)~20日(祝・火)
@世田谷パブリックシアター

大阪公演:2012年3月24日(土)〜25日(日)
@梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ


All pohotos / 渡辺遼

常に「正論」をいう
シミアーヌ男爵夫人。

この作品の主人公はあくまでサド侯爵夫人(ルネ)だ。サド侯爵はどこにも登場しない。ある日、サド侯爵夫人の母親の元に「悪女」と「聖女」のような全くタイプの異なる2人の女性が現れる。変態的なSM行為が発覚し、追われる身になったサド侯爵の件で相談に乗るためにやってきた。この「聖女」のようなタイプの女性が神野さん演じるシミアーヌ男爵夫人である。

―シミアーヌ男爵夫人はどんな役ですか?

神野 最初は読んだ時には、「わあ、つまんない! この役一番つまんない!」と思いました。(笑)言うことが全て正論ばかりで、わざわざ言わなくてもいいのではないかとさえ思いました。きっとお客さんも耳が休んでしまうだろうなと。聞かなくてもシミアーヌ男爵夫人の言うことは「神」の意思のように、常に「正論」なのでだいたいが分かってしまうから。

―「正論」を語る「聖女」(神)のような役はむしろ難しいのでは?

神野 今、私たちは「信仰」というものにそんなに自分たちの日常を脅かされてはいません。神の存在が昔ほど人々の生き方に影響を及ぼしてはいない時代に、いったいどうやってリアリティをもたせようかと色々と考えました。でもそれだったら萬齋さんは、私じゃなくてきっと見ただけで清純で清らかな別の方をキャスティングしたと思うのです。だから、きっと萬齋さんの狙いは他にあるのかなと思いました。

―キャスティングの「妙」ですか?

神野 私は狂言を見ていてよく思うのですけれど、太郎冠者や次郎冠者などみんな私たちの中にある感情と同じ感情の側面を持っていて、その部分がデフォルメされています。だからこそ笑えるといいますか。「型にはまった人」(=シミアーヌ男爵夫人)というのがどれだけ滑稽で、同時にどれだけ自分自身にも近いものがあるのか、そういった部分を面白く出していけたらいいなと思います。人間には自分達の姿を見て笑ってしまうようなところがあります。特に自分達の倫理を「脅かすもの」に会った時に思わず拒絶してしまいます。そういう誰もが持っている自分の中にもある部分を笑う、という所まで持って行けたらいいなと思います。

***

―野村萬斎さんが今回の作品の記者会見で“言葉による緊縛”というキーワードをおっしゃっていました。具体的にはどういうことですか?

神野 もう既にロープが2、3本「キュっ」と締め付けられています。(笑)狂言などの日本の伝統芸能には、歌や台詞や音などに伝承される、決まった「型」があります。萬齋さんは非常に音に敏感な方です。三島と三島の作品を、ただ感情だけで「ワーっ」と勢いよく語ってしまっては、三島の言葉の持つ世界の本当の美しさや煌びやかさ奥深さなどが伝わりません。三島由紀夫という、ある「大作曲家」がいて、台本の中には彼が選び抜いた美しい音(言葉)の数々が散りばめられています。そこで何故その音を選んでいるのか、なぜ三島はここでもう1つ余計な装飾語を加えて表現したかったのかなど、三島由紀夫の言葉の楽曲をまずはしっかりと伝えるためのハーモニーを生み出しそうとされていらっしゃる。

―「緊縛」=「ハーモニー」ですか?

神野 三島由紀夫の台本をオーケストラのスコアだとすると、正しい音というものは一体何なのか。つい感情で読み上げそうになる時に、鞭が飛んできて(本物ではないですが 笑)「そんなに素晴らしい」なのか「そんなに素晴らしい」なのか、「わたくしの心の中に…」ではなくて「わたくしの心の中に…」なのかとか、役者たちの「言葉」が自由に飛んで行こうとすると「キュっ」と縄で縛られていくわけです。だからそれを私達はすごく束縛だと感じて嫌がるのか、そうではなくてその縛られた状態の中で何を感じて演ずるのか、こぼれ落ちてくるものが何なのかというようなことを、今、まさにやっております。

―「縛り」に耐えられますか?(笑)

神野 私はずっと自由に野放しで生きてきたので、自由にやった方が豊かに表現できるだろうという思いも勿論あるのですけれど、萬齋さんのおっしゃるとおり「この場所だからこの形で表現できる」という萬齋さんの考えた「三島」の世界がある。だから三島と萬齋さんを相手に、私達は「キュっ、キュっ」と、縛られていくのです。(笑)

サド侯爵夫人ルネの選択と
豊潤で美しい「言葉」

―どうして、今、この作品なのでしょう?

神野 いくら現代が自由な時代だと言われても、結局、今度はその現代というモラルの中で人は縛られていきます。「これはいけない」「あれもいけない」と。この作品はサド侯爵の物語ではなく、あくまで夫人であるルネの物語なのですが、1つはルネが最後にどういう選択をするのかという点が、この作品が現代に突きつけているものだと思います。もう1つは、日本語の美しさです。「言葉」というものがどれだけ豊潤で美しいのかという事を萬齋さんは観て頂く方たちに伝えたいのではないかなと思っています。

ルネが最後にサド侯爵の元に戻らないという選択が、僕には全く理解できませんでした。

私も若い時はサド侯爵夫人を読んで、なぜルネがサド侯爵の元に戻らなかったのか、その部分については分かりませんでした。でも、今回、読み直してみて、これは私たち役者の責任なのですけれど、最後まで観劇して下さって、蒼井優さんや私たちや台詞も含め、皆さんに分かってもらえると思っています。その代わり、それはある意味とても「怖い」話になると思います。

―「怖い」ですか?

神野 大きな声では言えないですけれど(笑)ちょっと極端なくらいの長台詞が途中にそれぞれの役にあります。聴いているうちにその世界に連れて行かれ全く違う価値観が始まります。でも自分自身の中に6人の女たちの世界観全てがあるんです。もしかしたら本当は登場人物では6人ではないのではないか。では「サド侯爵」とは一体、何なのだろうと。全く別の世界を覗いてしまう事って、その当時のサドが生きてきた時代ではすなわち「タブー」でした。でもそんな自由(タブー)って、結婚して旦那が死んだら修道院に入らないといけなかった女の人たちにしてみたら、まるで童話のようにすごく楽しかったのではないかとも思います。

―三島由紀夫が赤塚不二夫の漫画を絶賛している理由が少しだけ分かるような気がしてきました。「これでいいのだ」という(破壊的な)肯定感。

神野 正にそうですね。「賛成の反対なのだ!」みたいな。(笑)12月にテネシーウィリアムズの「欲望という名の電車」の舞台をやりました。彼もゲイである自分に非常に苦しんだ時期があって戯曲を「書く」という事で自らを解放していった人だと言われています。

「虫眼鏡」でなぜ自分の中に男とは違う別の「性」があるのか、やはり最後は三島さんもサド侯爵ではないけど、「肯定したこいつは偉い」という思いがあったのかもしれません。みんなそこまで肯定する勇気はない中で、三島さんにとっては1つの「これでいいのだ」っていう肯定だったんじゃないかって。私もそんな極論を言えるところまでには、まだまだ到達していませんけど。

ジャズマンの夫ともども
アドリブ好き。

―ご主人(ジャズピアニストの小曽根真さん)とステージでよく共演をされていますが、お2人で演技の話などもされますか?「型」や「台詞」の意味を重視する舞台と、アドリブがメインのジャズとではずいぶん違いますが。

神野 彼と私とのセッションは「型の言葉」の部分でのセッションではないと思うんです。もし私が毎日、毎日変わらず「ここで3歩いて」「ここで手を挙げて」みたいな「型」の芝居をしていたら、彼とステージで共演することは不可能なのだと思います。その時感じる瞬間瞬間の「間」といいますか、「今日という日の感じ方」といったライブ感をお互いが掬い上げてセッションするので、観ている方々にとってはびっくりするぐらい、毎日のステージが違うらしいのです。

―「時間」や「間」を共有しているのですね。

神野 彼は動物みたいな人なので(笑)、「リアル」を感じないで、頭で考えてステージに上がると、急にウッと詰まったりするんです。面白いですね。私もやっぱり「生」の芝居が好きなので、主人とのライブでは音がぶつかっても構いません。相手の役者さんが台詞を間違えた時に、フォローするために私がアドリブで何かやろうとしたら同時に主人のピアノも鳴って、2人が同時に入っちゃったことがあります。「ああ、もう邪魔だ!ここは私がやるんだ」みたいな(笑)同じものが2人には聴こえていたのだと思います。

―お笑いのトークみたいですね。

神野 ジャズコミッションのライブっていうのは「会話」です。今聴こえている以外のものは無いのです。今聴こえてきたものが何かってというと、相手が喋ったこと(弾いたこと)で、相手が話し終わった後のソロは、テーマを相手からもらうのです。それが転がってどんどん展開していきます。だから絶対に一週間前に考えたことを話さないんですよ。逆に面白くないジャズっていうのは、もちろんお芝居もそうですけど、一週間前に練習した通りのアドリブでソロを振られたりすると、それは何が言いたいのだろう?何かよほどの哲学があるのかな?みたいな事になってしまうのです(笑)。

ジャズも芝居も目指しているものは似ているのかもしれません。とにかく相手役から目が離せないんですよ。相手が何をやってくるか、その空気を掴むために、自分が何を言うかよりも「聴く」っていうことが大切ですね。

***

―どうすれば即興でお芝居なんてできるようになるのでしょうか?

神野 彼がいつも子供たちに教えるのは、「とにかくまず自分がどんな事を喋ってみたいかを音に出してみる」だと。お母さんの言葉を真似するだけでも構いません。「とにかく喋ってみなさい」と。頭の中や心の中でぐるぐる回っているものはまだ自我じゃなくて、「あ、このコーヒー美味しいですね」とか「ちょっと冷めていますね」とか、文法とか演奏法ではなくて、まず音を出すということからです。ただ音楽と違ってお芝居の即興がすごく難しいのは、全部台詞で即興しちゃうと成立しなくなっちゃいます。だからお芝居の即興というのはすごく信頼できる相手とじゃなきゃ怖いのです。

―即興劇もよくされていますよね

来年もやりますが、大杉漣さんと「象」という芝居を以前やらせて頂きました。他の方たちは台本通りなんですけど、大杉さんと私とのシーンだけはどんどん即興で違うことをやっていくのです。でもそれはやっぱり、私が大杉さんをすごく信頼しているからできることなので、モチーフからは離れずに、ここまで行ったらそろそろテーマに戻ろうかという感じです。

お笑いとよく似ていますね。だって、どんなに面白いネタでも使う場所が生きてないと死ぬじゃないですか。一ヵ月前にメモしたネタが使えるのって、きっと何年保管された後で、ある時にふっとしたタイミングで使えるそういうセンスだと思います。ただネタを拾っておくセンスだけはないと。あと、努力は常にしておかないとですね。

円満の秘訣は
日常生活の何でもない所をとにかくシェア。

―ヤボな質問ですけど、夫婦の円満の秘訣を教えてください

私達、離れている時間が長いのです。今も向こうはフランスに行っていて。今日も「良いインタビューになりますように」とメールが来ていましたけど(笑)

今、私達が大事にしようって心がけているのは日常生活です。日常生活の何でもない所をとにかくシェアしたいんです。それをしておかないと、本当に怖くて。ある日ふとお互い感覚や価値観がズレてしまったりしかねません。日常をシェアすることが難しくなっていて、私たちのような職業ですと「ハレ」のことが多いじゃないですか。コンサートとか本番とか常にハレの状態が続きます。私たちは結婚して18年目ですけれど、若い時は日常生活というものをちょっと雑に扱ってしまったことがありました。特に彼はああいうふうに瞬間瞬間の考えの人間ですからね。私もフワフワフワフワしていますし(笑)だからお互いのやっている事に対するリスペクトっていうのは一番大切だと思うんですけれど、とにかくいっぱい話をすることですね。

たとえ時間を取れなくてもいっぱい話をするようにしています(笑)。時間がないからあまり沢山のものを優先できません。だから色々なものに好かれようとも思っていません。他の外のことよりもまずお互いの報告をしてしまおうとか。お互い分かっているからと思って、ついつい相手のことを一番後回しにしてしまうじゃないですか。でも自分たちの人生の中で、大事なものがそう沢山は出来ないということが分かってきたので。それで何度も痛い目に合ってきたので…。あと、喧嘩する時はもうそれはトコトンです!(笑)

***

―プレゼントを贈ってもらったり、送ったりもするのですか?以前出演されたコマーシャル(「10年目のダイヤモンド」)のように。

神野 以前、私はそういう贈り物とかは要らないって思っていたんです。ちょっと気取っていて。でも、ある時、クリスチャン=マクブライドというベーシストが自分の奥さんにダイヤを買いに行くのに付き合ったことがあるんです。男が「絶対に傷付かない一番高い石を贈りたい」って思っている姿がすごい胸キュンでした。(笑)妻には夫のリアリティとは全く違うロマンが欲しい時もあるんですよ。でも、貰った後はもうどうでもいいんですけど。(笑)

でも、この人が自分で私にあげようと思って買いに行ってくれたんだ、っていう…私ってそれくらい価値がある人なんだと。別にダイヤと比べられても仕方ないんだけど、だけど他に比べる物がないからみんな一番イイって思うダイヤを選ぶワケで。若い時は「私はこんなモノは要らないのよ」ってカッコ付けても、でももらったら絶対に嬉しい。

―妻の気持ちって夫にはしょせんは分からないものなのでしょうね。

神野 ルネの気持っていうのはルネにしか分からない。ただそこが妻であることの「凄み」でしょうね。周りからいくら不幸だ、とか貞淑だとか色んなことを言われたでしょうけど、いくら四六時中一緒にいるような愛人が夫にいたとしても、妻が覗いている世界っていうのは、全く違うんでしょうね。なんでしょうね。

他人が家族になって一緒にやって行くってスゴイことだから。やっぱり奇跡みたいなものです。そう続かないですよ。この人とならイイって思えないですよ。もう何十回ってくらい喧嘩して…もうしょっちゅうですよ。でも、それだけぶつかるのはお互い諦めないからでしょうね。どっちかが諦めたらきっと終わると思うので。でも、今まで、私だけが理解出来ていた夫が、もっと大きな存在になった時に妻はどうするのかって考えると…けっこう怖いですね。

誰もが一度は「タブー」を犯したいと思ったとしても、「常識」(モラル)で
はそれを肯定できませんが、今のような閉塞した時代だと、そうした価値観自体を根底から逆さまにひっくり返してしまいたくなるようなそんな潜在的な欲望がどこかにあるのかもしれません。舞台楽しみにしています。

いつもインタビューの時に思うのですけれど、いくらでも作品についてお話したいのです。でも実際、私たちの仕事というのはそれを舞台の上でお見せできるかどうかが勝負です。舞台の上で出せなかったら、もう何を言ってもしょうがない…(笑)ただ、今、私達が向かっているもの、もしかしたらそんな景色が舞台の上に「見える瞬間」があるかもしれない。どこか心の片隅に置いておいて頂けたら。

■インタビューを終えて

7歳の時に母に連れられて「奇跡の人」という舞台を観ました。もう35年程前のことです。サリバン役は奈良岡朋子さんでした。今でも鮮明にラストシーンが目に焼き付いています。退屈がるのではないかと思って心配していた母の予想に反して「また観たい」と私は言ったようです。以来、毎月のように母は様々な大人向けの舞台に連れていってくれました。もちろんそれが全てではありませんが、広い意味でのエンタメの世界に自分が入るきっかけになりました。母に感謝です。今はネットの時代だからこそ、舞台でしか味わえない生身の人間のライブを味わってみてはどうでしょうか。

神野さんのインタビューからも伝わってくるように、舞台で活躍する役者さんには観る人の人生を根本から変えてしまうパワーを持つ方がいます。神野三鈴さんもきっとそういう女優さんのお一人なのだと思います。

三島由紀夫の戯曲の最高峰の臨みながら、日常(家庭生活)を大切にされる神野三鈴さんはNGOな女優さんでした。