片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)「感情が架け橋を渡るとき」
指揮者 柳澤寿男 、世界の医療団 
パトリック・ダヴィッド

(2013.07.06)

「NGOな人々」”Non-GAMAN-Optimist”とは「ガマン」していられず、チャレンジをし続け、決して諦めない「楽観人」のこと。NGOな人々へのインタビュー第29回目のゲストは、“世界の紛争・災害地域における人道支援”をテーマに、「紛争地域に根強く残る民族間対立を、音楽の力で歩み寄らせることは出来ないか」と取り組んでいる指揮者の柳澤寿男氏、そして、「医療支援が必要とされている地域がある限り」スタッフ全員が本業の合間を縫って紛争地域の医療支援を行っている世界の医療団理事Patrick David(パトリック・ダヴィッド)氏のお二人をお迎え、東京・港区にある世界の医療団のオフィスにて対談形式にてお届けいたします。

■栁澤 寿男 プロフィール

(やなぎさわ・としお)1971年、長野県生まれ。バルカン室内管弦楽団音楽監督。コソボフィルハーモニー交響楽団首席指揮者。パリ・エコール・ノルマル音楽院オーケストラ科卒業後、佐渡裕、大野和士に指揮を師事。その後、スイス・ヴェルビエ音楽祭指揮マスタークラスオーディションに合格、名匠ジェイムズ・レヴァイン、クルト・マズアに師事。2000年、東京国際音楽コンクール(指揮)にて第2位受賞、日本フィルハーモニー交響楽団等、様々な楽団にて客演を行う。2005年、縁あってマケドニア(旧ユーゴスラヴィア)国立歌劇首席指揮者となり、2007年6月にはバルカン室内管弦楽団を設立。2007年10月コソボフィルハーモニー交響楽団常任指揮者就任、2009年5月より現在も首席指揮者を務める。
栁澤 寿男オフィシャルサイト http://www.marscompany-balkan.com/
対談の動画はこちら:

■Patrick David プロフィール

(パトリック・ダヴィッド)世界の医療団(メドゥサン・デュ・モンド) 理事。1954年フランス生まれ。30歳のときNGO『世界の医療団』に参加、人道支援活動を行う。2004年、副会長に就任。これまでアフガニスタン、ボスニア、カンボジア、イラク、パレスチナなど多数の現場で活動した実績がある。「見放された人々」を救うことを使命に、災害や紛争発生時だけでなく、長期に渡って現地での支援活動を展開している。
世界の医療団オフィシャルサイト  http://www.mdm.or.jp/

*文中に表記する「アフガン」……アフガニスタンの略称

photos / 渡辺遼、世界の医療団、Julien Chatelain

■なぜ、紛争地や災害現場に向かうのか?

片岡:今回は全く異なる分野にありながら、世界を股に掛けてご活躍中のお二人にお越し頂きました。

パトリック:私はフランス生まれ、麻酔科が専門の医師で、医療が十分に行き届かない現場への支援活動を行う『世界の医療団』の理事を務めております。

栁澤:私は日本出身で、現在は主にバルカン半島の紛争地域にて演奏活動や楽団設立支援を行っている指揮者の柳澤寿男です。よろしくお願いします。

片岡:お二人が「紛争や災害現場での人道的活動」に携わるようになったきっかけは何ですか?

パトリック:きっかけはアフガニスタン紛争でした。1984年のことです。『Film Valley』という映像を観る機会があり、画面から伝わってくる衝撃的なシーンが、大変印象深かった。その頃は母国のフランスにおりましたが、アフガン地域の人々がどのような思いで暮らしているのかという事は、常に気がかりでした。ある方から「もしあなたが必要とされているならば、アフガニスタンへ行きたいですか?」と問われ、現地行きを決意しました。1986年の事です。映像を通じて見聞していたのとは、また別の角度からアフガンを目の当たりにしました。

片岡:1986年というとソ連軍が撤退する前?

パトリック:はい。ソ連軍の撤退によってまた、長い紛争が巻き起こったわけですが、その直前です。その後、医師として勤務する合間を縫ってアメリカ、イラク、アフリカ、カンボジア、ルーマニア等を訪れるうちに、そういった地域での医療支援活動に注力していくこととなりました。


アフガニスタン(資料写真:世界の医療団 撮影:Julien Chatelain)

***

栁澤:私は、2007年にコソボ交響楽団のゲスト指揮者として招かれ、初めてコソボの首都リシュティナを訪れたのが活動のきっかけとなりました。そこは、正直なところあまり安全な街とは言えず、停電も頻繁に起こりましたし、水がまったく供給されない場所もありました。リハーサルの途中、一人の楽団員が私のところに来て私にこう告げました。「柳澤さん、申し訳ありませんが私は楽器を捨てます。銃を手に取り、兵士として戦争に行きたいのです。」その時、なぜ彼が私にそんな宣告をしたのか理解できませんでした。その日、彼とは会話がないままでした。

その2,3日後、私はベートーベンの交響楽第七番を指揮しました。演奏が終わると例の彼が私のところに来て「柳澤さん、申し訳ありませんでした。私達は本当は戦争を必要としていません。音楽に国境は必要ないのです。」と言いました。

片岡:演奏中に何かを感じ意志を変えたのですね。

栁澤:わたしは彼の言葉に非常に驚き、音楽の強いパワーを感じました。民族同士の架け橋になれるものはもしかしたら『音楽』なのではないかと思い、この地で生きる決心も芽生えてきました。その年に、全てのバルカンに生きる人々の共栄を願ってバルカン室内管弦楽団を結成しました。コソボ交響楽団にはアルバニア人の音楽家しかいません。セルビアのオーケストラにはセルビア人の音楽家しかいません。マケドニア人も同じ構造です。それはとても悲しい状況です。かつてのユーゴスラビアで共に生きた人々を繋ぐ“音楽の架け橋”になればいいと考えました。民族ごとに分断されないオーケストラを作りたかったのです。

■「危険」を意識する時

片岡:パトリックさんも柳澤さんも「危険」ということは意識されなかったのですか?

パトリック:ソ連が崩壊した1991〜1993年頃、ポルスカ北部やパプア西部で医療支援を行う機会がありました。人々はコソボ北部からアルバニア北部へと疎開を続け、さらにそこからボスニア・ヘルツェゴビナに辿り着こうとしていました。ご存知の方も多いと思い ますが、ボスニアとは7,000人を超える大量虐殺があった場所です。もしかしたら私もそこにいた可能性があったわけです。

片岡: …それは強烈ですね。

パトリック:そこまで引き込まれる何かがあったのでしょうけれど、常に危険と隣り合わせの恐怖感は、底知れぬものがありました。

栁澤:コソボフィルハーモニー交響楽団を設立して間もない2007年に、コソボ北部のミトロヴィツァでコンサートを開きました。ミトロヴィツァはコソボ北部の町です。この町には川がひとつ流れていて、南部にはアルバニア人が住み、北部にはセルビア人が住んでいます。橋がひとつかかっていて、誰でもその橋を渡れるのですが、誰もこの橋を渡ることはありません。

片岡:激戦地だったとか?

栁澤:そうです。当時、多くの人が橋を渡り、多くの人が互いに争いました。とても危険な場所で、民族同士が争った記憶が大変色濃く残る場所です。

片岡:そんな危険な地域で初のコンサートを?

栁澤:よく実現出来たなと思います。私達は『UNDP』つまり国連開発計画と、あと、コソボ軍、コソボ警察と一緒に、南部と北部と両方でコンサートを開きました。これはまたこれまでの経験にはないコンサートでした。コンサートを開く正確な日付は言わず、正確な日付の3日前に明らかにしました。というのは、コンサートを開くことに反対する人が必ずいるからです。

そんな状況でしたが、特にセルビア人とアルバニア人の音楽家による、両国でコンサートを開く最初の機会にはなりました。1999年以来、初めてのことだそうです。これが、はじめてのコラボレーションの機会だったということで、両国の音楽家も大いに満足していたし、とても良いコンサートでした。そして、その橋の近くで、彼らはメールの交換をしていた。これにはとても感動しました。


バルカン室内管弦楽団〜旧ユーゴ各民族によるコンサート。

空爆にあったセルビア国営放送。
■2人の共通点は「架け橋」!?

パトリック:素晴らしいです。まさに『架け橋』となり得る音楽、そして関わる音楽家達の存在にとても共感します。私もそういった架け橋の役割について思うところが多々あります。

片岡:パトリックさんが思う『架け橋』は、どのようなものですか?

パトリック:2つあります。1つは、“たった1人の発言でも、声をあげることで助けを必要としている人々を救う事は出来る”ということ。この先どうなるか解からない暗闇の中に居る時、誰かがこう言うだけで良いのです。「NO!私は同意出来ません。私は私のやるべきことをやりたい。」と。それは、今は理解出来ない行為かもしれませんが、もしあなたが最悪の状況に立たされた時、その意味が理解出来るようになるでしょう。もう1つは「橋」というものは自らが築かなければならないものだという事です。医師として、私たちが架ける橋は何かというと、勿論“医療支援”になるのです。

片岡: 架け橋を築く”医療支援”とは具体的にはどういうことですか?

パトリック:1992年、平和条約が交わされる前のオスロ合意の直前、私たちはパリで、パレスチナの医師とユダヤ人医師らとの会合を持ちました。当時、このような会合を開き、互いの関係性を築くことは大変センシティブな問題でした。しかし、そういった架け橋を少しずつ築いてきたわけです。しかし、現実がこの架け橋を拒否することもあります。10、20年もこの現実に直面し続けていくのは困難だと感じる時もあります。そして、架け橋を築く作業は、今現在もまだ続いています。

***

片岡:10年、20年と活動を続けられてきて、どういう「変化」を感じますか?

パトリック:先ほどコンサートのお話を伺っていて、1990年に行われた、まだ現地は当時戦中下にあるカンボジアの、アンコール・ワットでのロックコンサートを思い出しました。コンサートの開催自体が現地では珍しく、特にアンコール・ワットのような歴史的建造物で行ったのはおそらくそれが初めてだったことでしょう。「橋」を築くにあたって私自身にどの程度の力があるかはわかりませんが、大変、印象深いコンサートでした。感情は国境を超え、銃を手に取ると宣言していた音楽家に何を届けたのか。この感情は言語の違いを超えて行くのだと思います。

片岡:紛争によって引き裂かれた民族や文化の架け橋として、“音楽”以外にも選択肢はあるのでしょうか?

パトリック:終わることのない紛争により、そこに住まう人々に何が起こってしまうのか、長年の活動の中で私は目の当たりにしてきたわけです。このまま永遠に紛争は続いていくのか?子供の世代にいったい何を残せるのか?何かを変えようという強い想いや能力が1つでもあるならば、音楽でも芸術でもスポーツでも架け橋となりうる可能性はあります。

栁澤:混沌の中で何か活動を始めるにあたって、目標を設定したり、それを達成することに力を注いだりというより、出来る人達で出来る事をやっているというのが現状です。


「”橋”というものは自らが築かなければならない。医師として、私たちが架ける橋は何かというと、勿論“医療支援”になる。」
■音楽の「チカラ」とは

パトリック:複数の民族・文化・言語が混沌としている地域では、お互いの言語を解釈する事が出来ない場合も多いのです。紛争地域で育った子供の中には、一切の読み書き教育を受けていない人も多くいます。まったく教育を受けず、自国語も読めない。けれど音楽の演奏だけは得意なこともあります。こうしたエリアにおける“音楽”とは、言語を越えた言語と言えるのではないかとも感じます。

栁澤:伝統的に受け継いでいく“習い事”というようなものは、恐らく存在しません。実際、2年程前にアルバニアでバルカン人の少年達と一緒に演奏したのですが、彼らはまったく何の教育も受けておらず、楽譜も読めず、理論も知りませんでした。しかし彼らには並外れた感性があるのです。

片岡:理論を超えた”感性”が果たす役割が大きいのでしょうか?

栁澤:普段は通りがかった人を相手に、路上でアコーディオンやパーカッションを演奏しているような少年達です。演奏するたびにニュアンスは異なります。クラシックコンサートとは全く異なる”感性”を持っています。最初がひどすぎて、どんなコンサートになるか、予想することが出来なかったくらいです。(笑)

片岡:それでも最終的には1つの形になっていくわけですね。

栁澤:不思議なものです。初めのコミュニケーションはかなり難しいですけれど、音楽が我々の“隙間”をドンドン埋めていってくれました。例えば、ある子はまだ13歳なのにタバコを吸っていたり、家がない人に国連が家を作ってもその家の中でたき火をしたり、窓を売ってしまったりといった面喰う事件が多々起きるわけです。

片岡:……そもそもの習慣が違うというレベルではないですね。

栁澤:この状態からスタートなのかと最初は面くらいました。彼らに出会って、まず初めに聞いたのは「あなた達の夢は何ですか?」と。彼らは口をそろえて「ありません」と答えました。荒れ果てた現実を目の当たりにしていくうちに、夢なんてないんだと自ら否定し育っているわけです。

片岡:夢は取り戻せるのですか?

栁澤:一度コンサートを経験し、出来る事ならもっと練習を重ねて将来はオーケストラに入りたいという子も出て来ました。一度失いかけた夢を再び追いかけるその先に、私達のオーケストラがあればいいなと思います。


「一度コンサートを経験し、将来はオーケストラに入りたいという子も出て来ました。一度失いかけた夢を再び追いかけるその先に、私達のオーケストラがあればいい。」
■“服を着た猿”と呼ばれて……。

片岡:シビアな側面のお話が続いたので、面白いエピソードも幾つかお伺いしてもいいですか?

パトリック:いくらでもありますよ。(笑)

片岡:一番面白いものを1つだけ。 (笑) 

パトリック:ブラジルのジャングルのような森へ医療支援に向かった時の話です。人里離れた深い森に色々な生物がいました。そこで……残念なことに、私は大変毛深いのですが(笑)、寄ってきた子どもたちがみんな私の体毛をひっぱりながらこう言ってくるんです。「Uip Saya!」って。あとで聞いたら“服を着た猿”という意味だそうです。いやぁ、面くらいました。

片岡:子供は正直というか残虐というか。(笑)

パトリック:無邪気なもんです。(笑)

***

片岡:栁澤さんは?

栁澤:一昨年、盲腸にかかったのです。その時コソボに居まして。まだコソボのような地域では医療技術が遅れていたり、病院施設が古かったりで、コソボでは医者は触診くらいしかしないんです。

片岡:占い師みたいですね……。(笑)

栁澤:いやホントにそんな感じです。3人の医者にあなたは盲腸だと言われ、12時間以内に手術をしないと大変なことになると言われました。すぐに手術して切除しましょうとそこで提案されたのですが、恐くて断ってしまったんです。とにかく先進国に行きたいと思って。

片岡:お気持ちはわかります……。

栁澤:もう時間がない!という時に限って飛行機が満席で。陸路で行こうとしても、交通網があまり発達していないから、隣国にしか行けない。隣国も医療事情は同じなんです。痛みで朦朧としながら飛行機のキャンセル待ちをしているとデュッセルドルフ行の席がひと席空きまして。意識も殆ど半分ないくらいでフラフラしたままとりあえず乗りました(笑)。デュッセルドルフに到着して病院に行くと、医者からやはり盲腸だといわれて、コソボの医師の診断は正しかったわけですが。当時は「Appendix(盲腸)」という単語を聞かされても何の病気なのかさっぱり解からなくて。何の病気か自分では分からないまま、調べる暇もなく麻酔されて手術されました。

片岡:とにかく、助かってよかった。ちなみにコソボの平均寿命はどれくらいなんでしょう?

パトリック:おそらく24,5歳でしょうね……。

栁澤:ぜひ、コソボの医療事情も何とかしていただければ。今後の支援活動を継続するためにも、支援部隊が安心して活動に打ち込める環境作りは大事ですよね。お互いよきパートナーシップが組めるといいかなと思います。

パトリック:ぜひ。同じ想いをお持ちの方とお話出来て大変うれしく思います。

片岡:お二人とも、まさに夢の架け橋となるべく、今後も活動を続けて行かれるとのことですが、お身体には十分お気をつけて。

栁澤:はい、ありがとうございます。

パトリック:ありがとうございました。

■インタビューを終えて

柳澤氏の言葉の中にあった「混沌の中で何か活動を始めるにあたって、目標を設定したり、それを達成することに力を注いだりというより、出来る人達で出来る事をやっているのが現状です。」という言葉が非常に印象に残りました。世界の医療団の活動も、もちろん目標や戦略を練った上で日々の活動を行うことは重要ですが、活動の現場では予期しなかったようなことが起こることも、日々よくあることです。「出来る人達で出来る事をやっている」「自分たちの頭で考えながら進むべき方向に進んでいく」一人の”プロフェッショナル”の人間として、一生のうちにいったい何をなし得ることができるのかを突き詰めて考えていくと、きっとこのマインドを肯定的に受け入れていくことにつながります。とかく日本においても「先の見えない時代」「不安な時代」と言われていますが、こうした時代にこそ、この2人のプロフェッショナルから学ぶべきことは多いのではないかと思います。