片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)「頑張り過ぎない 諦めない」
歌手・小林幸子さん ~後篇~

(2013.01.07)

「NGOな人々」”Non-GAMAN-Optimist”とは、「ガマン」していられず、チャレンジをし続け決して諦めない 「楽観人」のこと。NGOな人々へのインタビュー第25回目のゲストは前回に引き続き、昨年10月17日にリリースした「茨の木」(作詞・作曲 さだまさし)が、発売から1カ月余りで2万枚を超すヒットとなっている歌手の小林幸子さんです。ことし芸能生活50周年(半世紀!)を迎える小林さんに、お話しを伺いました。【前篇】に続く【後篇】となります。

■小林幸子 プロフィール


photo / 渡辺遼

1953年 新潟県新潟市出身。1963年、9歳の時に古賀政男にスカウトされ、翌年に古賀作曲の『ウソツキ鴎』でデビュー。20万枚のヒット曲となる。子役として映画などでも活躍したが、その後の15年間はヒットに恵まれず、全国を一人でキャンペーン廻りするなどの苦労を経験。1979年に『おもいで酒』が大ヒット。Wミリオンセラー(200万枚)となる。同年『第30回NHK紅白歌合戦』に初出場。翌年にはシングル『とまり木』が大ヒット。その後も『ふたりはひとり』『もしかして』『雪椿』などヒット曲を連発。紅白では豪華衣装が話題となり国民的人気歌手となった。2000年に日本レコード大賞 美空ひばりメモリアル選奨受賞。2004年『第55回NHK紅白歌合戦』では初の大トリを務める。2006年に紺綬褒章を受章。2008年文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞。東日本大震災では、被災者を激励のため自ら用意した無洗米10トンとまんじゅう1万2千個を自己所有の大型トラックに載せて福島県相馬市内の8カ所の避難所へ届けたほか、岩手県大槌町や、陸前高田市、宮城県気仙沼市などを慰問。2012年日本財団主催の「被災地で活動した芸能人ベストサポート」として表彰される。2011年に発売された『おんなの酒場』の売り上げの一部は東日本大震災復興基金へ寄付に充てられた。

耳に残る『茨の木』

片岡:『茨の木』を聴いた時に、すごく耳に残るというか覚えやすいなぁと思ったんですよ。

小林:さだまさしさんが作る歌にしては、歌詞が短いですよね。(笑)

片岡:一回聴くと旋律が「すー」と耳に入って、歌詞もある程度覚えられるというか。ご本人に伺うのも変ですが、私みたいなド素人がカラオケで上手に歌うコツってあるんですか?

小林:上手に歌おうとしなくていいんですよ、この歌は。曲に力があるので、そのまま譜面通り、普通に歌っていただくだけでしっかりと伝わります。演歌で“こぶし”が入ってくる歌は、その人の歌い方で上手に歌うポイントというのはあります。でもこの歌に関してはないですね。

片岡:では、あんまりこぶしとかは……。

小林:こぶし入らないんですよ、この曲。

片岡:確かに。1つの音符に1つの音ですね。だからあえて演歌ではないと。

小林:演歌ではないですね。私は過去あまり売れない時代も含めて、ジャズもポップスも歌ってきました。たまたま『おもいで酒』という歌が私にとっての初めてのヒット曲で、小林幸子=演歌という感じになっていますけど。そもそもデビューした時って、『演歌』という言葉がなかったです。すべての括りが『歌謡曲』でした。いつの頃からか『演歌』とか『J-POP』というジャンル分けがなされてきましたね。

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片岡:『おもいで酒』をカラオケで歌おうとするんですけど、私には難しくて歌えないんですよ。

小林:え? 難しいですか!?

片岡:例えば「無理し~て~ 飲んじゃ~ いけ~」の「け~」が、一つのひらがなに音符がいっぱいあって、私には音程がもうとれないんです。小林さんみたいに歌おうとするからかな…。

小林:そうやって、私をマネて歌おうとするのはやめましょう!(笑)

片岡:自分なりに歌えばいいんですか?

小林:そうです。人はそれぞれ違いますから(笑)。私だって毎回毎回、同じようには歌えませんもの。いつも違います。メロディ自体は同じですけど、そこに「こぶし」を入れますよね。その入れ方というのは全く一緒ということはありません。歌は日によって変わります。年齢とともにも変わります。25歳の時にレコーディングで歌った小林幸子の歌と、今の小林幸子の歌はやはり違いますし。


新曲『茨の木』のキャンペーンで各地を回ってファンと直接触れ合いの場を持つ小林幸子さん。

原点は『音』の中で暮らした幼少時代

片岡:小林さんの歌(歌唱方)のベースには何があるのですか?

小林:小さい頃から父の真似をして歌を歌っていたのがベースといえば、ベースかもしれません。父がすごい歌が大好きな人でした。私が3歳か4歳くらいの時に一緒にお風呂入ると、必ず歌うんですよ。

ある時『お前も歌ってみろ』と言われたので、父の真似をして「♪ナントカカントカ~」と歌ったら、父と同じようにこぶしを入れて歌えちゃったんです。父は「なんだ、この子は!」ってびっくりして(笑)。

片岡:やはり、できる人は子供でもできちゃうのですね。(笑)

小林:それからは単に歌うことが面白くなって、町のお祭りなんかで歌ってはそうめんや洗剤などの賞品をもらったり(笑)。歌うと賞品がもらえて母が喜んで、拍手もしてもらえて、みんな嬉しそうにニコニコするって、こんな良いことってないなと思ったのです。

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片岡:お父さんの影響が、かなり強かったのですね。

小林:そうですね。あと私が子供の頃に住んでいた環境というのが少し変わっていて、2人いる姉がアメリカンポップスやフレンチポップスが好きでよく聴いたので、嫌でも耳に残りました。父は父で浪曲を歌っていました。あと、家の隣りがお寺だったのですが、そこは詩吟の教室もやっていたんです。だから詩吟がよく聞こえてくるわ、お経も流れてくるわの環境でした。家から数軒先にあった小さな映画館からは、毎日、何かしらの音楽がずっと流れていて、浪曲・詩吟・お経・アメリカンポップスに囲まれた生活でした。(笑)

片岡:普段の暮らし全体が音楽に包まれていたのですね。お経まで「音」として子供の頃から感じていたというのは面白いですね。

小林:そうなんです。お経の旋律にはいわゆるグリスダウンのようなものがあります。すごく不思議なメロディで。1音の間に、10音とか12音ぐらいあることがあります。半音じゃなくて半音の3分の1みたいな音が自然と耳に入ってきます。知らない間に音楽というか『音』の中で暮らしていたんでしょうね。

ヒットを追わなくなったら、ヒットが生まれた

片岡:10歳でデビュー曲が大ヒットして、その後15年くらい先までヒットに恵まれずに空いてしまい、普通だったらどこかで諦めちゃうんじゃないかと思います。3年5年はともかく15年というのは、「我慢」するには長すぎますから。

小林:歌が好きというのは大前提でありますが、続けられた大きな理由は『自分への責任』です。10歳でデビューした後に、両親に聞かれました。「お前は結局、歌手になりたいのか、なりたくないのか」と。その時「なりたい」って答えてしまったんです。父親は大賛成、母親は大反対でした。それで父と母とが大変な喧嘩になって。それじゃあ本人に直接聞こうっという事になったみたいでした。その時こんなに両親の真剣な顔を見たのは初めてで、「人生」って言葉もまだよく分かってない歳でしたけど、これに答えたら自分や家族の人生に何か大きな変化があるんだろうな、とは思いました。その時に「なりたい」って答えた『自分への責任』が、どんな時にも歌い続けていられる理由ですね。

そうこうしているうちに、新潟で地震があって(1964年6月16日 新潟地震)実家が被災してしまいました。うちは小さな精肉店をやっていたのですが、すべてを失いました。だから、家族が生活するために歌い続けてきたというのもあります。生きるために歌わなくちゃいけない、と。


『おもいで酒』の大ヒットまでは、ヒットしたいと思えば思うほど、ヒットが逃げていく辛い経験をした。

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片岡:その頃から、必ずいつかはヒットするという想いを抱きながら歌っていましたか?

小林:面白いもので、ヒットしたいと思っている時には、逃げるんです。追いかければ追いかけるほど、逃げていく感じでした。必死でキャンペーンをやって、「皆さん来て下さい!」って言っても来てくれないのです。集まってくれても、その場で配った歌詞カードを全部捨てられて。人が集まらなくても、歌を聴いてくれなくてもいいから、せめてこの小さな歌詞カードを目にして、気に入ったらレコードを買って下さいという気持ちで配ったのに、捨てられて。それを拾う自分が1番惨めだったし、悔しかったです。

その時にこんなにも辛い想いをするなら、歌なんかもういいやって吹っ切れたんです。ヒット曲なんていらないと。小林幸子の歌を評価してくれる人がたくさんいたとしても、時代という大きな波があって、そこに乗り切れないのであれば、無理矢理乗らなくてもいいやと思ったことがありました。当時は少人数でダンスや歌を披露するステージが流行っていた時代でしたので、子供の頃から踊りも洋舞もタップダンスもやってきたから、私はこの小さなステージでやっていければいいやと思い、レコード歌手としてはもう流行らないだろうなと本気で思っていたのです。

そうこうしているうちに『おもいで酒』が有線でヒットしてきたという話を耳にしました。その時は「嘘だ」と思いましたね(笑)。似ているけど、違う人の曲なんじゃないの? って。ヒット曲なんていらない!と追いかけなくなったら、向こうからヒットがやってきたんです。ただ、もうヒットなんてどうでもいいやと投げやりになったことが良かったわけではなく、今までずっと私のことを、誰かが見てくれていたのです。「もう私のことなんて誰も見てくれなくていいわよ」なんて自暴自棄になってはいけないとつくづく感じました。私がいい加減に仕事をしていなかったことを、誰かが見ていてくれていたのです。人間って、頑張っている姿は必ず誰かが見ていてくれています。それは15年間という売れない時期を乗り越えて歌を続けてきた経験として、今でもよく感じます。

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片岡:最後に、これから先のお話を聞かせて下さい。芸能生活50周年を前に、芸能界ではすでにだいたいの事を経験されてきたと思います。まだされていないこと、新たにやってみたいと思っていらっしゃる事は何ですか?

小林:確かに大概の事はやらせてもらいましたね。(笑)NHKの大河ドラマに出演させて頂き、紅白歌合戦の大トリもさせて頂きました。ドリフターズとのコントもやっています。(笑)映画も、CMも、声優も、舞台もやらせて頂いた。あとやってないことは何かと言ったら…何でしょうね(笑)。

これからは、自分の好きな歌を、好きなスタイルで歌うというような事も、そろそろやらせてもらってもいいかなぁ、なんて思っています。小さなライブハウスのようなところで、とにかく自分が好きな歌を少ない人の前でも、生で歌を届けたい。お金の事を考えたら、もちろんマイナスですよ。でも、そういうのもいいよねーやりたいよねー、と思っています。それがまだやってないことでもあり、将来のひとつ夢ですね。


新曲『茨の木』は、曲に力があるので「こぶし」を気にせず譜面通り、普通に歌うとよいと、ご本人直々にアドバイスを頂いた。

●インタビューを終えて

私の母方の祖父は大変無口で頑固者で、祖父の家に行っても子供心に近寄りがたい気難しい祖父でした。そんな祖父も小林幸子さんが紅白で歌うのを見るのが好きで、大晦日に小林さんの大掛かりな衣装が開き、光り、回転すると、お酒も回っているせいか、とても上機嫌になっていたことを、ふと思い出しました。例え一瞬であっても多くの方たちを「笑顔」にすることができるのは、歌手やタレントやスポーツ選手だけにできることです。「裏方」のスタッフには、(それを裏で支えることはできても)どうやったってマネのできない特別な「才能」です。現在、私は、被災地支援や途上国での医療支援などを行うNGOの職員です。マスメディアや芸能に直接携わってはおりません。メディアや芸能に携わる「プロ」の方々には、「伝えないこと」ではなく、「何かを伝えること」で、被災地や日本中の人たちを少しでも「笑顔」にして頂きたいと願っています。