片岡英彦のNGOな人々 (Non-Gaman Optimists)「頑張り過ぎない 諦めない」
歌手・小林幸子さん ~前篇~

(2012.12.21)

「NGOな人々」”Non-GAMAN-Optimist”とは、「ガマン」していられず、チャレンジをし続け決して諦めない 「楽観人」のこと。NGOな人々へのインタビュー第25回目のゲストは10月17日にリリースした「茨の木」(作詞・作曲 さだまさし)が、発売から1カ月余りで2万枚を超すヒットとなっている歌手の小林幸子さんです。2013年に芸能生活50周年(半世紀!)を迎える小林さんにお話しを伺いました。前編と後編の2回に分けての掲載です。

■小林幸子 プロフィール

1953年 新潟県新潟市出身。1963年、9歳の時に古賀政男にスカウトされ、翌年に古賀作曲の『ウソツキ鴎』でデビュー。20万枚のヒット曲となる。子役として映画などでも活躍したが、その後の15年間はヒットに恵まれず、全国を一人でキャンペーン廻りするなどの苦労を経験。1979年に『おもいで酒』が大ヒット。Wミリオンセラー(200万枚)となる。同年『第30回NHK紅白歌合戦』に初出場。翌年にはシングル『とまり木』が大ヒット。その後も『ふたりはひとり』『もしかして』『雪椿』などヒット曲を連発。紅白では豪華衣装が話題となり国民的人気歌手となった。2000年に日本レコード大賞 美空ひばりメモリアル選奨受賞。2004年『第55回NHK紅白歌合戦』では初の大トリを務める。2006年に紺綬褒章を受章。2008年文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞。東日本大震災では、被災者を激励のため自ら用意した無洗米10トンとまんじゅう1万2千個を自己所有の大型トラックに載せて福島県相馬市内の8カ所の避難所へ届けたほか、岩手県大槌町や、陸前高田市、宮城県気仙沼市などを慰問。2012年日本財団主催の「被災地で活動した芸能人ベストサポート」として表彰される。2011年に発売された『おんなの酒場』の売り上げの一部は東日本大震災復興基金へ寄付に充てられた。


photo / 渡辺遼

デビュー50周年

片岡:10歳でデビューされて、来年で半世紀(デビュー50周年)ですね。

小林:びっくりしますね自分でも。「デビュー50周年を迎えてどうですか?」とよく聞かれるのですが、どうって言われてもですね、私も50周年を迎えるのは初めてなので。(笑)とにかくただただ歴史は感じます。

片岡:50年といえば、ひとつの「時代」と言っていいですね。

小林:時代の移り変わりはすごく感じます。音楽の世界に身を置いていますから、音楽にまつわる時代の変化、『おもいで酒』のレコードが500円の時代がありました。CDが登場して、MDがあって…今はもうダウンロードの時代です。(笑)

片岡:正直言いますと、私はCDを送っていただくより前に、ダウンロードで新曲『茨の木』を聴かせて頂きました。「ポチっ」とワンクリックして。

小林:やっぱりそうでしたか(笑)。

聴いた人の胸を突き抜ける応援歌『茨の木』

片岡:新曲の『茨の木』は演歌というよりは、ちょっとポップス系の楽曲ですね。

小林:そうです。作詞・作曲がさだまさしさんですから、いわゆる“さだまさし”の世界です。さださんは大親友でもあり、「兄貴」でもある存在。無二の友達というのは何人にも代え難いなと思います。今の私のことをすごく心配してくれているし、応援してくれていますし。

片岡:さださんから楽曲を頂く時というのは、先に歌詞を見させてもらうものなのですか? それともまずは曲をデモテープ等で聴かせてもらうものなのですか?

小林:演歌の世界はまず歌詞があって、この歌を歌いたいなと決めた時に、じゃあどなたに曲を書いてもらうか、という順番がよくあります。ただ今回の曲は、最初からさださんにお願いしていましたので、歌詞と曲が一緒でした。

片岡:『茨の木』をさださんにお願いするきっかけは何だったのですか?

小林:そもそもは、「50周年記念の楽曲を、プロデュースも含めて全部お願いね、お兄ちゃん!」「うん、分かった!」っていうやり取りがあって(笑)。

その後、私の身の回りで色々な事が起こってしまって、その時に自分で曲を作ろうと思い立ったのです。

片岡:ご自身で作詞作曲を?

小林:過去には自分で何曲か作ったこともありましたし。でも実際作ってみたら、今ひとつ自信がなかったので、そこで、さださんに電話したんです。「私、曲を作ってみたけど、あまり自信がないんだ」って。そうしたら、さださんが「何言ってるんだよ、幸ちゃん。もう曲は出来ているよ」って。(笑)それで、曲を頂いて聴いてみたら、さださんが自分でアコースティックギターを弾きながら歌っていて。その場で号泣しました、本当に。


新曲「茨の木」は発売から1ヶ月あまりの12月の時点ですでに2万枚を超えるヒットとなっている。

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片岡:この曲は単に小林さんご自身のことを歌っているというよりは、日本人みんなへの応援歌のように思えました。

小林:そうなんです。はじめは私のことを書いてくれたんだなぁと思って「ありがとう、とてもいい歌」ってさださんに伝えたら、「違うよ」って言うんです。自分史だと思って歌おうと思っているんだったら、それはそれでいいよと。でも周りを見てごらん、どれだけ耐えている人が多い?って。震災で被害に遭われた人はもちろん、雇用の問題、いじめの問題で悩み苦しんでいる人、国と国との問題、さまざまな問題がある世の中に向けての、応援歌として歌って欲しい!と言われたんです。

片岡:小林幸子に歌で世の中の人たちを応援して欲しいと。

小林:もちろん歌うのは私なのですけれど、聴いた人の心に届いた時にはその人の歌になります。歌というものは聞いたその人のものになるんです。歌の力っていうのは物凄いものだなぁと。同じ歌を歌っても、みなさんご自身の人生に置き換えるんですよ。“胸に響く歌”とか“胸に入る歌詞”って言い方がありますよね。歌がしっかり聴く方の心に届き、聴いた方が自分の人生を見つめ直した時に、歌が心に「響く」とか「入る」というよりも、“胸を突き抜けている”んだなぁって思います。

笑顔のきっかけになった被災地訪問

片岡:被災地に何度も訪問されていますね。大型トラックで行かれたとか?

小林:私のコンサートで運搬に使っている、11tトラックに救援物資を積み込んで行きました。最初は福島県の相馬市へ行ったのですが、既に被災地へ行くトラックの手配がいっぱいで、トラックを貸し出してもらえなかったのです。それで、どうしようって事になって。私が持っているトラックは、大きいですが、宣伝用なので、私がすごく派手な衣装を着ているペイントがされていたのです。

片岡:テレビで見ました。確かに派手なトラックでした・・・(笑)

小林:あれじゃあさすがに不謹慎だとか言われるかな、どうしようかなと思っていたのですが、結局トラックを借りることが出来なくて、じゃあいいか、と。自分のトラックで向かうことにしました。

片岡:相馬市の皆さんの反応はいかがでしたか?

小林:皆さん喜んでくれちゃって。携帯でトラックの写真を撮るんですよ。(笑)笑顔でトラックをバックに写真を撮っている方々の姿を見て、「あれ?私、間違ってなかったのかな?」と思いました。


被災地には自ら用意した無洗米10トンとまんじゅう1万2千個を自己所有の大型トラックで届けた。

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片岡:「笑顔」というのは何よりも貴重ですよね。市長さんも「このトラックの衣装で来てくれればよかったのに」と大歓迎のコメントをされていましたしね。

小林:避難所になっていた小学校の体育館に行った時には、「サインが欲しいけど、紙がない」っておっしゃるんです。サインをもらうための、白い紙がないって。そうしたら急に「白いものがあった!」っておっしゃったので、その方が何を持ってきたかと思ったら、支給された新品のパンツ。

「パンツにサイン書いてくれないかな?」って(笑)。パンツの前面だと恥ずかしいから、お尻の方に書いて下さいて言われて(笑)。サインを書きながら、「私も長いこと歌手やっているけど、パンツにサイン書いたのは初めてだなぁ〜」って言ったら、そこにいる皆さんがどっと笑ったんです。サインを数枚書き終えふと見たら、みんな泣いているんです。なんで泣いているんですかって伺ったら「こんなに笑ったのは何日ぶりだろう」っておっしゃっていました。笑いたくても笑う事を忘れていた、と。

その時にここ来て良かったなぁと思いました。私が来たことで、忘れていた「笑い」を思い出してくれたんだなぁって。私は、笑ってもらえただけですごく嬉しかったんです。人が元気に笑ってくれる事が。笑うと、その瞬間だけは、どんな辛いことや嫌なことも人は忘れることができます。自分が今置かれている状況を、少しでも忘れさせる事が出来る。笑いってすごいなぁって思いました。


「こんなに笑ったのは何日ぶりだろう」と大歓迎を受ける。

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片岡:被災地で歌は歌わなかったのですか?

小林:親切の押し売りみたいに思われるのも嫌だし、歌って欲しいか欲しくないかもわからないのに、自分から歌いますとは言うことはやめようと思っていたのです。そのうちに皆さんから「歌ってくんないの?」と言われて。私、歌っていいんですか?って言ったら「歌ってよ!」って。今は歌なんて聴いている状況じゃないよ!と言われるかと思っていましたが、皆さんから歌って欲しいって言われた時は、ちょっとびっくりしましたね。

片岡:今も被災地との関わり合いはあるのでしょうか?

小林:私たちの仕事には『楽屋見舞い』という、楽屋にお花を届けてもらう習慣があるのです。その楽屋見舞いを、被災地で店舗が流されてしまったり潰れてしまったけど、かろうじて生産している、たとえばお豆腐だったり、ジェラートだったり、レトルトカレーなんかを詰め合わせて、それを楽屋見舞いとして届けるという支援を続けています。そのくらいしか私に出来ることってないんですよ。でも、その支援を続けることで、震災を忘れないし、今こうしている間にも被災地の復旧が進んで、そこで暮らす人がいるってことを忘れていないですから。1番怖いのは、徐々に忘れてしまう事ですから。

片岡:もちろん震災後すぐに被災地に駆けつけるということも大切ですが、何より今でも「続けている」ということが重要ですよね。引き続き、年明けになってしまいますが、【後編】では、これまでの歌手生活についてなど、さらに突っ込んでお話を伺わせてください。 (後篇につづく)


「歌ってくんないの?」との被災者の声に、避難所で即席ライブが行われた。