世界を驚かせる音楽教室 エル・システマのキセキ- 5 – 仲間と育つ。オーケストラ教育の創る森の生態系。

(2015.02.13)
 © 2014 by Peter Brune
© 2014 by Peter Brune
世界を最も沸かせる指揮者グスターボ・ドゥダメルを生んだベネズエラ 驚異の音楽教育システム エル・システマ。『世界を驚かせる音楽教室 エル・システマのキセキ』連載では世界のエル・システマをご紹介しています。第5回では日本のエル・システマ、オーケストラの学び方について。
環境を創る教材『オーケストラ・スタディ』。

憧れの弦楽器をちょっと触らせてもらう。うっとりしたのも束の間、しばし硬直。ドってどれですか? こちとら経験ゼロだった。なぜエル・システマでは、経験を問わずすぐにオーケストラに迎えられるのだろうか。鍵は「環境」。仲間と本が教えてくれる。

日本国内で子どもたちにオーケストラ教育を展開するエル・システマジャパンの支援する相馬子どもオーケストラでは、2014年からユニークな導入教材を用いている。『オーケストラ・スタディ』。すっきりしたデザインの薄手の本だ。黒をベースに赤、青、緑、黄の4色刷。1ページには楽譜少々と図式がひとつだけ。文字はほとんどない。 ヴァイオリン用、ヴィオラ用、チェロ用、コントラバス用に、それぞれVolume1から4まである。オーケストラ教育の導入教材はめずらしいというがそれも当然、これまでオーケストラは熟練者向けの活動とされてきたからだ。楽器の導入教育はここ300年、個人指導と教則本が担ってきた。

オーケストラの練習では、指導者ははるか遠く指揮台にいる。初心者が困っていても、その場ですぐには教えてもらえない。だからこそ、隣にいる同じパートの友達やフェロー(指導補助者)、 地域の人、きょうだい、保護者など、まわりの仲間こそが頼みの綱だ。仲間のひとりがやってみせ、本を開き「ここだよ」と指さしてやればいい。口でうまく説明できない人も、文字をすぐ読めない人も、楽譜をまだ知らない人も、図式や番号ならば見てわかる。「これが共通語」と本にあれば、相馬の指導者からも東京の指導者からも、同じ用語で説明してもらえる。つまりこの教材では、まわりの仲間の言っていること、やっていることの「意味」がわかるようになるわけだ。指揮指導の浅岡洋平さんは目指す環境を「森」と呼び、多様な生物の共生するエコロジー(生態系)に喩える。相馬子どもオーケストラはいわば「オーケストラの森」か!『オーケストラ・スタディ』の新しさは、多様な人々が学び合える環境づくりを助けるところにある。

練習中はフェローも子どもも手元に「オーケストラ・スタディ」を用意。この指で弾こうと決めて、自分で指番号を書き込もう。
練習中はフェローも子どもも手元に「オーケストラ・スタディ」を用意。この指で弾こうと決めて、自分で指番号を書き込もう。
学び合いの環境づくりを助ける教材『 オーケストラ・スタディ』。Volume3ではハ長調スケール(音階)、3オクターブに挑戦だ!
学び合いの環境づくりを助ける教材『 オーケストラ・スタディ』。Volume3ではハ長調スケール(音階)、3オクターブに挑戦だ!
 
 
楽器をやるならまずは音階!
タブ譜で図解。情報をしぼりこんで倍速マスター。

「ド」の次は「ドレミファソラシド」を弾いてみたくなるのが人情というもの。高さの違う音を選んで背の順に並べたのが音階だ。簡単そうだが一筋縄じゃいかない。

『オーケストラ・スタディ』のもうひとつの特長は情報のデザインだ。世の中に音階はたくさんあるのだが、『オーケストラ・スタディ Volume3』で学ぶのはハ長調の音階だけ。ページを開くと、エレキギターのタブ譜のような図がまんなかにひとつ(画像資料・上) 。弦4本と指の位置を、シンプルな線と4つの色で示している。すっきりしてみえるのは「やること」をひとつにしぼっているからだ。1ステップは1ページでおしまい。1つの音階は12ステップに細かく分解してある。音階から、三度跳躍、分散和音にかたちを変えながらそれぞれ4ステップ、全部で12ステップというわけだ(画像資料・下)。指運びを変えずに音の数を増やしたり、音の数を変えずに指運びを変えたり、質と量を調整している。1ステップはおおむね4-8小節だが、ときには2小節までぐっと量を減らして、無理をさせない。

教材では、情報つまり演奏に必要な身体作業の量と質を設計し、弾く人の負担を減らしているのだ。それでも1冊をマスターした暁には3オクターブの音階が組み上がり、自分の楽器の持つ音域をひとりであらかた昇り降りできるようになる。初心者には、音階で遭難し挫折する人も多い。相馬子どもオーケストラの子どもたちはハ長調、ト長調の音階に3ヶ月かけた。だがニ長調と変ロ長調の音階は2週間でマスターしたという。情報を設計したうえでゆっくり取り組むと、次に習得する速度がぐんと上がるのは特徴的だ。

これは高音部記号で書かれたヴァイオリン用。このほかハ音記号で書かれたヴィオラ用、低音部記号で書かれたチェロ、コントラバス用がある。
これは高音部記号で書かれたヴァイオリン用。このほかハ音記号で書かれたヴィオラ用、低音部記号で書かれたチェロ、コントラバス用がある。
「ZigZag」とは造語で、3度進んで2度下がるワンツーパンチな三度跳躍練習のこと。ドミレファミソ…とあえてジグザグに進んで力をつける。
「ZigZag」とは造語で、3度進んで2度下がるワンツーパンチな三度跳躍練習のこと。ドミレファミソ…とあえてジグザグに進んで力をつける。
みんなと学び合ううちに、ひとりでも練習できるようになる。
みんなと学び合ううちに、ひとりでも練習できるようになる。
え、これがソルフェージュだったの? 専門的なコトも遊び心でぐっと集中。
え、これがソルフェージュだったの? 専門的なコトも遊び心でぐっと集中。
 
 
みんなで楽しくうまくなる!
ソルフェージュを織り込んだ基礎練習。

よし、音階が弾けた! だが楽譜はまだよくわからない。どうやらみんな、家や学校の部活動で「練習」をしているらしい。たいへんそうだな……。

相馬子どもオーケストラの練習は週1回、2時間から2時間半。基礎練習、 分奏、合奏が盛り込まれている。指揮指導の浅岡洋平さんは、基礎練習で「真似っこ」「当てっこ」を取り入れる。たとえば、だれかの自由に弾いたリズム「タッタカタ」「タンタンタン」をみんなで次々と真似する。「タ……」? リズムがまわってきたもののタイミングを逃し、停まってしまった人もいる。そんなときはみんなで大笑いして、これもリズムにして真似っこする。気づくといつのまにか50回繰り返しているのだった。一見遊びのように見えるが、リズム音型の練習だ。

「音読」では楽譜上の音の名前を次々と当てていく。音楽で使う音の名前は全部で7つだが、当初はラ、ミ、ドの3種類だけ。同じ速度で一斉に読み進める。全部読み上げると96音。アーケードゲーム「太鼓の達人」のようだが正誤チェックには時間を割かない。「ぜんぶできた人?」と呼びかけ、総評する。「ゆっくりしか読めなくても気にしなくていい。まずはひとつの音だけ得意になろう。」「線を指でなぞってね。その線に音符があったら必ず『ミ』って言おう。」「おうちで一日一回やってごらん」。
こうしたリズム音型の習得や楽譜の読み書きを、専門用語で「ソルフェージュ」と呼ぶ。浅岡さんは専門教育の手法を基礎練習にも楽しく取り入れて効果を上げ、毎日続けるよう促す。家や学校でも、自力で楽譜を読み解き、ひとりでも練習できる力をつけるためだ。

浅岡さんは練習中、すぐにはできない人の心配やいらだちを、いたわりやねぎらいのことばでていねいに取りのぞいていく。この時期の上達は練習量に比例するが、 ストレスが減り楽しさが増えれば、練習を長期間続けられるからだ。練習回数の少ない人も、進度がゆっくりの人も、期間を味方にすれば力がつく。浅岡さんの練習に参加し、チェロをともに弾きながら子どもたちを見守る隣町の横山さんはこう話す。「練習の時間が終わらないでほしい。いつまでもずっと練習を続けたくなるんです」。子どもたちは好きな曲を合奏する前は休憩時間も弾き続ける。楽譜を覗き込み指番号を書き入れる。楽しそうだが真剣だ。ここでは、練習はやらされるものではないのだった。

運指と階名を連動させたドリル。「もんだいしゅう」と呼ばれている。この音を弾くときどの指をつかっているかな? 学習では、体験を名付け、記憶だけにとどめずに紙の上に固定する作業はたいせつだ。楽譜にもどんどん指番号を書き込もう。
運指と階名を連動させたドリル。「もんだいしゅう」と呼ばれている。この音を弾くときどの指をつかっているかな? 学習では、体験を名付け、記憶だけにとどめずに紙の上に固定する作業はたいせつだ。楽譜にもどんどん指番号を書き込もう。

「指番号」と同じ音列に、こんどは「ドレミ」つまり階名を確認していく。さっきの音は、なんていう名前かな? ただし、もんだいしゅうには階名を書きこむけど、楽譜には階名は書かない。それが相馬子どもオーケストラのルールなんだって。
「指番号」と同じ音列に、こんどは「ドレミ」つまり階名を確認していく。さっきの音は、なんていう名前かな? ただし、もんだいしゅうには階名を書きこむけど、楽譜には階名は書かない。それが相馬子どもオーケストラのルールなんだって。
現場に適した教材を選ぶ。
指導者にも自由度の高いエル・システマの教育。

エル・システマでは各国共通の教材や教則本、認定指導者は持たない。「全ての子どもに一流の音楽を」という理念のもと、導入国が必要に応じ、地域の事情にあう教則本や指導者を選べばいい。

米国ロサンゼルスではベネズエラの指揮者グスターボ・ドゥダメル氏、スコットランドではベルリン・フィルのホルン奏者ファーガス・マクウィリアム氏、日本ではジュリアード音楽院出身のチェロ奏者浅岡洋平氏。異なるバックヤードの芸術家がそれぞれ指導にあたる。エル・システマ発祥の地ベネズエラでは日本で生まれたスズキメソードの教則本が用いられ、初期には日本人指導者が招かれた時期もあったという。

異なるバックヤードと共通の理念を持った世界の芸術家が、そのオーケストラに現在必要な指導法や教材を選んだり編み出したりし、自由度の高い教育を展開することができる。 指導者と教則本を特定しないことも、エル・システマの芸術教育と社会支援の特長のひとつになっている。

次回予告
ハル「よーし、音階が弾けたぞ。オレって天才かも。」

ピート「これからはどんな曲を弾くつもりだい?」

B「グリーグ、チャイコ、ドヴォルザーク。オーケストラの仲間と大作曲家の曲が弾けるなんてすてき!」

ハル「そりゃ決まってるよ。憧れのモ……モ……」

黒猫「モーツァルトか?」

ハル「百恵ちゃん。」

学者「 プレイバック! いずれにしても編曲が肝心ですね。ところで楽譜について、ここでいちど確認しておきませんか。伝統的な音楽教育では、楽器を始めた人は『音階』とともに『教則本』と『楽曲』に取り組みます。『教則本』とは技術習得を目的とし、指導者の思想を踏まえ、たくさんの短い練習曲を学びやすく並べてある本です。いっぽう『楽曲』は作曲家が自身の作品世界や依頼者の用途を実現するのを目的としています。再生装置のない時代、クラシック音楽ではこうした曲の数々は『楽譜』として紙に記録され、言語圏を超えて奏者や他国、後世の人々に伝えられてきました。」

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次回は、音階を弾いたばかりの人も楽曲に取り組み、仲間と舞台に乗る、その秘密を楽譜から探ります。(BSYO / 黒猫 メーカー人事、ネットコンテンツ&コミュニティ開発を経てサイト企画制作へ。ライフワークはピアノ指導。 )