12/7,8,9 菊地成孔 presentsキップ・ハンラハン来日公演キップ・ハンラハン
ニューヨークの匂い。

(2011.11.25)

NY — バスキアのエイティーズ/移民

1980年代のニューヨークには、世界中のクリエイティヴを刺激する異臭があふれていたと思う。ここ数年、ドキュメンタリーや自伝的な映画で話題を呼んだバスキアも、異臭の一成分だった。バスキアが吐き出すようにグラフティーをこすりつけていたニューヨークのストリートに、ラテン、ジャズに感染した謎のノイズを解き放っていたのが、ここに紹介するキップ・ハンラハンである。彼もニューヨーカーであるが、比較的裕福なハイチ出身の両親に育てられたバスキアとはまったく異なる空間に生まれ、育った。ニューヨークには当時(今も?)、いくつもの目に見えない人種のカーテンがひかれ、カーテンの分つ空間には隠語のスモークが充満し、ストリートに書きなぐられた無数のサインのレイヤーの中から、仲間のサインをよみとらなくては生きてはいけない。

キップ・ハンラハンの両親は、アイルランド(父)とウクライナ(母)の移民である。父が母と離婚して以来、彼は母方の家族と暮らした。母の父、おじいさんは、ロシア革命の活動家の一人であるトロツキーと親交が深く、一族はスターリンの粛正を逃れて、ニューヨークに移住したと聞いた。キップの事実上の育ての親であるおじいさんは、ロシアではウクライナの港湾で働く船乗りで、移住後もニューヨークの港湾で船乗りとして働いた。19世紀後半のロマンティークな習慣をまだ本能として身につけた人だった。宵越しの金は持たない、ロシアの江戸っ子である。おじいさんに育てられた日々を、キップが教えてくれたことがある。「毎週金曜になると、いや突然、ロシア人の仲間が、大勢押し掛けて、朝まで飲んだくれる。意味不明の土産を手に、かえってくると同時に酒盛りは始まり、近所も巻き込んだ大騒動になる。明けて無一文になると、今度は家族の間で喧嘩が始まる。お金がない、電気が止まり、水道も止まる。仕方がないからオレはよく、アパートの前の街灯の明かりで勉強してた。でも毎週毎週、毎月毎月、毎年、なんとかなった」。

NY — ブロンクスの萌え〜クラーヴェ

彼が住んだエリア、ブロンクスは、第一次世界大戦後、整備された。この地区は、国内外から移住してきた労働者のユートピアとなるはずだった。当初、イタリア、アイルランド、ユダヤ系の移民が多く住んでいたが、恐慌によって荒廃し、犯罪発生率のもっとも高い地区となった。プエルトリコ、ドミニカ、ヒスパニック系の移民が移り住むようになったが、荒廃は、80年代まで続いた。今年58歳になるKIPが青春を過ごした頃、ブロンクスはラテン化が進んでいた。

「街灯の下で本を読んでいた時、どこからか聴こえてきたのはラテンだった。学校でラテン系のきれいな女の子の気を惹くには、サルサを踊らなければならないし、さもなければ楽器のひとつも演奏して唄でも歌えなきゃだめだった。あの頃は、同じ地区に、ルーベン・ブラデスもいたし、ジェリー・ゴンザレス兄弟もいた。唄も踊りも、演奏も勝ち目ないさ。スイング?そんなのはあの場所ではじい様の音楽さ。オレはね、サッカーに夢中だった。貧乏なラテンの子供がやることといえば、サッカーさ。オレはユダヤだけどさ」

すべての音楽にクラーヴェ(ラテン音楽におけるスイング感)を聞き出せる能力は、女子を萌えさせるスキルに通じる。ユダヤ人の家庭に育った彼すらも、当時どんどんふえていったラテン空間にモンタージュされ、そのカーテンの中で、ラテンマナーを下半身に刷り込んでいた。

Tokyo – クラーヴェからアメリカン・クラーヴェへ

2000年1月ブルーノート東京に初来日した彼がつれてきたのは、キューバから亡命したミュージシャンと始めたバンド、DEEP RUMBAだった。ニューヨーク・エイティーズのサウンドにかつて共鳴した東京のクリエイティヴが心待ちにしたキップの最初のステージは、NO NEW YORKのノイズでもなく、ラテンジャズでもなく、ジャズでもなかった。それは、当時もっとも深化したルンバだった。

「観光地で聞くルンバ、ニューヨークのストリートで流れるルンバ、キューバの催事で演奏されるルンバ、いろんなルンバを集めること、そしてそれを二人のドラマーを中心に演奏すること」、様々なフォームに溶けたルンバを集め、そのエッセンスを見せることが、このプロジェクトの聞き所だと、彼はいう。
80年代以降、どんどん浄化が進むニューヨークに、今もますます増加しているのがヒスパニック系人種とそのカルチャーだ。ニューヨークがラテン化し、スパニッシュのサウンド/グラフティーにモンタージュされていること、ニューヨークのセンターにラテンがあることを提示することが彼のこのプロジェクトのコンセプトだった。

2003年8月、ふたたび、彼が来日したときには、アフロアメリカンの作家、イシュメル・リードとのバンド、CONJURE(魔法をかける)だった。R&B系のミュージシャンと、ラテン系のミュージシャンが和解することなく、ステージでぶつかり合う奇妙なライブを、キップは一週間にわたって上演し続けた。
それは、9.11の出来事に対する怒りでもあり、戸惑いや不安そのものだったように思う。そして2011年12月ふたたび彼は、ようやく彼の音楽をブルーノート東京のステージにあげる。


オレの印—Beautiful Scars

「音楽家は、自分の持ち札に固執するものさ。最高になりそうな瞬間を裏切り、職人のような技術によって仕上げた作品を傷つける、音楽に夢中になっているその瞬間から突然引きはがす」

「音楽に夢中になること、演奏家が、演奏に現を抜かすことを阻んで、なにを企てているの? 君は演奏家でもリスナーでもない。その間にいる特別な存在として振る舞い、悪魔のようなポジションにいて、ミュージシャンを困惑する。」

「間にいる?そうだね。だけど演奏者にも、リスナーにも介入できない音楽の持続によってオレのヴィジョンは蹂躙され続けてもいる。そもそも誰もオレのことなんか聞いてくれないさ。だから、コミュニケーションできない異物たちをステージにおいておく。言葉も、文化も違う演奏家をね。そうすると音楽家の目は、宙をさまよい、耳は鋭敏になる」

「だけど、結局、彼らは交渉し、うまくやろうとするんじゃないの?衝突はステージ上から、ステージの外に向けられる時がくるんじゃないのかな」

「そうだね。どこにでも政治はあるさ。マイナーなポリティクスだけど」

「君は介入によって、彼らが溶け合うことを阻む。僕らリスナーは、音楽が阻害される様を見続け、聞き続ける、だけどこれって何?」

「溶け合わないことによってはじめてリアルな音楽が発生する。間違いの瞬間に真実の音楽を聞く。どこにでもあるものを縫い合わせることは、オレの音楽とは無関係さ。だけど、オレの頭の中にある音楽すら、否定すべきだ。美しい傷、これがオレの音楽につけられた印。あるいは美しく傷つけること、これがオレの音楽」

 

菊地成孔 presents
“SYNDICATE NKKH -DCPRG & AMERICAN CLAVE-”
キップ・ハンラハン “ビューティフル・スカーズ”

with special guest 菊地成孔、マイア・バルー

日時:2011 年12月7日(水)〜9日(金)
   1st Open17:30/Start19:00、2nd Open20:45/Start21:30
会場:ブルーノート東京
料金:¥7,500

メンバー
Kip Hanrahan(キップ・ハンラハン)/プロデューサー、ミュージカル・ディレクター
Horacio “El Negro” Hernandez(オラシオ“エル・ネグロ”エルナンデス)/トラップ・ドラムス
Robby Ameen(ロビー・アミーン)/トラップ・ドラムス
Yunior Terry(ユニオール・テリー)/ベース
Fernando Saunders(フェルナンド・ソーンダース)/エレクトリック・ベース、ヴォイス
Brandon Ross(ブランドン・ロス)/ギター、ヴォイス
Richie Flores(リッチ―・フローレス)/コンガ
John Beasley(ジョン・ビーズリー)/ピアノ
Yosvany Terry(ヨスヴァニー・テリー)/サックス
Alfredo Trif(アルフレード・トリフ)/ヴァイオリン
Luisito Quintero(ルイシート・キンテーロ)/パーカッション
Naruyoshi Kikuchi(菊地成孔)/サックス、ヴォイス

Maïa Barouh(マイア・バルー)/ヴォーカル、フルート
 

At Home in Anger

2012年1月18 日(水)発売
Kip Hanrahan(キップ・ハンラハン)
2,500円 (税込み) ewac 1061
レーベル:american clave
発売元:イーストワークス エンタティンメント
* ブルーノート東京来日公演にて先行販売
(会場限定仕様CD-ROM付き)