世界を驚かせる音楽教室 エル・システマのキセキ- 6 – 交響曲やカノンを弾こう! だれもが参加できる芸術環境の創造。

(2015.03.13)
Photo by ベネズエラ大使館 / Venezuelan Embassy
Photo by ベネズエラ大使館 / Venezuelan Embassy
驚異の音楽教育システム エル・システマ。『世界を驚かせる音楽教室 エル・システマのキセキ』連載では世界のエル・システマをご紹介しています。第6回は日本のエル・システマの学び方より、名曲へのアクセスをよりスムースにする「B譜」について。そしてアメリカでエル・システマを実践するLAフィルとグスターボ・ドゥダメルの来日情報です。
パート譜に技と工夫あり。
鍛錬の道と森の小道、どの道からも芸術に出会える。

世界にはすてきな曲がいっぱいある。パッヘルベル『カノン』はドイツの教会を思わせる。モーツァルトが『ディベルティメント』を書いたザルツブルクの街は、塩とお城と音楽で栄えていた。グリーグは爽快な疾走感で始まる『ホルベルク組曲』を北欧文学の祝祭に捧げ、チャイコフスキーはバレエ組曲『くるみ割り人形』に世界中の愉快な踊りを集めた。たくさんの音符はまだ弾けないけれど、ああ自分もみんなと一緒に合奏できたなら! 

相馬子どもオーケストラでは、パート譜を2種類用意する。ひとつは原曲。もうひとつが初心者用の編曲、通称「B譜」。ビギナー(Biginner)の集まるバッハ(Bach)チーム用の譜面の略称だ。経験の浅い人や練習回数の少ない人はこちらも選べる。 シンプルな編曲で、 強弱や小節数は一緒だが、 音の数が原曲に比べて半分以下と少ない。リズム型や指の動きのパターンを減らし、音域も狭め、情報量をぐっと抑えている。ほかにもアウフタクトやシンコペーション、アーティキュレーションなど、拍をまたぐ表現や、弓の扱いが煩雑になる部分が思い切って取り払われ、原曲を奏でる仲間に委ねられている。

くるみ割り人形の行進曲の「B譜」。原曲はとても速い。まだ弾きこなせない人はB譜を選び、たいせつな音を弾く。みんな一緒に舞台に立とう。
くるみ割り人形の行進曲の「B譜」。原曲はとても速い。まだ弾きこなせない人はB譜を選び、たいせつな音を弾く。みんな一緒に舞台に立とう。

しかしよく見ると、単に音を間引きしているのではない。「たいせつな音」を選んであるのだ。 楽曲には膨大な音が使われるが、そこにはいくつか「たいせつな音」がある。旋律の始まる音、帰り着く音。場面の変わる音、大団円の音。 こうした音は家屋でいえば柱や梁、床のように、楽曲の基本の構造とつながっている。 設備や内装はあとからでいい、「B譜」の編曲は骨組みの音を追っていく。だから経験が浅い人も「お荷物」や「予備軍」にはならない。原曲の意味や演奏効果を損なわない。経験者とともに芸術作品を体験し、練習や舞台に参加できる小道をゆけばいい。経験者はテクニックで初心者をリードするいっぽうで、初心者の弾く「たいせつな音」で楽曲の屋台骨を支えてもらえる。

グリーグ『ホルベルク組曲』の原曲冒頭。細かく弓を動かす「リズム型」、素早く指を動かす「三連符」、繰り返し指を押さえたり離したりする「トリル奏法」が見られる。これらはB譜にはないワザ。
グリーグ『ホルベルク組曲』の原曲冒頭。細かく弓を動かす「リズム型」、素早く指を動かす「三連符」、繰り返し指を押さえたり離したりする「トリル奏法」が見られる。これらはB譜にはないワザ。

原曲の旋律を四分音符と二分音符に落とし込んでいる。「ffp (とても強く入ってすぐ弱める)」「dolce e trqnq. (甘く静かに)」、「cresc.molto f (ぐんぐん盛り上げて強く言い切る)」などの表現は原曲と同じ。
原曲の旋律を四分音符と二分音符に落とし込んでいる。「ffp (とても強く入ってすぐ弱める)」「dolce e trqnq. (甘く静かに)」、「cresc.molto f (ぐんぐん盛り上げて強く言い切る)」などの表現は原曲と同じ。

「B譜」を編曲するのは、子どもたちの指揮指導にあたる芸術家、浅岡洋平さんだ。エル・システマでは楽器を無償貸与し、支援する人が寄り添うが、それだけでは芸術の領域まではなかなか踏み込めまい。参加した人が満足し感動するには、作品と芸術家の力が必要だ。 もし「だれもが自分なりに参加し、支え合い、感動できる環境」そのものが21世紀の芸術の姿なのだとすれば、子どもも保護者も初心者も経験者も、芸術の新しい価値を創造する一翼を担っているといえる。こうなると奏者も聴衆も、これまでのように、百点目指して訓練し、ミスがないかを添削してばかりではいられないだろう。

そもそも楽譜の整備とは非常に手がかかるものだ。 加えて音楽作品の編曲には細心の注意もいる。愛好家のなかには、作曲家の遺した偉大な作品に、演奏者の都合で手を入れることに懐疑的な考えを持つ人もいるだろう。それでも浅岡さんは初心者と経験者、両方の成長を踏まえ、どの曲にも「B譜」を用意する。子どもたちにその譜が読めるように練習環境を設計する。たいへんな労力だが、愛情こまやかに、合理的な配慮を絶やさない姿勢は、300年前から続く器楽の個人指導や教則本の伝統と同じようにもみえる。芸術家が、作品の保存に加え、人々の参加のプロセスに重きを置き始めた。専門性を活かし、音楽的な価値を損なわないように教材や楽譜を整備する。「環境」への日々の取り組みは、新たなオーケストラ教育に対する説得力を加えていく。

促成栽培より森の生態系。
伝統と前衛の境界で新しい価値を創造する芸術家。

浅岡洋平さん。エル・システマジャパンの指導アドバイザー(技術顧問)。

指揮者、チェリスト。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学卒業。東京藝術大学大学院、ジュリアード音楽院修了。カーネギーリサイタルホールでデビュー、ニューヨーク、東京で活動。2013年から相馬を訪問し、相馬子どもオーケストラを現地の指導者とともに育てている。指導指揮、練習計画、編曲、教材開発までをトータルデザイン。教材『オーケストラ・スタディ』を考案した。指導スタイルはフレンドリーで現代的。傍らに膝をつき、目を合わせて、子どもにわかることばで語りかける。「ミニカーで遊んだことある? 弓はね、長いけどミニカーみたいに軽く持って、弦の上をまっすぐ走らせるんだよ」「そうだ!」。練習では大きく両腕を広げ、笑顔で声をかける。「オーケー、じょうず」「よくがんばったね」「おつかれさま、ほかの人にも教えてあげてね」。

指揮指導の浅岡洋平さん。「音楽を形にするのは簡単なんです。同じ練習を長い時間繰り返せばいい。でもそれじゃ、厳しい練習だったということ以外なんにも心に残らない。たいせつなのは、形じゃないんです」© FESJ/2013/Mariko Tagashira
指揮指導の浅岡洋平さん。「音楽を形にするのは簡単なんです。同じ練習を長い時間繰り返せばいい。でもそれじゃ、厳しい練習だったということ以外なんにも心に残らない。たいせつなのは、形じゃないんです」© FESJ/2013/Mariko Tagashira

昭和の時代、楽器指導者と運動部の顧問は、おっかない大人の代表選手だった。スタンリー・キューブリックの映画「フルメタル・ジャケット」ではアーミーの厳しい訓練の恐怖と狂気を描くが、集団がひとつの目的に向かうとき、個人の心境や状態はあとまわしにされがちだ。音楽もひとりひとりが演奏の精度に影響するから、ともすれば全体主義に陥りやすい。それを知るからこそ浅岡さんは怒らない。命令しない。 笑顔で子どもたちを肯定し、安心できる環境を創り続ける。 

伝統的な芸の世界では、芸術家は「門下」と称し「縦」の関係を作ってきた。その道に入門した弟子を一番弟子、二番弟子と格付けし、弟子が孫弟子を取って技法や指導法を継承する。伝統や技術が保存されるいっぽうで、指示命令系統が強化されがちだ。 相馬子どもオーケストラは、技術や経験を問われず演奏に参加し、卒業すれば世代が入れ替わる性質を持つ。指導者、支援者も、出身や経験が異なる。そのだれもが「横」「斜め」の関係で集団を構成すると浅岡さんは考える。「どの大人も、子どもの学び合える環境の一部と考える。大切なのは子どもです。僕もフェローも子どもから教わっているんです」。

浅岡さんは目指す環境を「森」と呼び、多様な生物の共生するエコロジー(生態系)に喩える。浅岡さんは小学校5年生のときチェロを始めた。中学生になって富山県の子どもオーケストラで仲間と過ごすうちに音楽に目覚め、「芸高」こと東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校に入学する。芸高は、全国から神童や天才少女の集うエリート校。2歳、3歳から親や先生と差し向かいで十数年間練習を積み重ね、数々のコンクール受賞歴を背負う神童たち。その演奏は胡蝶蘭の華麗さで、テクニックは完璧だ。楽器経験わずか数年の浅岡少年が彼らと肩を並べたのもひとつのキセキだが、浅岡さんを育てたのは「オーケストラの森」だった。

「バッハやヘンデルの協奏曲やハイドン、モーツァルトの交響曲。ホンモノの芸術作品に触れ、強く感動しました。感動体験が先にあれば、真剣になれる。仲間と合奏するのも楽しくてたまらなかった。競い合うように練習しました。いまも世界中でそのときの仲間が活躍しています」と浅岡さんは話す。森の樹木や草花はたくましく自生し、鉢では花を咲かせない。少年たちの育つオーケストラの森は、日がないちにち過ごして飽きることのないビオトープだったに違いない。

EDUCATION & COMMUNITY
芸術の担っていく新しい価値とは?

「オーケストラは家族。そしてコミュニティです。自分に力を与えてくれる太陽でした」。5歳からエル・システマで育った指揮者グスターボ・ドゥダメルは繰り返し語る。デビュー当初は英語はけっして流暢ではなかったが、世界各国で仕事を任され着々とポストを獲得してきた。なかでもベルリン・フィル次期音楽監督は全世界に注目されるポストのひとつで、いつかはドゥダメルをと、就任を期待する声もあがっている。2018年に64歳を迎える指揮者サイモン・ラトルが音楽監督勇退を宣言したことから、いよいよこの春5月11日、ベルリン・フィル団員による選挙が予定されている。周辺がざわめきだしたドゥダメルだが、こうした世界の超一流オーケストラにも、貧困や災害を抱える子どもオーケストラにも等しく向き合えるのは、 自身に仲間と家族のように過ごしてきた経験があるから。異文化の人々と向き合い、ともにひとつのものを作り上げていく力とは、語学力の手前にある。 芸術が世界で担う新しい価値とはなにか。教育やコミュニティから取り組む動きがあった。

ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、LAフィル、ロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、東京交響楽団、都響、コンセルトヘボウ、ボストン交響楽団、クリーヴランド交響楽団、パリ管弦楽団。いまや世界の交響楽団の公式Webサイトには「EDUCATION」「COMMUNITY」というメニューが常設されている。 教育とコミュニティは、 現代の交響楽団にとって、演奏と並ぶ事業の柱のひとつだというのだ。年間予算が割かれ、マネージメントに長けたスタッフが事業運営にあたる。ここでの教育は「だれでも参加できる芸術活動」がキーワードとなってくる。

ベネズエラ発祥の「エル・システマ」でともに育ったグスターボ・ドゥダメルとシモン・ボリバル交響楽団。どちらもいまや世界を舞台に活躍する「家族」。
ベネズエラ発祥の「エル・システマ」でともに育ったグスターボ・ドゥダメルとシモン・ボリバル交響楽団。どちらもいまや世界を舞台に活躍する「家族」。

ドゥダメルは2015年3月28日と29日、音楽監督を務めるLAフィル(ロサンゼルス・フィルハーモニック)とともに来日公演する。 LAフィルは、教育事業「ロサンゼルス・ユース・オーケストラ(YOLA)」を展開し、2009年からエル・システマを導入している。この3月は700人を代表する15人の子どもたちもともに来日し、相馬と東京に滞在することになった。出迎えるのは日本でエル・システマに取り組む「相馬子どもオーケストラ&コーラス」の子どもたち110人。地元の市民会館で合同練習をし、まずは福島県相馬市で演奏を披露。続いて、東京都港区のサントリーホールでの公開リハーサルに挑む。

大先輩ドゥダメルも、公演の合間をぬって「特別リハーサル&コンサート」で指揮棒をとり、エル・システマの子どもたちと音楽の時間を過ごす。曲目は、チェコの作曲家ドヴォルザークの『交響曲第8番終楽章』。昨秋9月、ドゥダメルはウィーン・フィルとの公演でこの曲を演奏した。公開リハーサルではベテラン奏者とともに、この終楽章の主旋律を取り出して、念入りにフレーズを作っていたのを思い出す。 ドヴォルザークの『交響曲第8番』は、ボヘミアの丘と河と森で葉っぱや木の実を拾い集めたような、素朴で元気な音楽。この春は同じ旋律を同じホールで、子どもたちと奏でることになる。そうそう、ここだけの話、日本の音楽ファンにあまねく愛される「聖なるあの曲」も振るかも!?!? 

「特別リハーサル&コンサート」は2015年3月29日日曜の11時から。入場料1,000円から発券手数料を除いた全額が、本イベント実施のための寄付となる。ドゥダメルの語るエル・システマのオーケストラ教育を、東京で観る機会がやってきた。LAの子どもたち、相馬の子どもたち、日本の音楽家、ベネズエラの巨匠が、チェコの大作曲家の作品をテーマに、東京のホールに集い演奏する。異文化、異言語、異人種。違ってあたりまえ、それが地球だ。グローバルな「音楽の森」の培う生物多様性が、地球の街角に笑顔を咲かせ、感動を実らせる。2015年3月29日、日曜日。ホールを出たらきっと空を見上げよう。東京は桜が咲くころだ。

LAフィル&ドゥダメル来日公演
ロサンゼルス・フィルハーモニック
グスターボ・ドゥダメル音楽監督/指揮

会場:東京・サントリーホール 大ホール(東京都港区赤坂1-13-1)

日時:2015年3月28日(土)18:00
曲目:マーラー『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』

日時:2015年3月29日(日)14:00
曲目:J.アダムズ『シティ・ノアール』(ロス・フィル委嘱作品)
ドヴォルザーク『交響曲第9番ホ短調「新世界より」』

日米エルシステマ共同企画
『ドゥダメルと子どもたち 特別リハーサル&コンサート』

グスターボ・ドゥダメル指揮
ロサンゼルス・ユース・オーケストラ & 相馬子どもオーケストラ&コーラス
演奏場所:東京・サントリーホール

公開日:2015年3月29日(日)11:00〜12:00
曲目:ドヴォルザーク『交響曲第8番より最終楽章』
相馬子どもコーラスによる合唱

主催:ロサンゼルス・フィルハーモニック
一般社団法人エル・システマジャパン
共催:相馬市 
後援:アメリカ大使館、ベネズエラ大使館
特別協力:AMATI、サントリーホール
特別協賛:アークヒルズクラブ、サントリーホールディングス株式会社、楽天株式会社
(BSYO / 黒猫)プロフィール:メーカー人事、ネットコンテンツ&コミュニティ開発を経てサイト企画制作へ。ライフワークはピアノ指導。