時代に欠落した音を探し続ける
作曲家、三宅純。

(2012.05.15)
ピナ・パウシュ ヴッパダール舞踊団『VOLLMOND』より ©A・I Photo by Naoto Iijima
ピナ・パウシュ ヴッパダール舞踊団『VOLLMOND』より ©A・I Photo by Naoto Iijima

6月30日、新宿文化センター大ホールにて開催される
『PINA BAUSCH TRIBUTE 映像と音楽で綴る舞踊家ピナ・バウシュの軌跡』。
映像上映と、パリを拠点に活動する作曲家三宅純さんが監修する
トリビュート・コンサートからなるイベントです。
その内容、また世界的に活躍する三宅さんの作曲家としての原点についてお話をうかがいました。

ヴッパタール舞踊団から、ある日突然、電話。

ー6月30日、ピナさんの命日に新宿文化センター大ホールでトリビュート・コンサートを開催するとのことですが、どのような内容なものになるのでしょうか?

三宅:まず第1部はピナ本人にフォーカスした映像作品を上映したいと思っています。当初は、ヴッパタール舞踊団のダンサーを呼んで即興でやろうとも考えていたのですが、カンパニーはちょうどロンドンで10作品連続公演中ということで断念、純粋に音楽会として成立するものとしてやりたいと考えています。ピナの舞台で使われた曲ももちろん演奏しますが、そこだけにこだわらず、ピナへの音楽の捧げものと捉えてください。

ー三宅さんはピナさん主宰のヴッパタール舞踊団に多くの楽曲を提供してます。2006年初演の『フルムーン(VOLLMOND)』の中の1曲『Lilies of the Valley』はヴィム・ヴェンダース監督『PINA ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』の予告編でも印象的に使われていました。そもそもピナさんと三宅さんの出会いはいつごろ、どのように? 

三宅:まだ僕がパリで暮らしはじめる前でしたから’04年のことだと思います、ヴッパタール舞踊団にはふたりの音楽監督がいるのですが、そのうちのひとり、アンドレアス・アイゼンシュナイダーさんから国際電話がかかって来たんです。「この曲は君の楽曲か? カンパニーのダンサーのひとりが友人からもらったCDRに入っている、おそらく君の作品で、タイトルもわからない、(劇中使用したいので)身元確認したいんだけど。」と言う。電話口で聞かせてもらって「ああ、そういえばその曲は」と確認したんです。

僕の’93年のアルバム『星ノ玉ノ緒 ENTROPATHY』と’00年のアルバム『Mondo Erotica」からの2曲でのちに『ラフカット(ROUGH CUT)』(’05年初演)で使われることになりました。それからほどなくしてヴッパタール舞踊団の来日公演があり、ピナとも直接会うことができました。さっそくアンドレアスが僕の家に遊びに来て、未発表テイクないか、といってデモテープを 持ち帰った。それが『フルムーン (VOLLMOND)』に使われることになります。

もうひとりの音楽監督マティアスは、もう35年間もピナと仕事をしていて、ピアニストでもあり、舞台監督的な役割も果たします。彼がひとりで選曲をしていた時代はクラシック、ジャズ、ワールドミュージックなどが守備範囲でしたが、15年前にアンドレアスが加入して、カンパニーで使われる音楽の幅もグッと広がりました。アンドレアスは世界的な音楽コレクターと言って良いと思います。常に新しい音を探していて、公演中はサウンドエンジニアも兼ねます。

***

ーその後、三宅さんがピナのためにオリジナル曲を書く、ということになったのでしょうか?

三宅:ごく初期の作品を除いて、通常ピナ作品の音楽は既成曲で構成されています。彼女の制作スタイルでは、作曲家が書き下ろしをしている時間が無いのです。通常彼らは音楽を付けずに、1年かけて身体表現を突き詰めていきます。すべてのムーブメントが決まった段階になって、ようやく音楽監督たちは既成曲をプレゼンテーションする時間を与えられ、そこで決まった曲が使われる。ほとんどの場合、それは初日直前。従って書き下ろしでは間に合わないわけです。

僕は「もっと能動的な関わり方はできないだろうか?」と提案し、やがて彼らが困った時に相談を受けるようになりました。他にこういう関わり方をした作曲家はいないようです。

ー三宅さんはジャズ、特に即興演奏を得意とされていたり、日本ではCM楽曲など多く手がけられていましたが、それらの仕事とピナさんとの仕事は共通点がありましたか? それとも全く別の、刺激のあるお仕事だったのでしょうか?

三宅:楽曲を作るという行為にこそ違いはありませんが、ピナは即興で触発し合うという制作スタイルではないですし、映像作品などと違って舞台上に何が起こっているかほとんど知らされないので、他のプロジェクトとはかなりプロセスが異なりました。

キーワードをもらって書き下ろしをした場合でも、ピナはできた楽曲に対して修正を入れる事は無く、受け入れるかどうか、「Yes」か「No」かのどちらかなんです。

常に時代に欠落している音を作る。

ー三宅さんの2年ほど前のアルバム『Stolen from Strangers』、私はこの数年の中で最も聴いているアルバムなのですが、ジャズからはじまり映画、CM、舞台音楽まで手がけられるという三宅さんの音楽活動の集大成的なものだと思います。ジャンルを超えて、聴くごとに新しい発見があります。こういったオリジナルなアルバムを作ることと、映画、CM、舞台音楽といった委嘱作品を作ることというのは、違うものでしょうか?

三宅:委嘱作品は通常まず映像側からの要求があってそれを満たしていく訳ですが、アルバムの場合は常に時代の盲点をつくというか、今の時代に欠落している音を作ろうとする傾向があります。今聞きたいけれど、存在しない。だから自分で作るしか無いのです。

意外とCMや舞台など、委嘱作品の締め切りに追われている時の方が「ああ、これって今、ない音じゃないか!」と発見することが多いです。

オリジナル作品を作ることと、委嘱作品どちらが欠けてもスピード感が落ちるという部分がある。オリジナル作品というのは締め切りがない。締め切りがあるとあっという間にできるんですけどね。だから嘘でもいいから、締め切りがあった方がよいんじゃないかと思います(笑)。自分の作品にはちょっと年数をかけます。

譜面嫌いな子供
「音楽は自分の中から沸いてくるものだろう!」

ー三宅さんの音楽活動のスタートというのは、やはりジャズでしょうか。

三宅:そうです、まあ、本当のスタートは子守唄かもしれませんけどね。小学生の頃、ピアノを習わされていて、練習がイヤでしょうがありませんでした。譜面を読むことが嫌いで「音楽ってのは、中から出てくるもんだよな」と勝手に思い込んでいた。レッスンで先生が教えることはなんとなくやって、あとは勝手に好きなことを弾いてる、アドリブしてる、っていうようなことをやっていたみたいです。

ー幼少期に今の三宅さんの原点が芽生えてますね。

幼い頃からピアノ、長じてトランペットを手にした。三宅さんの語り口は、あくまでやさしく静か、そしてシャープ。三宅さんの音楽さながら。©2012 by Peter Brune

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ーその後、劇的に、ミュージシャンになろうと決心した時の音楽というのは?

三宅:それはやはりジャズだったんですね。小学校6年生の時、親しい友人のお母さんがジャズ狂でJATP(Jazz at the Philharmonic)の来日公演を身を持って経験した世代の人でした。ある日たまたま彼の家に行った時に、チャーリー・パーカーの『Jazz at Massey Hall』とマイルス・デイビスの『マイルス・デイビスin東京』を同時にかけてました。「なんだ、これは!」と思いました。「これは即興でできている」と聞いた時に、あり得ない、と思ったんですけど、そういうことができる人になりたいと思い、そこからですね。

ーそこでトランペットを持った、というのは?

三宅:音色が一番好きだったんですね。また、僕の父親は音楽よりも何よりも、音それ自体が嫌いな、音がすることが許せない人でした。化学者だったので、化学式を書いたりするのに邪魔だったんでしょうけど、食事中の会話すらない方がよい、ドアの開け閉めも音をたてると怒られちゃう。それだったら、一番音がデカイやつをやってやる!と(笑)。

ーははは。両親が音楽好きな方でその影響を受けて音楽好きになった、というのとはむしろ逆ですね。

三宅:母は音楽好きでした。父がドイツに2年間留学していた時があって、その間に母は父に内緒でこっそりピアノを買ってしまった。父が帰国するとピアノがある! 重くて動かせない! ということもありました(笑)。

ーははは。ジャズに夢中になっていたのは小学生の時からかなり長い間ですか? 

三宅:そうですね、小学校6年の時分から、バークリー(音楽大学)に行って、日本に帰る直前までは、ほとんどジャズしか聞いていないです。

ーリアルタイムに聴いているというよりは少し後追いで聞いていた?

三宅:聴き始めたのはちょうどマイルスの『ビッチェズ・ブリュー (Bitches Brew)69年』の頃なんですけど、あの作品は初心者には難解すぎたので、ビバップからはじまって、もっと古いものを聴きつつ、モダンジャズ、新主流派的なものを中心に聴いてました。

壮大なラボにいたような
80年代の広告シーン。

ー帰国してからは、ジャズミュージシャンとしての活動をしていたのでしょうか? 

三宅:帰国前にマイルス・デイビスのカムバック・コンサートに行きました。僕にとってのジャズというのはスタイルとしてのジャズではなく、日々、ありえないことが起こること、「こんなのありか!」というものが生まれてくる日進月歩のものだった。停滞していたジャズ界にマイルスのカムバックが何をもたらすか期待でいっぱいだったのですが、公演を観て全く夢破れ、僕はそこでジャズは終わったと思いました。絶望感を持って日本に帰って来ました。それまで一生懸命に身につけたことが、哀しい性のようになってしまった。でも仕事としてできることは人前でトランペットを吹いて演奏するだけ。どうしようかとけっこう途方に暮れてました。

ちょうど’81年頃、世の中はバブルまっただ中で広告の世界がめちゃくちゃ面白かった。音も映像も。石岡瑛子さんがまだ広告をやっていたり、一見アートフィルムかなと思って見てると最後に商品の名前が出てくる、といったCMもあって、これはジャズよりよっぽどジャズっぽいなと思いました。帰国して最初に作ったアルバム『JUNE NIGHT LOVE』の『Could it be real?』が、たまたまアンディ・ウォーホル出演のTDKのCMに使われて、広告の音楽の仕事が舞い込むようになったのですが、即興に夢中だった僕は、学校でアレンジや作曲の勉強は、最低限しかしていない。ゆっくりやる即興なんてダメだと思ってましたから。

でも依頼する方は、(僕が)アメリカの音楽大学を出てるから当然できるものとして、作曲やアレンジの発注をしてくる。演歌歌手とアフリカ人が一緒にやったらどうなるか、イタリアでもう100年歌われているカンツォーネのようなものを作ってくれ、なんていう面白い発注があったりました。そのたびに付け焼刃でそのジャンルの音楽をたくさん聴いて、エッセンスを抽出して真似しつつ、かつ、ハイブリッドに異種交配した音を作るということをやっていました。

壮大なラボラトリーの中に組み込まれた感じで、とてもクリエイテイブで充実した時期を過ごさせてもらいました。

フランスを選んだのでなく、
パリを選ぶ。
ークリエイターが新しいものを作っていくパワーにみなぎっていた時代ですね。その後、フランスに渡りますが、なぜフランスに?

三宅:僕はフランスでなく、パリを選んだと思います。10年以上に渡って、委嘱作品のために全力疾走していて、アーティストとして の自分を見失う瞬間があるのに気がついた。それにコラボしたいと思うアーティストと日本という国との物理的な距離感が遠すぎる事にも危機感を覚えて、脱出しようと決意したのが’95年でした。

さらにちょうど離婚して、シングルファーザーになってしまいました。僕がめんどうを見ることになった娘はまだ8歳で、いきなり彼女と海外へダイビングするにはリスクが高いと考え、彼女が高校を出るまで待つことにしました。

かつて暮らしたニューヨークに戻ろうとしましたが、ブッシュ政権になり、911が起こり、アメリカは巨大な島国のようになってしまった。島国はいやだ、国境が地続きのところがいい。また世界のHUBとして機能するところ、ワイン、食事がおいしいところがいい。いろいろ考えて電話帳を見たら知り合いはなぜかフランス人が多かった。言葉はできないが、アメリカに行った時も言葉はできなかったんだし、環境を変えるにはよい、ということでパリを選びました。

ベルリンという選択もあったし、もっと角度をつけてアムステルダム、人生を楽しみたいならイタリアというのもあったと思います。未だにイタリアがパリにあればいいのに、とは思ってますけど(笑)。

ソリッド、クリーン、モダンとは
対極の音がする。

ーフランスは大陸にあるといういうことがやはり大きい思うのですが、ジャンルという考え方がとっぱらわれてしまうといいますか、ジューイッシュ、マグレブ、アフリカの音、いろんな要素が綺麗にミックスされて、アーティストがそれを自分の表現にしている。すごく面白いアーティストが多いという印象です。フランスに行ったからこそ刺激を受けたアーティストはいますか?

三宅:刺激の多いところ、パリという街が持つ地理的環境の恩恵を受けた音楽シーンがあるのは確かです。アメリカ的マッチョな意味でいうと、ミュージシャンの技術は、全方位的にマッチョな人は少ないです。むしろ、これはできるけど、あれは全然できない、という人が多い。日本ではスタジオミュージシャンを呼ぶと、だいたいどんなことでもそれなりにやってくれますが、パリではそれはダメ。これなら、この人、という呼び方でないとダメ。

面白かったのは、いつもパリでお世話になっているエンジニアと大げんかしたことがあるのですが、フランス人は歌詞にたいへんな重きを置く。僕は歌詞の意味の大切さもわかるし、あるメロディーに、ある歌詞がついた時の相乗効果もわかるんですが、むしろ、言葉がわからなくて聞いた時のサウンドがいちばん大事だと思っている。いわば楽器のひとつとして歌が鳴ってればよいのですが、フランス人は「歌詞の意味が聞こえて来ないじゃないか」という。それで大モメしたことがありました。「わかった、君はフレンチミックスを作ってくれ、僕はグローバルミックスをやるから」と、自分たちのスタイルがはっきりした出来事でもありました。

スタジオの音響にしても、英語圏、ドイツ語圏に比べて決してよいわけではない。独特のスタイルはあるが、最先端ではない。長く大事に使っていますが。セルジュ・ゲンスブールがねじろにしていた『スタジオ・フェルベール』は僕もよく使うのですが、メンテナンスが行き届いてないけど、なんかよい音がする。ソリッドで、クリーンで、モダンな音というのとは対極の音がしますね。

ーパリは、リヨンやマルセイユとは違う音楽文化があると思うのですが、そこには惹かれませんか?

三宅:いや、まだ掘り下げが足りないです(笑)。僕は、フランスで仕事するためにフランスにいるわけでなくて、コラボレーションの相手が通過していく街、世界のHUBとしてあらゆる情報が行き交う街として、パリが自分の拠点にあるだけだから。

場所がなくなったら、その思い出は何処へ?
記憶を流し入れる劇場があったら……

ー新しいアルバムはどういった仕上がりになるのでしょうか。

三宅:これは……言葉でいうのは難しい……ずっと実現させたかったコンセプトがあって、東京に住んでいる時から思ってたことなんですが、東京の街では、ビルを跡形もなく取り壊してしまったり、歌舞伎座のような歴史的建造物も失くなってしまう。よく通っていたレストランやクラブがあってもある日突然失くなってしまったり。そこにくっついていた僕の思い出はどこに行ってしまうのか? 

どこかに失われた記憶が流れ込む劇場があって、そこに行くと思い出に出会えるんだったらいいな、と思っていたんです。そこでかかっている音楽ってどんな音楽なんだろうな、というのがコンセプト。

これは言うと楽しそうでしょ、でもやるのはけっこう難しい(笑)。単に懐かしいだけじゃ違うし、未来的というだけでは記憶じゃなくなってしまう。1枚では語りきれないのでシリーズ化しようかと思ってるんですけどね(笑)。

ー三宅さんの音楽の最大の魅力は、懐かしさと新しさ、そして”のりしろ”。聴き手側に考えさせるというか、相手に何か与える”のりしろ”があるところが魅力だと思います。

三宅:ありがとうございます、自分では意図していないことですけど(笑)。ただ、’93年のアルバム『星ノ玉ノ緒 ENTROPATHY』のキャッチにも「はじめて出会う懐かしさ」というのがあって、それは常に目指しているかもしれない。

ー早ければ来年くらいにはリリースされますか?

三宅:曲はもうアルバム2枚分あるのですが、これをどう落としこむのかフォーカスできて来ているところです。録れているパートもあり、ボーカリストさえ確定すれば、早くできると思います。

昨年の震災では、形のあるなしを超えて、計り知れないものが失われました。こんな時こそ失われた記憶が流入する劇場が存在しても良いのではないかとも感じています。

PINA BAUSCH TRIBUTE ピナ・バウシュ トリビュート
映像と音楽で綴る舞踊家ピナ・バウシュの軌跡

第1部:ピナ・バウシュ作品映像のスクリーン上映
第2部:トリビュートコンサート
出演:三宅 純(トランペット、ピアノ他)with リサ・パピノー(ヴォーカル)、ブルガリア・コスミック・ヴォイセズ合唱団(ポリフォニー女声合唱)、 落合徹也ストリングス[落合徹也(ヴァイオリン)、藤田弥生(ヴァイオリン)、カメルーン真希(ヴィオラ)、村中俊 之(チェロ)]、バカボン鈴木 (ベース)、伊丹雅博 (ギター、ウード)、yoshie*(パーカッション、ドラム)他

料金:4,900 円 (全席指定・税込み)
期日:2012 年 6 月 30 日(土) 
開演:15:30(開場:14:30)
会場:新宿文化センター大ホール

お問合せ:チケットスペース
03-3234-9999 (月~土 / 10:00〜12:00、13:00〜18:00)
http://ints.co.jp/


リサ・パピノー Photo by Betsy Kenyon & Melanie Willhid


ブルガリア・コスミック・ヴォイセズ合唱団 (Darina-Albena-Vesselina) Photo by Vassilka Balevska

■Jun Miyake Profiel

三宅 純(みやけ・じゅん)1958 年 1 月 7 日生。日野皓正に見出され、バークリー音楽大学に学び、ジャズミュージシャンと して活動開始。その傍ら作曲家としても活動、CM、映 画、アニメ、ドキュメンタリー、舞台、コンテンポラリーダンス等多くの作品に関わる。3,000 作 を超えるCM 作品の中にはカンヌ国際広告映画祭、デジタルメディア・グランプリ等での受 賞作も多数。 ピナ・バウシュ、ロバート・ウィルソン、フィリップ・ドゥクフレ、オリバー・ストーン、ジャン=ポール・グード(本年コマンドール勲章(フランス芸術文化勲章最高位)受賞)、大友克洋らの作品に参加、個性的なサウンドは国際的賞賛を受けている。 ジャンルを超越した活動を通じてハル・ウィルナー、アー ト・リンゼイ、デヴィッド・バーン、グレース・ジョーンズ、アルチュール・H、ヴィニシウス・カントゥアーリア 等、音楽家とのコラボレーションも多い。’05 年秋よりパリに拠点を置き、精力的に活動中。最新アルバム”Stolen from strangers”はフランス、ドイツの音楽誌 で「年間ベストアルバム」「音楽批評家大賞」などを受賞。ギャラリーラファイエット・オムの「2009 年の男」にも 選出された。ピナ・バウシュ逝去を悼んで’09 年 11 月にパリ市立劇場で行われた追悼催事では、ヴッパタール舞踊団 メンバーや多くの聴衆が見守る中、ピナに捧げる演奏を行った。主要楽曲を提供した、ヴィム・ヴェンダース作 品「ピナ/踊り続けるいのち」は、ヨーロッパ・フィルムアワード 2012 受賞、BAFTA award(英国アカデミー賞) 2012 およびアカデミー賞 2012 にノミネートされた。

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