2010年の静かなるムーヴメント。「素晴らしきメランコリーの世界」と
カルロス・アギーレ。

(2010.12.28)

「素晴らしきメランコリーの世界」と「bar buenos aires」。

2009年末、今はなきHMV渋谷店のリニューアルを機に「素晴らしきメランコリーの世界」という売場が生まれました。立ち上げたのは同店マネージャーだった河野洋志さんと、HMV商品本部ジャズ/ワールド担当バイヤーの山本勇樹さん。自分たちの好きな切ない感じの音楽を、内容は良いのに地味、ジャンル分けができない、売りにくいという理由でお店に置かれないようなCDを揃えよう…というコンセプトの売場の誕生。パッケージ販売が厳しい時代だからこそ価値ある挑戦であり、全てはここから始まったといえます。

そのセレクトは、欧米のシンガー・ソングライターからジャズ、ブラジル音楽を始めとするワールド・ミュージックからエレクトロニカ、そして日本のミュージシャンまで、ジャンルも国境も時代も越え、多岐にわたっていました。どれもが切なく、心を慰撫してくれるような美しい作品ばかり。ネットに氾濫する情報を眺めたり、特定のジャンルをチェックしているだけではありえなかったようなアーティストとの出会いがたくさんありました。

そんな出会いの中で、もっとも僕たちの心を震えさせたのがアルゼンチンのアーティスト、カルロス・アギーレの音楽でした。フォルクローレなどアルゼンチンの伝統音楽に根差し、ジャズやクラシックのハーモニーを取り入れたその美しい音世界。3枚リリースされている「カルロス・アギーレ・グルーポ(グループ)」名義の作品はどれもが最高の内容にもかかわらず、ハンドメイドの凝ったアートワークのせいか市場に出回る数が極端に少なく、常に入手困難状態。「素晴らしきメランコリーの世界」売場でも、入荷してすぐ売り切れになりまた入荷…を繰り返しながら、ゆっくりとリスナーに浸透していきました。

そんな中、2010年1月に音楽文筆家の吉本宏さんと前述のHMV山本勇樹さんが始めたのが、カルロス・アギーレを始めとするアルゼンチンの素晴らしいアーティストを中心に、「素晴らしきメランコリーの世界」的音楽を聴くためのマンスリー・イベント「bar buenos aires」でした。音楽好きが集い、2人の選曲に耳を傾け、語り合う場が生まれたことが、2010年の「静かなるムーヴメント」の幕開けだったのです。そして2月末、このストーリーのもう1人のキーパーソンである河野洋志さんが、アルゼンチンへ旅立ったのです。

カルロス・アギーレのCDリリースから奇跡の来日まで。

僕は入手困難な彼の作品を国内盤としてリリースしたいと思い、それまでにもアギーレさん宛にメールを送っていたのですが返事を貰えずにいました(後に本人に確認したところ、自宅にはインターネット環境がなく、1〜2週間ごとに街に行きインターネット・カフェでメールをチェックしていること、さらに英語ができないのでなかなか返事を書けなかったことを教えられました)。

そこで僕は河野さんにアギーレさんへの手紙を託しました。当初はプライベートな旅行のはずだった河野さんのアルゼンチン行きは、カルロス・アギーレさんに会い、我々の熱い想いを直接伝えるというミッションを伴ったことにより、非常に重要なものとなってしまいました(笑)。

アルゼンチン大使館、現地在住のコーディネイターの方などのご協力を得て、果たして河野さんとアギーレさんの面会は実現しました。それも帰国の前日、たまたまアギーレさんがブエノスアイレスでのコンサートが決まっていたおかげで、アポイントが取れたのです。彼は普段、パラナというブエノスから遠く離れた田舎に住んでいるので、そこまで会いに行くのは現実的に考えて無理だったでしょう。河野さんの滞在期間中にブエノスでの公演があった偶然によって、我々はついにアギーレさんとの接点を持てたのです。

我々の熱い想いを河野さんから伝えて貰い、併せて日本盤のリリースを改めてオファーした結果、カルロス・アギーレ・グルーポの記念すべきファースト・アルバムでもっとも入手しづらかった2000年作品『クレーマ』の国内盤リリースが決定しました。そしてアギーレさんから「10月中旬にアルゼンチン政府の派遣で中国に行く予定なので、ぜひ日本での公演を実現したい」というメッセージまで受け取ったのです。

そして、全てが動き始めました。

10月の来日を見据え、CD発売を7月に決めリリースの準備を始めました。bar buenos airesを通じてカルロス・アギーレさんの音楽の虜になった人々が、手作りのジャケットを再現する作業の為にボランティアで集まってくれました。名付けて「チーム・カルロス・アギーレ」のメンバーの協力により、CDはオリジナル盤と同じように1枚1枚手作業で作られていきました。途中、ジャケットに封入する手描きの水彩画がアルゼンチンから届かないというトラブルもあり予定より2週間程リリースが遅れましたが、オリジナル盤のリリースから10年を経て2010年7月末、ついにリリースされたのです。

10月の来日ツアーの日程と会場はすぐに決まりました。山形、岡山、姫路、名古屋そして東京。アギーレさんの音楽を深く愛し、自分の手で公演を実現したいという情熱を抱く方がいる場所に行こうと当初から決めていたからです。全国5都市6公演のツアースケジュールが決まり、フライヤーやポスターを刷り、ウェブでも告知を始めるとすぐにチケットの予約が殺到し、たくさんの方々の期待が高まりが伝わってきました。

来日までのあいだには残念な出来事もありました。皆さんもご存知だと思いますが、HMV渋谷店が8月22日に閉店したのです。しかし彼らは『クレーマ』を100枚も仕入れ、発売から閉店までのわずか1カ月足らずで「素晴らしきメランコリーの世界」の売り場を中心に全て売り切ったのです。かつてはHMV渋谷店ほどの規模のお店なら100枚なんてたいした数字ではありませんでした。しかし、特に同業者の方には分かって貰えると思うのですが、特に大きなプロモーションもせず、リスナーも限られているタイプの音楽においては、昨今これだけの枚数を1カ月間で売り切るのは本当に大変です。僕はこのニュースを聞いて、アギーレさんの音楽そして「素晴らしきメランコリーの世界」が音楽ファンの間で静かに浸透していることを実感したのです。

10月、カルロス・アギーレさんが遂に来日しました。

実際ツアーが始まると、全てが想像以上でした。アギーレさんのアーティストとしての真摯な姿勢、折りに触れて彼がボソっと語るその芸術への哲学、そしてもちろん演奏の素晴らしさに私たちは深く打たれました。さらにはアギーレさんの想像も軽く越えていたであろう、迎え入れて下さる各公演地のオーガナイザーの皆さんの情熱と、公演を心待ちにしていたオーディエンスの大歓迎も感動的でした。結果的にツアーは全公演がソールドアウトでした。発売当初は予約が伸びなかった会場も、ツアーが始まってその演奏の素晴らしさが話題になるにつれて一気に予約が埋まり、早々にソールドアウトになってしまった会場にも、問合せが止まらないという状況になっていったのです。このツアーに関わった全ての人にとって、それは熱狂というのは言い過ぎだとしても、微熱状態の夢のような日々だったと言えるかもしれません。

アギーレさんの言葉に、「音楽は人と人をつなぐものだ」というとても印象的なものがあります。まさにアギーレさんの音楽を介してつくられた人と人との絆、それぞれの情熱が幸せなかたちで1つになったものがこのツアーの大成功の源でした。

ツアー最終公演となるSpiral Hallでのコンサート、アギーレさんはある曲を演奏する前に語り始めました。

「2月、河野洋志さんが遠く日本から私に会いにきてくれました。彼との出会いがなければここにはいなかったし、素晴らしい人々とのつながりも生まれなかった。そんな想いをこめてこの曲を作りました」そういってピアノに静かに向かい、演奏したのは新曲「Hiroshi」でした。

日本各地を巡ったカルロス・アギーレさん。撮影/Ryo Mitamura
微熱の日々の後、2010年を凝縮したコンピレーションCDが登場。

「素晴らしきメランコリーの世界」はHMV渋谷店の閉店とともになくなってしまい、イベント「bar buenos aires」も、アギーレさんの来日が実現したことで目標は達成されたとし、マンスリーでの定期開催を終了しました。こう書くと何だか祭りの後の虚脱感に囚われてしまったように見えますが、大切にしたい、素晴らしい音楽はこれからもずっと私たちとともにあります。

そしてカルロス・アギーレ以外にも、「すばメラ」を象徴するアーティストは数多く存在します。欧米ではウィリアム・フィッツシモンズやベンチ・コネクション、ラムチョップ、サン・キル・ムーンといった孤高のシンガー・ソングライターたち。ゴールドムンドなど、ポスト・クラシカル〜エレクトロニカ周辺のアーティスト。南米のピアニスト、アンドレ・メーマリやフアン・スチュアートなど。

当初から「素晴らしきメランコリーの世界」に大きく共感してきたサバービアの橋本徹さんと「HMV渋谷閉店に伴う売り場への追悼の想いを込めてコンピを作りましょう」という話になったのも、とても自然な流れでした。あの売り場で愛情をもって紹介されてきた数々のアーティストの作品を収録した、あらゆるジャンル/年代を越えてグッド・ミュージックを愛し、必要とする人々によって起こった2010年の静かなるムーヴメントの最後を飾る、そして明日につながる究極のメランコリック・コレクションです。

ピアノが印象的な音源を集めた『ピアノ&クラシカル・アンビエンス』編と、ギターそしてシンガー・ソングライターの音源を集めた『ギター&フォーキー・アンビエンス』編の2枚がリリースされています。収録されているのは、どれも心に沁みる、いつまでも大切にしたくなるような作品ばかりです。ぜひ、CDをお買い求め頂けると嬉しいです。

それでは、2011年もまたいい音楽に出会えることを願って!

『素晴らしきメランコリーの世界〜ピアノ&クラシカル・アンビエンス』
RCIP-0150 Apres-midi Records 発売中
『素晴らしきメランコリーの世界〜ギター&フォーキー・アンビエンス』
RCIP-0151 Apres-midi Records 発売中

 

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