小人がいることを今も信じていたい大人たちへのプレゼント。

(2010.08.31)

『借りぐらしのアリエッティ』
達人たちからのメッセージ その1
米林宏昌監督インタビュー@スタジオジブリ

ジブリといったら宮崎駿監督と、どうしてもイメージします。しかもアリエッティの顔を見るにつけ、もののけ姫系の美系タイプ。てっきり、そう思っていたら、新人監督登場。

米林監督とは、どんな監督なのか、あんなに素敵な作品を作る
アニメの達人とは、どんな面構えかなど、興味津々。

大人の女性を感動させている新作を生み出した、
米林監督をスタジオジブリにお訪ねして、
『借りぐらしのアリエッティ』が完成するまでの心情や、
そのビジョン、改めてのアニメ―ション映画作りについての考えなどをうかがってみました。

 

大人の世界観に滲み込んでいくジブリの新作、アリエッティ。

前作『崖の上のポニョ』とうって変わって、今回の主人公アリエッティは、凛とした美少女アリエッティの冒険と少年への慕情の物語。

しかし、彼女は人間ではない。人間に見られることなく、人間と共存せざるを得ない小さな生命体で、常に人間の夢や幻想の中の創造物であって、私たちからしても大いに興味のある存在。

小人が私たちに見つからないように、ほんの少しだけ砂糖や、水や、生きていくのに必要なものを人間の暮らしから拝借し、よって人間と共存していく。しかし、常に絶滅の危機もあるのです。

その小人たちが本当に存在し、それを目の当たりにすることになる、命はかない少年とのわずかな時間の流れを、ていねいに、生き生きとしたアニメ映像で見せていく。これは、新たなジブリのチャレンジの様に私には感じられました。ていねいに描かれています。

森とも思える大きな庭のある一軒家。いつも木々がそよぎ、小人たちにとっては脅威ともなる昆虫や、小動物たちが生息する場所。青空や、雲や、雨などの森羅万象の描き方もとても美しく、地球がまだ、のんびりとしていた、いい時代の風景が感じられ、私の知る限りの大人たちで観た方々の評判は、こぞって五つ星!
もちろん、私もです。

原作はイギリスの作家メアリー・ノートン『床下の小人たち』で、宮崎駿監督が長い間、いつか作品にしようと大事に温めてきたお話だということです。

実写では表現できない水の雫や、木々のそよぎ方など、エコロジーな美しさが生き生きと描かれるところは、ジブリの作品ならでは。

 
ニックネームは、「麻呂」で、アリエッティの庭を漂う、そよ風の様な印象です。

麻呂か、マロか、いずれにしてもお公家さんの名をニックネームに持つ男とは……と考える間もなく、確かに納得させられてしまう、米林監督が現れると、その優雅そうな持ち味が第一印象で、納得させられてしまいました。

  
おっとりとした印象そのままに、ていねいで、優しく、終始自然体。初監督としてのやりがいや、思い入れなどをうかがいました。

とてもまっすぐに、お話をしてくださる方なので、米林監督の“肉声”を活かすようなインタビュー記事にしてみました。

宮崎駿さんの心得をしっかり守り、アニメーターとしての経験を生かし、素晴らしい作品に仕上げた米林宏昌監督。

 

―前作までのお仕事とは。

『千と千尋の神隠し』で初原画をやって以来、原画マン、いわゆるアニメーターとして作品に参加していました。前作『崖の上のポニョ』では、変形した巨大な魚がワーと出てくるシーンなんかを担当しています。

キャラクターに芝居をつけてゆくのがアニメーターの仕事なのですが、わかりやすくいうとパラパラ漫画です.
ちょっとずつ魚が動いていくっていうシーンとか。大体、ジブリの場合、
1カット5秒……で平均80枚。

「ポニョ」の時はもっと多かったと思います。

 
―アリエッティを制作した期間は充分にあった?

一番最初に引き受けてからは、1年半くらいはあったと思うんですけれど。
やっぱり絵コンテを描いたり、準備段階までで半年くらいはかかっています。
実際スタートしてからは大体11ヶ月くらいかかってますかね。
時間があればいいものができるというわけではないんです。
何年もかけて作るというやり方もありますけれど、僕だと
そんなに体力が持たないかな(笑)。
期間を区切った方が集中して良いものが作れる気がします。

ただ、タイミング的には別のプロジェクトに良く知ったスタッフが参加していたので、必ずしも息の合った人ばかりではなかったことも事実。
でも結果的にいうなら、スタッフみんなが本当にがんばってひとつの作品を作ったと思います。

 
―いざ監督になってみて。

まあ、僕はもう、淡々とやるしかないと思っていたし、多くの人の力がないと
出来ないと思っていました。アニメーションは御存知のように、
分業制で、作画、美術、仕上げ、撮影と、それぞれの部署の力で一つの作品が作られています。今回は各部署のベテランスタッフの力をたくさん借りています。

でも、それを統括する基本的な考えというのは、監督が持っていなくてはいけない。それを絵コンテという、映画の設計図になるものを最初に作っておくんです。最初にしっかり作り込んでおけば、あとは実際フィルムにしていく段階で、それぞれの部署の、美術監督とか、撮影監督、作画監督などに説明ができます。

僕なんかより、よっぽどベテランで、何度も長編の作品を作っている経験がある方たちななので、どういう表現がこのシーンにふさわしいか、とか話しあいながら作りました。

だから、自分が全部やらなくてはいけないという風に思うと、
自分に負けて、途中で立ちゆかなくなったりすることもありうるとは思うんですが、
常にそういう思い込みはしませんでしたから、大勢の協力も得てまとめられ、
完成にいたったと思います。

 
―監督となって、活かされた今までの経験とは。

僕はアニメーター出身なので、やっぱりやれるべきことは、アニメーション作りかなと。アニメーターが描いた原画を1カット、1カット、チェックしていきました。

各カットにはレイアウトといって、画面の構成とか撮影方法などを示したものがありますが、これも全カット手を入れています。

あと作画だと、原画の間に何枚絵を入れるかとか、原画のポーズが絵コンテの狙いどおりになっているかとかをチェックしています。例えば『アリエッティ』の場合、「アリエッティらしい芝居になっているか」とか。

じつは、アニメーターというのは、実写映画でいう役者のような存在で、どういう風に芝居をするかを決定づけるのが仕事なんです。アニメーターがつけた“芝居”というものが、どういう風に映画の中で意味を持つかをチェックしていく。

実写の監督だったら、役者の演技はフィルムに残ってしまうから何度もやり直ししたり、どこかで妥協しなくてはならない。アニメの場合、アニメーターが描いてくれたものを監督が自分で変更したり、タイミングを変えたりできるので、そういうことが出来るから、自分の“役者”経験も充分活きたわけです。
監督兼役者みたいな感じでしょうか(笑)

つまり、それぞれのアニメーターが絵コンテどおりではなく、自分で思う演技をしてくるってこともあるし、各役者がバラバラで思い思いの演技をしてくる、その統一、整合性合わせのために、監督がいるんです。演技だけ見ると上手い、いいなって思うこともあったとしても、映画作品全体の流れを考えると、「違う」、「直さないと」、ということも少なくないんですよ。

「これだけは手をいれなくては!」と思っているうちに、カットが山のように積まれていくんですよね……。

 
―宮崎駿監督との関係は。

もちろん、宮崎さんの脚本があってこそ、ちゃんとできたと思うし、やらなくてはならないという気持ちになれたと思います。面白い脚本だったし、これを読んで各シーンの意味をつかむことが、一番大切だと思いました。このシーンは何を意味するのか、このシーンの次に来るシーンのある意味は……など。

そういうことを考える作業は楽しかったですね。

それはたぶん、アニメーターとしてやっていたときでも、宮崎さんの描いた絵コンテの内容から、このカットの意味はどういう意味を持っているんだろうとか、そういう事を考えながら作業してきたので、それの“長めのバージョン”だと思って、今回も手がけましたから。

そもそも、この原作は宮崎さんが40年以上も前にアニメ映画として形にしたかった。が、なかなか現実のものにならなかった。でも今の時代に機が熟したんです。

「借りぐらし」というテーマが今の時代にピッタリなんじゃないか。何より、原作の小人たちは現代の我々そのものだ、ということを宮崎さんは言っていました。物を借りてそれを生活の中に活かすとか、あるいはその借りて来たものを使って物を作るとか、そういう生活スタイルが今の時代の雰囲気にあっているんではないかと。床下の家族のあり方なども今の時代に求められているものではないかと思います。

 
―宮崎駿さんの脚本とは?

例えばこんな感じです。
「アリエッティがツタをのぼって翔の部屋に行く」と、一行書いてあるんです。
どのようにとは書かれていません。

その表現をどうするかが、難しい。
アリエッティが身体いっぱい使って登って、葉っぱをギュッと握るとしなって、上についている雫がポロって落ちるとか、離すと揺れて葉が戻るとか、そういう動きを丹念にアニメーションにしてゆけば力のあるシーンになっていくということが、その一行の中に込められていることを受けとめました。それこそ宮崎さんの脚本の力だと思います。

米林監督がこだわった、蔦をのぼるアリエッティ。映画の作品の中では躍動感が感じられ、アリエッティの勇気が伝わるシーン。

 
―受けとめる感受性の源流とは。

趣味思考みたいなものは…なにがあるんだろうな…。少女漫画は好きですよ。今でもよく読むし、子供の頃は「りぼん」を読んでました。

 
―宮崎さんからもらった注文とは。

そうですね、作品を作るにあたり、アドバイスを貰いました。宮崎さんの口から出たのは『トーマの心臓』。
萩尾望都さんの作品です。

宮崎さんの口から出てくる事自体意外だったんですけど、『トーマの心臓』でやるなら相当に、気合いを入れなくちゃいけないだろうなと思ったんですけど。改めて読み返しました。宮崎さん自身もね、ふっと思いついたんでしょう、瞬間的に。

ちょっと繊細で、ちょっと危うい感じ、攻撃的でもあって。でも本当はものすごく真っすぐな心があって。そういう風な繊細な男の子が主人公なんですよ。表現もものすごく狭い範囲だったし、苦労しました。

『トーマの心臓』の主人公と近いのでしょうか。アリエッティが慕う人間の少年、翔君。この翔君に感情移入してしまうのは、私だけでしょうか。この作品、誰に感情移入するかで、自分を映し出す鏡にもなりそう。

 

―そこから生まれたこだわりとは。

さらに、宮崎さんから言われたのは、やはり、その絵コンテを作る時は、一本筋が通っていなくてはいけない。誰に何を言われても返せなくてはならないということでした。そういう意味でも、アリエッティと少年の心の流れにも、整合性が通っているか。そういうことを一番意識しました。あとは、世界が美しいこと。視点を変えたときに、美しい世界が広がっている。これらがきちんと描ければ、必ず良い映画になるんではないかと確信していました。

 
―さらなる注文は?

一番最初に宮崎さんの脚本に出て来たキャラクターで、一緒に話し合いながらも、本当に自信がなかったのが、アリエッティのお父さん。僕にそういう父性がないんですからね(笑)

一応2歳の男の子の父親ですが、全然そういう風な、父としての自覚もなかったので、どうやったら彼の気持ちを描いていけるかなというのを心配しながら、絵コンテ描いていたんです。

そうは言っても面白いもので、「借り」に出かけて行くくだりを描いて、戻って来た時に、絵コンテ上でちょっとお父さんが大きくなっているんですよ。もっとがっしりとして。最初に出かける前は、それよりちょっと小さく描いたわけです。それでまた、最初の方の絵コンテも書き直したりしてるんですけど。まあ、こういうことなのかな、お父さんの存在ってね。

アリエッティに対して小人の生き方の哲学や精神を理屈より、実際にやって見せて覚えさせる。口だけでなくて、身体で、行動で教えて行く。そういうことが、本来のお父さんの存在なのかなっていう。自分自身が、実際絵コンテを描きながらわかっていったっていうところはありましたね。

アリエッティのお父さん、寡黙だが、肝心なところはきちっと男らしく話してくれたり、とにかく「借り」の名人。男が男らしかった時代の父親像。原作が、戦後間もない時代背景で描かれているので、こういう男たちが各家庭の大黒柱になっていたとは思いたいが、最近は見かけなくなったお父さんでもあるのです。イギリスのナイト精神がDNAに入っているからなのだろうか。それだけ観てもウットリと楽しめました。

 
―「借り暮らし」について思うこと。

この人達(小人たち)はちっとも悪いとは思ってないですよね?人間のものを借りて生活しているっていうことをね。一応彼らも、節度を持っていて、必要以上の物を取って来てはいけないっていうルールがあって、角砂糖を持ってくるにしても、2個持ってっちゃいけない、1個だけにしておかなくてはいけないってね。ティッシュも1枚。

「生きるため」の最低限の物資を人間から拝借する。戦利品を二次利用したりする工夫もある。実際の僕たちの暮らしはものが有り余っているから、そのくらいはあげたっていいと思えてきますよ。節度を持ってというのが、美しいんです。原作なんかにも、持って行き過ぎて自滅していったという小人がでてくるんですけれど。それも人の世に通じるものがあり……。

原作が書かれたのは、戦後まもなくの時代ですから、もっと違う意味があったのかもしれないですが、「地球のことや、人間のことや、自然のことなどを考えさせられた」と、映画を見た方々が言うのです。

作品の中では、そういうことを押し付けがましく言ってるつもりもなくて、家族のあり方とか、人と人との関わりだとか、普遍的なところだけを考えていたんですが、みなさんが今の時代性とダブらせて、どこかエコ的なイメージを喚起したということは、この映画が、「鏡」のようなかたちで、時代を映し出してくれたのかもしれません。

作品に描かれる彼らの魅力は、「生きる」ことに一生懸命だということ。堅実的に生きている。法や、お金に関する世界で生きる我々よりたくましく、具体的に食べ物を自力で食べていったり、一生懸命、日々の生活を送り、生きていく。そのへんが面白いと思います。

 
―アニメ映画だから実現した、アリエッティ世界づくり

10センチの女の子が主人公ですから、彼女から見える世界の美しさみたいなものを描けたらいいなと思って作りました。庭の木々や葉ひとつでも、彼女以上に大きく、目立ったりする存在です。その自然が、風になびくあり様や、雫が転がり落ちるというようなシーンを作る。そのへんがアニメ表現の見せどころです。

アリエッティ自身の表現は、いろんな表情をいれていきたいなというのがありましたね。美しいだけじゃなくて勇気があって凛としていて、可愛さという面もあったり、ちょっと抜けてる面があったりする。翔君という少年が心臓が弱く、手術を控えて避暑に来ていて母親からも離れた場所なので心細く、心閉ざして、頑なでいる分、彼女の方は、絶滅の危機を孕んではいても、どちらかというと生命力に溢れ、大らかな表情を持った(小人の)女の子でいて欲しいなと。

床下の家族に対する床上の人達と、屋敷という対比も、今回作品で描く重要な要素だったわけです。そう言ったところに力を入れました。

 
―アリエッティの世界に近づくために試みる、愚直なまでの観察行動とは。

今回いろいろ研究したことというと、そうですね、草むらに行き、土に顔をうずめて、木々や葉の動きを観察するとか、人は階段を上がる時にはどうやって足や体を動かしているかとか、実際に観察することを様々にやってみました。翔がベッドから起き上がるシーンはスタッフに実際にやってもらいました。脳内で美少年に変換するのは大変でした。この作品に限らず、アニメーターに必要なことは、技術以前に観察力ですね。愚直なまでの観察、観察。

 
―つくる前の信念、一番つらかったこと。

映画づくりに入る前に宮崎さんから、心得みたいなものをもらっていましたから、それを守って作りました。
信念ということであれば、やはりそれは宮崎さんの脚本から描いた絵コンテの中に全て入っています。
作業している間は「良いものを作っている」と信じていました。

そういう中で、何と戦うかは、時間です。限られてますよね。何を諦めるのかの判断との闘い。もの作りの苦しさは、そこでしょう。これは辛い作業でしたね。

 
―出来あがった後の実感として。

こういう経験は、一度だけなんだと思っています。同じことはもう二度とない。そういう思いでいっぱいです。偶然な要素っていうのが、一つの作品を作るときにいっぱいあって、音楽をやってくださったセシル・コルベルさん(テーマソングも)との出会いも本当に偶然だったし、たくさんの優秀なスタッフの人達も今回の作品にしか関われないというスタッフもいるし。この偶然の重なりによって、この作品が出来あがったわけですから、この偶然は二度と起きないでしょう。

こんな風な監督の淡々としたお話に、実はとてもディープでリアリティあるものを感じ、映画作りへの素敵なエネルギーを感じました。

ジブリの屋上庭園で晴れ晴れとした表情の監督。ジブリのダークホースの貫録十分です。

 

 

お話の後はジブリのスタジオの屋上庭園で監督を撮影させていただきました。

屋上から眺めると武蔵野の風情が感じられる、緑が迫る環境です。
『となりのトトロ』から始まる、いつも、どこか自然回帰を意識した作品作りの基地としては絶好の場所で、新たな今回の作品が生まれるのは必然的だったことでしょう。

宮崎駿さんが40年以上温めたアイデアを花咲かせたのが、この米林監督なのです。
お話をうかがい、ロジカルに筋道を立てて、皆を引っ張っていける、まさに監督にふさわしい才能を感じました。お仕事では、“父性”も十分に発揮なさっていると思えます。
教授という印象もあり、お仕事そのものがフィールド・ワーク、人生の探究者という印象も受けました。

次回の作品、絶対楽しみです。また、素敵な偶然を引き寄せていただきたいものです。

ありがとうございました。

大人の鑑賞に充分のこの作品、また、今までアニメを観る機会がなかったという方などにも、絶対おススメの作品です。フランスの映画会社が出資してもいてヨーロッパ的な味わいも楽しめました。

このシリーズ第2弾は、『借りぐらしのアリエッティ』の世界を現実に構成して、私たちに体感させてくれている映画美術監督、種田陽平さんにご登場いただきます。
お楽しみに。

現在東京都現代美術館で10月3日(日)まで開催されている「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」では、種田さんが岩井俊二、三谷幸喜、クエンティン・タランティーノなどの各監督とタッグを組んで作り上げた、これまでの映画美術も展示されています。

 
「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」

 

『借りぐらしのアリエッティ』

企画・脚本 宮崎 駿 
原作メアリー・ノートン「床下の小人たち」(林 容吉訳・岩波少年文庫刊)
脚本 丹羽圭子/監督 米林宏昌
音楽・主題歌 セシル・コルベル「Arrietty’s Song」(ヤマハミュージックコミュニケーションズ/徳間ジャパンコミュニケーションズ)
声の出演 志田未来、神木隆之介、大竹しのぶ、竹下景子、三浦友和、藤原竜也、樹木希林ほか

2010年/日本/94分/カラー/TOHOシネマズ スカラ座ほかにて全国公開中

 

筆者の髙野てるみさんの講演

「女を磨くココ・ シャネルの言葉と生き方」
2010年12月2日(木)19:00~20:30@朝日カルチャーセンター新宿
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=87514&userflg=0