声を聞き、追求し、出会う物語
『ヒア アフター』。

(2011.02.18)

 

一人、小さな台所で夕食をとり、寝る前にベッドに横たわっていつも聞くCDは、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』の朗読。ジョージ(マット・デイモン)は静かに聞き入る。安らかな顔。

彼は、過去に霊媒をしていた。「才能」とは、人と違う能力を持ち、それによって人と繋がるものだとすれば、ジョージは自分の能力を忌み嫌い価値など見いだせず、自らそれを「呪い」とし孤独だった。霊媒もまた聞くことだ。死者の声を「聞く」こと。だが彼は聞くことを止めた。彼が聞き続けているのは、ディケンズだけだ。

マリー(セシル・ドゥ・フランス)は、聞かなくなった。フランスでニュース番組を持つほどのジャーナリストだが、東南アジアで大津波を体験した後に番組に戻ったものの、周囲の声が耳に入らない。スタジオにいても、対談相手の声も、恋人の声さえも。大津波の時に触れたある瞬間が頭から離れない。出版社でミッテランについての本を出版しようと約束したはずなのに、そんなことは耳に届いていなかったかのように、身体が先に動いて「死後の世界(ヒア アフター)」について調べだす。「そんなテーマを」と訝しがる周囲の声に最初は戸惑うものの、ひるむことはない。
 

マーカス(双子のマクラレン兄弟)は、頼りにしていたが死んでしまった双子の兄ジェイソンと話したいばかりに霊媒師を訪ね歩くが、どこへ行ってもジェイソンの声を聞くことはできない。だが有象無象の輩と会う中、実際に「何を聞き、何を聞かないか」を体験的に学び、インチキ霊媒師の声など受け入れはしない。

ここでは、「聞く」ことはつまり物理的な振動を耳が感受するというよりは、その声の意味を全体として感ずること。受け入れること。マリーもマーカスも、それまでの価値観であれば逃してしまいそうなサインを感じ、追求していく。この種のサインは、たぶん身体(存在全部)がオープンになっているときこそ、飛び込んでくるのではないか。マリーもマーカスも、大きな衝撃によって「それまでの価値観」が揺らぎ、身体が弛緩=オープンしていたのだろう。

こういう時に、それまで培って来た「能力」はその真価を発揮する。マリーのジャーナリストとしての行動力や判断力、意志の強さが、彼女を理解者と引き合わせる。マーカスの、ドラッグ中毒の母親をかばうために働かせていた「知恵」は、彼にとって必要な人物を(子供ながらも)捜し出す力となる。
 

そしてジョージは、日頃から唯一聞いていた「声」に従った。———ディケンズ博物館に行くのだ。ただの読書傾向じゃないか、と侮ることなかれ。ここから、サインを見逃さず行動するジョージもまた、理解者に会うことになる。

クリント・イーストウッドは、アクターズ・スタジオのインタビューで「(演ずる時)聞く側であることが大事?」と質問され、一番大事だと思う、と答えている。最も大切なのは聞くこと。しゃべる人は多いがよく聞く人は少ない、と。人生において非常に重要、とも話している。

聞くこと。それは受け身という意味ではなく、積極的であればこそ力を発揮する。そんなとてもベーシックなことを思い浮かべた。死後ではなく、死前=今世は聞くことから始まるのだろうか。
 

聞くといえば、音楽がとても良い。一つは、耳慣れたオペラ『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」が流れるシーン。イタリア料理教室に通い始めたジョージ。この料理スタジオでメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)と出会う。彼女と目隠しをして料理を味わうレッスン中に、絶妙なタイミングでこの曲のクライマックスが聞こえてくる。料理を当てるために話すはずが、互いに身上を明かし始める。舌には料理、耳からは興味津々な相手のプライベートなこと。目の情報は遮断されている。一つ不自由になることで、どれだけ他の感覚が鋭敏になることか。「誰も寝てはならぬ」が控え目なボリュームだが、しっかりとシーンに寄り添う。

また一つは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。全編ではなく、一部をアレンジして繰り返しドラマに付けている。甘くなる寸前で何度も止められると、聞いているこちらの身体に「効いて」くる。引き算の演出には唸るばかりだ。

※『デイヴィッド・コパフィールド』は中野好夫訳がおすすめです。
 

 

『ヒア アフター』

監督:クリント・イーストウッド
製作総指揮:スティーブン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディほか
出演:マット・デイモン、セシル・ドゥ・フランス、ジョージ&フランキー・マクラレンほか
2010年/アメリカ/129分

配給:ワーナー・ブラザーズ映画

2011年2月19日(土)より丸の内ピカデリーほか全国ロードショー