トム・フォードが手掛けた『シングルマン』という名のオートクチュール。

(2010.09.30)
突然不慮の交通事故で16年連れ添ったジムが亡くなる。
過ぎゆく歳月はジムとの思い出を回想するだけの苦痛な時間。

老舗のグッチやイヴ・サンローランを蘇らせ、2005年には自身のブランドを立ち上げたモード界のカリスマ、トム・フォードが、突如映画界に進出し、第一作となる『シングルマン』を完成させた、と耳にしてさほど食指を動かされない人がいたとしても、その処女作が2009年のヴェネチア国際映画祭を皮切りに、世界各国の20の映画祭で14部門受賞、23ノミネートという快挙を果たしたと知っては、気にならずにはいられないはず。

中年男ジョージを、黒ぶち眼鏡のコリン・ファースがせつなくなるほどリアルに演じる。

そして、華々しい世界に身を置き、完璧なる成功を手にしたかのように写る彼が作品の主題に選んだのは、世の普遍的な命題ともいえる「孤独と喪失感」であったという意外性にまず驚かされます。さらに、細部まで徹底した「美学」が貫かれた美しい映像と音楽、研ぎ澄まされた感性を目の当たりにしたなら、「おみそれいたしました」と、その天賦の才能に思わずひれ伏したくなるにちがいありません。

映画『シングルマン』が描くのは、愛する者を失った喪失感に苛まれ続けた大学教授ジョージが、自らの人生に幕を下ろそうと決意したある一日に直面する様々な人間模様。16年連れ添ったジムが突然不慮の交通事故で亡くなって以来、ジョージにとって過ぎゆく歳月はジムとの思い出を回想するだけの苦痛な時間でしかなかった。しかし死への準備が着々と整うにつれ、今ひとたび目に映る何もかもが最期であるという意識で世界を眺めてみれば、大学の教え子には慕われはじめ、煩わしかった隣家の少女の可憐さにはっとなり、行きずりの魅惑的なスペイン男と交わす会話に束の間の安らぎを覚えたりもする。それでも決意の揺るがないジョージは、遺書、保険証書、鍵を机の上に並べ、「ネクタイはウィンザーノットで」と添え書きした死装束まで用意するという、見事な徹底ぶりを見せるが、いざ銃を片手に何度かシミュレーションを行う最中に邪魔が入り、事態は思わぬ方向へと転がり始める。

セピア色に輝く夕刻のドライブ・イン・シアターでのシーン。『トム フォード』ブランドの顔として知られるスペイン人トップモデル、ジョン・コルタジャレナはジェームス・ディーンを彷彿とさせるスタイルで登場。
『アバウト・ア・ボーイ』ではキュートな少年だったニコラス・ホルト。重要な役どころである教え子ケニーとして瑞々しい肉体を披露。この映画出演がきっかけで『トム フォード』2010春夏アドキャンペーンのモデルに起用された。

すでに映画の冒頭に現れる水中に沈んでゆく男のイメージが象徴しているように、全編に漂う死の予感が、トム・フォード監督の静謐な死生観をもの語り、人が人を愛する意味と、本人の意思とは無関係にまわりによって生かされている不思議さについて深く考えさせられます。

また、ウォン・カーウァイ監督の『花様年華』のテーマ曲に惚れ込んだフォード監督に指名され、本作のサウンドトラックを手掛けた日本人作曲家の梅林茂が創り出す、ジョージの苦悩と葛藤にぴたりと寄り添った旋律がさらに情感を高めています。

個人的にもっとも印象的だったのは、ゲイとして生きるジョージが、かつての恋人で現在は同志といえる存在である女性チャーリーと過ごす、切なく滑稽な狂乱のひととき。まさしく人生の酸いも甘いも知り尽くした大人の男女が言葉で戯れながら、抱えきれなくなったそれぞれの弱さを互いに誰より理解しつつも、並んで横たわるしかない二人の姿が胸を打ちます。

ひたひたと老いが忍び寄る目元に濃いアイラインを引くチャーリー。演じるのはジュリアン・ムーア。
夫と子供に去られて孤独なチャーリー。青春時代を共にロンドンで過ごした彼女と心から笑い合う。

モノクロームでありながらも、ジョージのみならず観客にさえその残像を鮮明に焼き付けるジムを演じたマシュー・グード。セピア色に輝く夕刻のドライブ・イン・シアターで、ジェームス・ディーンを彷彿とさせるスタイルで登場した「トム・フォード」ブランドの“顔”として知られるトップモデルのジョン・コルタジャレナ。そして重要な役どころである教え子ケニーとして瑞々しい肉体を惜しみなく披露したのは、なんと映画『アバウト・ア・ボーイ』ではキュートな少年だったニコラス・ホルト。

それらの若さ溢れる俳優陣と対照的な悲哀を醸し出す中年男ジョージを、黒ぶち眼鏡のコリン・ファースがせつなくなるほどリアルに演じきっています。そしてなにより、ひたひたと老いが忍び寄る目元に濃いアイラインを引くチャーリーを演じるジュリアン・ムーアの残酷なまでの妖艶さといったら!

深まる秋の人恋しくなるこの季節、映画への真摯な愛と、とてつもない優しさを兼ね備えたトム・フォードが手掛けた『シングルマン』という名のオートクチュールに身を包まれながら、ぜひその美学に酔いしれてみてください。

かつての恋人で現在は同志である女性チャーリーと過ごす。切なく滑稽な狂乱のひととき。

映画『シングルマン』

出演:コリン・ファース、ジュリアン・ムーア、マシュー・グード 、ニコラス・ホルト

監督:トム・フォード

原作:クリストファー・イシャーウッド

音楽:アベル・コルゼニオフスキー

衣装:アリアンヌ・フィリップス

美術:ダン・ビショップ
提供・配給:ギャガ GAGA
原題:A Single Man


2009年/アメリカ映画/シネスコ/ドルビーデジタル/10分
2010年10月2日(土)より新宿バルト9ほか全国順次ロードショー

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