映画『シングルマン』ミドルエイジの苦悩を考える。

(2010.09.28)

かつて『グッチ』、『イヴ サンローラン リヴ・ゴーシュ』、現在は自らのブランド『トム フォード』を手掛けるデザイナー、トム・フォードの初監督作品『シングルマン』。昨年の東京国際映画祭で招待上映、大絶賛され、ヴェネツィア国際映画祭はじめ各国の映画祭で受賞&ノミネートが続く今年一番の話題作といわれています。その公開に先立ち、9月20日六本木シネマートにてOVER30’s限定試写&イベントが開催されました。

イベントは『シングルマン』の試写上映後、「中年期に起こる心の危機をどう乗り切るか? “ミドルエイジ・クライシス”の問題」と題して精神科医 大野裕さん、香山リカさんの公開対談。

『シングルマン』はクリストファー・イシャーウッドによる同名の小説を原作にトム・フォードが脚本執筆、監督。舞台は60年代のアメリカ。コリン・ファース演じるミドルエイジの大学教授、ジョージは愛するパートナー、美しい犬、ちょっとおっちょこちょいのメイドらとモダンな家に暮らし、満ち足りた生活を送っていた。しかし突然、パートナーを事故で亡くす。ことあるごとに恋人と過ごした時間の記憶は蘇り、毎朝目覚めとともに「生きていることにゾッとする」失意の日々。ついにある朝、すべてを自らの手で終わらせることを決意。古くからの付き合いで、一時は恋人になりかけた親友チャーリーに遺書を書き、貸し金庫にしまっていた宝物を引き出し、自殺用の銃に弾を込め、デスクの書類を整理し、ラスト・メッセージとばかりに熱のこもった講義を学生たちに向かって行なう。あとは死ぬばかりとなっていたジョージの最後の日は意外な展開に……。というのがお話。

劇中で社会的地位も愛のある関係も築いて幸福なミドルエイジ、ジョージが恋人という幸せの一要素を失って精神的にズタズタになってしまう。どう立ち直っていくか、ということを焦点に興味深い対談が展開されました。その模様を以下にお届けいたしましょう。

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ジョージは大学教授。モダンな家に住み、愛するパートナー、美しい犬、メイド、社会的地位もある幸せな生活を送っていたが……。ファッション、インテリア、建築、音楽、60年代のおしゃれなところだけ抜粋したような映像美。
16年連れ添ったパートナーを失って苦しむジョージ。大切な人のいない生活なんて……。庭にソファに在りし日のジムの幻を見る。ジムのために禁煙したけど、ジム無き今、禁煙する意味もない。すべてに意味が無くなってしまった。
対談イベントの様子。左が『ミドルエイジ・クライシス やさしい発想転換法』(朝日出版社刊)の著者で精神科医、慶応義塾大学教授の大野裕さん、右は立教大学現代心理学映像身体学教授で精神科医の香山リカさん。

社会の殻から自由になってもいいじゃないか。

香山 『シングルマン』はヒッチコックの映画さながらのノスタルジックなポスターが印象的ですね。私の生きている世界とは全然違う世界の話なのに、けっこう自分自身について考えさせられたり身につまされる映画という印象でした。

大野 私はある意味とても力の出る映画、という風に見ました。社会の殻に縛られて生きているが、そこから自由になってもいいじゃないかというメッセージ。そしてもうひとつ、孤独と思えるような状況でも目を上げれば誰かがいてつながりがある。その中でもっと自由に生きよう、今を生きよう、というメッセージを感じました。

香山 主人公のジョージは、人には言えない愛を生きている、社会の殻に縛られている。とはいっても大学教授でおしゃれでモダンな家に住みお金もありそうだし、外見はとっても順調。でも恋人という幸せの1ピースを失ったことによって、もう全てが無くなってしまったような深い絶望、恐怖感に囚われるわけですけど。

大野 大切なものを失うということはかなり大きなことで全体がバラバラになってしまいうる。いろんなモノを持っているが、モノとしてしか意味がなくなってしまうということがあるんじゃないでしょうか。

香山 主人公のジョージは、恋人のジムが死んだことを電話でまさにジム的(事務的)に伝えられた上に、その死も見ていない。

大野 お互い大切に思ってきた相手の死に際して、家族でしか葬儀はやらないから来ないでいい、と排斥されてしまう。これは辛いことですね。いったい自分は何だったんだろうか? と。そういったところでオープニングのシーンは象徴的だと思うんです、家のまわりからはとても楽しげな声が聞こえる、でも自分ひとり孤独で寂しい。

香山 精神医学の業界ではよく「喪の儀式」と言いますが、モーニングワークをこなしていくうちに、だんだんと死の事実を受け入れ立ち直れる、というプロセスがありますね。日本の四十九日などもその中のひとつ、節目の儀式ですが、ジョージの場合は、それがない。葬儀に立ち合えないし、泣くこともできない。友達に言えないし、まわりに言うこともできない。それが余計ショックを大きくしてしまう。私たちが生きて行く中で、パートナーを失う、家族を失うということがあると思うのですが、そういった場合、みんなが立ち直る力を持っているんでしょうか?

大野 この映画では、大切な人を失ってしまったりそういう大変な時に助けてもらえるんだ、ということに気づけたところが大きいと思います。銀行のシーン、金庫に預けたものを引き出して沈んでいるジョージのところに、お隣に住んでいる少女ジェニファーがやってきて話しかけるシーンは印象的です。ジョージがちょっと目を上げて少女を見た瞬間、画面が明るくなります。人がまわりにいる、と気付く。これはすごく大きいことです。

あのジェニファーは少女なのですが、自由な少女なんですね。「虫愛ずる姫君」で虫が好きな変わった少女。いわゆるお人形が好きという普通の少女という概念から外れた少女です。蝶を殺したり、サソリに虫を食べさせたり残酷、でも自分を持っている、魅力的な少女です。ある意味自由の象徴です。彼女が目の前に現れた時にパッと画面が変わる。

香山 ジョージは人には言えないマイノリティであるからこそ、少女という枠組みを超えたジェニファーが力になった、ということもあるのでしょうね。

大野 また彼女は平気で言います。「パパはあなた(ジョージ)はサオナシだって言う。だけど、私はあなたの眉が好きよ。」とフラットに話す。あれはすごくいいなと思いました。

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ジョージが教える大学での教室シーン。当時のアイコン、BBそのままファッションの生徒も。右の男子生徒はケニー。『アバウト・ア・ボーイ』の幼いマーカス役ニコラス・ホルトが演じる。
モダニズム全盛のアメリカがよくわかる銀行のシーン。水色のドレス姿がお隣の少女ジェニファー。ワンピースの水色は死んでしまったパートナー、ジムの瞳の色。この作品のキー・カラー。
シネフィルとしても知られるトム・フォード。ヌーベルヴァーグ的カットインも。引用とアイロニーに富んだ台詞、セクシーな男性美、美しい音楽。あらゆる意味で今年必見の映画。

生きてきた今までも大切だが、今が大事と思うこと。

香山 子供を亡くした親の会などの「当事者の会」の中で、自分たちの悩みを話し合って立ち直っていく、ということもあります。映画の中ではジョージの親友のチャーリーも、夫と別れ、子供たちに巣立たれ、大切なものとの別れを体験しています。この二人、ジョージとチャーリーの関係はいかがでしたか?

大野 ジョージとチャーリーというのは、いわゆる男女関係が微妙にありながら友人、という既成概念を外れた面白い関係ですね。

香山 映画を見ながら「チャーリーが亡くなったジムの代わりになればいいのに、くっつけばいいのに。」と思ってしまいましたが、なかなかこの作品ではそうはならない。お隣の少女ジェニファーとも、生徒のケニーとも、新しい生活を始める、という風にはなかなかならない。そういうところもリアルなんですね。

大野 この映画のテーマを監督のトム・フォードは、ミドルエイジ・クライシスと結びつけています。ミドルエイジになって、これまでの人生を振り返る時、生きてきた今までも大切だが、今が大事と思うこと。ラストシーンによく表れています。

香山 青春期、老年期、の問題は今だで多く研究されてきましたが、中年期のミドルエイジ・クライシスは、これまでに多く語られれてこなかったと思います。

大野 いろんなものを失っていくことにハッピーエンドはない。愛する人を亡くした遺族の方がおっしゃるには、日薬はない。時間が経てばだんだん心が癒されて来る「日薬」、ということはない。失ったものはあるが、大事な記憶として持っておくことができます。それもまた大事なことなのかな、と思います。

香山 そうですね、ジグソーパズルだと、ひとつピースがないと永遠に完成しない、穴が空いてしまいます。私も診察室でいろんな方に会ってお話を聞きます。親しい方を悲惨な状況で失ったり、複数失ったり、立ち直るのは難しいんではないかと思ってしまうような方でも、自分の人生を生み出したり更生し直したり。ピースがないならパズルそのものを変える、しなやかさ、たくましさを経験することがあります。

大野 その時に、人がいる、ということは大事なことですね。それぞれの人との関係を見直すこと。悲しみは悲しみとして抱えながら、だけど今を大事に送っていくことができるんじゃないかなと思います。

香山 ミドルエイジ・クライシスの問題って日本でも深刻でしょうか?

大野 私は40〜50代にとってかなり深刻だと思います。人生の転換期を自分の中でどう捉えるか、どう総括していくか。人と人とか孤立する状況の中で関係性を考えることは重要だと思います。

香山 私は最近、中学の同窓会に出席しました。孫のいる人、結婚これからの人、大学院に入りなおそうという人、恋愛まだまだ現役……いろんな人がいて年齢を忘れさせてくれるようなものもたくさんある一方で身体的、生物学的な加齢は容赦なく来ている。親が無くなる、親しい友達が病気になるというのを聞いたりする。若いといわれるが、どう着地していいのかわからないということが、私自身もあります。

大野 現代は価値観が多様化して現実が見えなくなってしまいがちなんですね。映画の中でもあったように年寄りではなく、高齢者、と言ったり。

香山 ジョージもジムを亡くすまで、特に年齢を意識することもなかったでしょう。でも彼を失った途端、自分が若くない、先がない、また他に自分が直面している現実の問題に一気に直面してしまうという若い時とは違う喪失感もあったでしょうね。

大野 ミドルエイジの人たちだけでなく、若い人にも、どう生きたらよいのか、という参考になる映画ですね。

香山 ひとつがダメだとすべてがダメ。恋愛がダメだったら仕事も人生も意味がなくなってしまう、というようなゼロか百かではなく、今、目の前にあるひとつひとつのことが大事。今が大切。と考えるよいきっかけになると思います。

 

 

今を生きる、無いことを受け入れる……
大野、香山両先生のお話は、ほどんどZENの境地を説かれているようにも感じました。
しかし劇中、主人公ジョージと教え子ケニーの会話は、
孤独について、不可知についての禅問答、哲学問答でありました。

『シングルマン』はこの秋いちばんのおしゃれ哲学映画である、
と、観察しました。

 

 

『シングルマン』

出演:コリン・ファース、ジュリアン・ムーア、マシュー・グード 、ニコラス・ホルト
監督:トム・フォード
原作:クリストファー・イシャーウッド
音楽:アベル・コルゼニオフスキー
衣装:アリアンヌ・フィリップス
美術:ダン・ビショップ

提供・配給:ギャガ GAGA
原題:A Single Man
2009年/アメリカ映画/シネスコ/ドルビーデジタル/10分

2010年10月2日(土)より新宿バルト9ほか全国順次ロードショー
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