「肖像画を映画で描く作家」、
ホセ・ルイス・ゲリン監督。

(2012.08.31)

梅雨空をものともせず、連日観客の熱狂に包まれた『ホセ・ルイス・ゲリン映画祭』。今回ダカーポでは「もっと柔らかな観点で監督のことを詳しく知りたい!」との思いから、映画祭に合わせて来日されたホセ・ルイス・ゲリン監督に「創作の原点を探る」べく、インタビューを行いました。

幼少時代の映画体験から、最初にスーパー8で撮った映像について、そして国境を越えてまで見たかった映画の思い出話を伺ううちに、話は思いもよらない方向へと転がり始め、裏テーマとして登場したのが、ゲリン監督作品を語る上でも非常に重要なキーワードとなる「女性」と「映画」の関わりでした。

実は、2年前のインタビューの際にも「監督の女性観について伺いたいんです!」と1度は切り込んではみたものの「あははは!それならウイスキーのダブルを持ってきて!」とあっさり笑顔でかわされてしまった、という経緯がありました。ひょっとすると2度目なら聞きだせるのでは? という淡い期待も抱えつつ迎えた今回のインタビュー。

真面目なだけじゃない、ホセ・ルイス・ゲリン監督の新たな魅力に迫ります!
(2012.7.1@イメージフォーラム)

■ホセ・ルイス・ゲリン プロフィール

José Luis Guerín  1960年、スペイン、カタルーニャ州バルセロナ生まれ。本名はホセ・ルイス・カロッジオ・ゲリン。孤独な幼少時代をすごすが『白雪姫』で映画との衝撃的な出逢いを果たし、以後映画館の暗闇が唯一の居場所となる。スクリーンの中の世界に溶け込みたい!との一心で、15歳の頃からスーパー8で短編映画を撮り始める。初めてカメラを向けた対象は当時のガールフレンド。フランコ政権下の検閲がきっかけで、国境を越えフランスまで通い映画漬けの日々を送り、フランス語を習得。

シネマテークを学校代わりに独学で仲間と試行錯誤しながら撮影方法を学び、’81年にフランスの画家シャルダンをテーマにした35ミリの短篇『静物画』を監督する。翌’82年にはセゴビアの農村で35ミリモノクロ長編『ベルタのモチーフ』を監督。アリエル・ドンバールに手紙を書いて出演交渉に成功。ベルリン国際映画祭のフォーラム部門で特別賞を受賞。’90年、ジョン・フォード監督作品『静かなる男』(’52)の舞台となったアイルランドのロケ地を巡るドキュメンタリー『イニスフリー』を製作 。第43回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で上映。’96年『影の列車』を、’98年、長篇ドキュメンタリー『工事中』を監督する。’07年にスチル写真からなる『シルビアのいる街の写真』を製作し、それを元に『シルビアのいる街で』を監督。世界各国の映画祭に招待され、旅先で撮影を行い、’10年に『ゲスト』を製作。翌’11年には映画作家同士のビデオレターシリーズの一環として『メカス×ゲリン 往復書簡』を発表する。

社会性が求められる演劇鑑賞は苦手とするものの、角度で表情が変わる「能」には興味津々。
 

いつも映画のような夢ばかり見るから
映画を撮る必要はなかった少年時代。

Q:幼少期の映画体験について伺います。監督はどんな少年だったのでしょう?

ゲリン:ひとりでいるのが好きな、空想癖のある少年でした。

少しませていて、周囲とあまり溶け込めない子どもだったんです。

夜はいつも映画のような夢ばかり見ていたので、まだ映画を撮る必要はありませんでした(笑)

小学校の時から学校をさぼって一人で映画を観にいっていたんです。いわゆる現実逃避ですよ。子どものときは学校も嫌いだったし、家族やクラスメイトともうまくいっていなかったので、それを忘れるために映画館に通っていました。映画館が唯一の居場所でした。

映画館は劇場と違って、着飾ったり、大勢の人と挨拶したりしなくてすむし、なにより映画館の暗闇が好きだったんです。

私にとって映画のスクリーンは、世界に開かれた窓のようなもの。映画でなら、現実の社会を通さずに、直に世界と関わることができたのです。

映画館の暗闇の中では好きなように振舞うことができますが、演劇は目の前に演じる俳優たちがいるので、つまらなくてもなかなか途中で席を立つことができません。映画は演劇に比べて社会的圧力が少ないから好きだったんです。

映画『ベルタのモチーフ』('83)
フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ
映画を観るためにフランスまで通った。

演劇は苦手、というゲリン監督ですが、能面の角度を少し変えるだけで違う表情を見せる能の繊細さとそのドラマツルギーに興味があるのだといいます。

Q:最初に観た映画の記憶は?

ゲリン:ディズニー映画の『白雪姫』です。

よく言われるセオリーのひとつに「映画に関わる人間は、生まれて初めて観た映画から大きなトラウマを受ける」というものがあります。恐れやショックといった心の傷を癒すには、次から次へと映画を観続けるしかないんです。

Q:フランコ政権下で、観たい映画が制限された経験はありますか?

ゲリン:商業映画であっても検閲に引っかかった映画は観ることができませんでした。もちろんヌードもダメだし、左派の映画も見られなかったんです。

だから、スペインで禁止されている映画を観るためにフランスまで通うことにしました。バルセロナから2時間でフランス国境に着いたんです。

そのおかげでフランス語が話せるようにもなりました。 

Q:フランスではどんな映画をご覧になったのですか?

ゲリン:それこそ古典の名作から、フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニの作品まで、禁止されていた映画はすべて。あ! そういえば『愛のコリーダ』(’76)も観ましたよ(笑)。

***

Q:では、実際には小津監督の映画より『愛のコリーダ』の方が先だったんですね!

ゲリン:えぇ。そうです(笑)

Q:映画学校に通った経歴は?

ゲリン:フランコ時代に映画学校は共産党シンパのたまり場であると見なされて廃校になってしまったので、通うことはありませんでした。シネマテーク(上映施設のあるフィルムライブラリー)で、一緒に見た人たちと議論を交わすことが、私にとっての「学校」だったんです。

Q:15歳の頃から監督はスーパー8で撮影されていたんですよね?

ゲリン:最初に撮ったのは、当時好きだった女の子たち、恋人たちの映像です。

動画を選んだ理由は、スチール写真では彼女たちの美しさが撮りきれなかったから。美しさというのは、内側にあるリズムや呼吸によって醸し出されるもの。それを捉えるためには、時間が必要なのです。

映画『イニスフリー』('90)
スクリーン、
そこにはいつも美しい女性がいる。

ここで、ゲリン監督がはにかんだ表情で少し口ごもりながら、映画と監督の本当の接点について語り始めました。

ゲリン:女性向けに話すという訳でもないんですが……(笑)、「女性」と「映画」というのは実はとても関連があります。私がシネマテークに通い始めたきっかけも、実はそこに美しい女性たちが居たからなんです。

Q:それはスクリーンの中に、ということですね?

ゲリン:えぇ、そうです。最初の動機付けは監督ではなく女優でした(笑)。まずは美しい女性から入ったんです。私はクラウディア・カルディナーレが大好きで、彼女観たさにヴィスコンティの映画を覚えました。アンナ・カリーナによってゴダールを知り、リリアン・ギッシュのおかげでD・W・グリフィスと出逢ったんです。不純な動機でスミマセン……。
 

映画『シルビアのいる街の写真』('07)

***

Q:監督にはいわゆる下積み時代というのはありましたか? 誰かに師事した経験は?

ゲリン:私にとって、自分が監督ではない撮影現場ほど退屈なものはありません(笑)。

スーパー8から入って、16mmを経て、35mmの短編を撮りました。とにかく映画が撮ってみたかったので、集まった仲間と撮影や録音、照明を分担して、いきなり撮り始めたんです。もちろん始めは失敗の繰り返しです。でも、その都度どこが悪かったのか検証して、また撮って……失敗しながら一つずつ覚えていったんです。いくら頭の中ですばらしいショットが出来上がっていても、それを実現するためには、とにかく撮るしかなかったんです。

***

Q:観客であることに飽き足らず、作り手になりたいと思った瞬間はいつだったんですか?

ゲリン:最初に『白雪姫』を観たときです。家に帰らずそのまま自分もスクリーンの中の7人の小人のひとりになりたい、そう強く思ったんです。

でも一体どうやったら自分もスクリーンの中に入れるんだろう? と、いろいろ調べていくうちに、そこにはどうやら「映画監督」という名前の責任者みたいな人がいるんだということがわかり、スクリーンに入れないんだったら、自分がその世界を作りだそう!と思ったのが映画を撮りたいと思ったきっかけでした。

Q:ゲリン監督にとって、「理想の女性が登場する世界」を作り上げるための手段が映画だったという訳ですね!

ゲリン:えぇ、まさにそのとおり(笑)。

家族や学校という現実の世界とはまったく違う、映画こそが自分の属している世界だとずっと思っていましたから。

Q:それこそが、ゲリン監督の作風ともいえる「フィクションと現実を行き来する感覚」と通じるところなのでは?

ゲリン:まさしく、私にとって当初は逃げ場でしかなかったはずの映画が、だんだんと年齢を重ねるに連れ、自分で再解釈した現実を作り上げるための手段に変わっていったというわけです。

映画『シルビアのいる街で』('07)
よりよき観客であるための心構えとは?

Q:前回のインタビューで、ゲリン監督の作品を十分に理解するためには、観客側にも高い資質が求められると感じました。ゲリン監督作品のよりよき観客であるための心構えとは?

ゲリン:実際のところ、現代映画においては、作り手以上に観客側がより大きな責任を担っているのではないか、と私は考えています。

私の映画の扉は、あえて完全には閉め切らず、観客に向けて少し開けた状態にしてあります。予め残してあった空間を、観た人それぞれが埋めることで、映画は初めて完成します。私の願いは、観客の皆さん一人ひとりが、自分も作り手になったつもりで映画に参加してくれること。それこそが、映画が持つ「対話」の力なのです。

「私の願いは、観客の皆さん一人ひとりが、自分も作り手になったつもりで映画に参加してくれること。」
◯渡邊玲子の取材プチメモ

取材部屋に入るやいなや「あなたは書道をされている方でしたね!」と、2年前のインタビュー時のエピソードを再現したゲリン監督。その記憶力の確かさに驚くとともに、わずかなやり取りの中から「書道は絵画に近いのか、それとも文学に近いのか」といった鋭い質問を投げかけてくる、ゲリン監督の日本文化への造詣の深さと感性の豊かさに感服しました。

今後の書作のヒントに、とゲリン監督からスペインの詩人アントニオ・マチャードの詩の一節を教えていただきました。

“caminante, no hay camino, se hace camino al andar. ”
(旅びとよ、道はない、歩みが道になる。)

日本文化に興味津々のゲリン監督。
『映画の國名作選Ⅵ ホセ・ルイス・ゲリン映画祭』

全国順次開催。
2012年10月27日(土)〜シネマテークたかさきで開催中。