『奇貨』。
松浦理英子インタビュー

(2013.02.13)

セクシュアリティの世界を独自の視点で描き熱狂的な読者を持つ小説家、松浦理英子氏。年末の「今年最高の本!」で最新作の『奇貨』が6位に選ばれたのをきっかけにロングインタビューを試みた。『奇貨』からさらに、広く松浦氏の作品世界に迫る。

■松浦理英子 プロフィール

(まつうら・りえこ)1958年、松山市生れ。1978年『葬儀の日』で文學界新人賞、1994年『親指Pの修業時代』で女流文学賞、2008年『犬身』で読売文学賞を受賞。他の作品に、『セバスチャン』(’81)『ナチュラル・ウーマン』(’87)『裏ヴァージョン』(2000)、エッセイに、『ポケット・フェティッシュ』(’94)『優しい去勢のために』(’94)など。


『奇貨』作者松浦理英子さん。
「今年最高の本!」6位。

――新聞雑誌の書評担当者の投票で決まる当サイトの「今年最高の本!」という企画で、松浦さんの『奇貨』が6位に選ばれました。まずはその感想からうかがえますか。

松浦:『奇貨』という作品は、枚数も短いですし、1年間に出版される数多くの作品の中でそれほど目立たないのではないかと思っておりましたので、思いがけず注目して頂いて選ばれたことは非常に光栄です。感激いたしました。

――『奇貨』は小説としては7冊目の単行本で、前作の『犬身』から5年経っているわけですが、松浦さんのこれまでの読者の多くは読み始めてすぐ「えっ?」と不意を突かれたのではないかと思います。それは語り手が男性ということで、これは初めてのことだと思いますが、このアイデアはどのあたりから出てきたものなのでしょうか。

松浦:正確に言えば、男性の語り手は『裏ヴァージョン』の中の作中作に出ています。デビュー以前のいたずら書きで男性視点の語りを書いたこともありますし、自分にとっては特に新しい試みではなかったんです。

――特に男性視点というのをやってみようということではなかった。

松浦:ええ、特別な意気込みがあったわけではなく、自然体で筆を運びました。

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――その本田という語り手が、小説家でしかも私小説家という設定になっていますが。

松浦:ちょっとまどろっこしい答え方になってしまいますが、この作品で一番最初に書こうと思い立ったのは、七島とヒサちゃんの、女性の親友同士の会話だったんですね。

気の合う女性同士の会話の、非常に親密で、辛辣で、ジャズのセッションのような、生き生きとしたやりとりを書きたかったんですが、それだけを書いたんだと、ちょっと小説がべったりとしてしまうかなと思ったので、外部の視点を導入することにしました。それで本田という男性の登場人物を設定したんです。その本田が女同士の会話をどうやって外部からキャッチするかというと、盗み聴きをするほかはないですよね。でも、女の親友同士の会話を聞きたいがために盗み聴きのような愚かなことをする人物は、普通に書いたのではあまりリアリティがありません。しかし、日本には私小説という、もっぱら人間の愚行を描いて来たすばらしい小説の伝統があって、私小説の枠組みを借りれば本田の愚行を書ききることができるのではないかと考えました。だから、愚行をなす人物として、本田は私小説作家である必要があったということですね。

――ではその他の設定で、七島と本田が同居しているとか、あるいは七島の女同士の痴話喧嘩みたいな話も、そのガールズトークというのが元々あってそこから派生してきたわけですね。

松浦:そうですね。ガールズトークで一番盛り上がる話題はやはり恋愛、それもうまくいっていない恋愛だと思うので、七島の恋愛の相手は一筋縄ではいかない人物になりました。

――女同士ということでは、これまで、お互いを傷つけ合う、ヒリヒリとするような濃密な関係を多く描かれてきたと思いますが、七島とヒサちゃんのガールズトークは、対照的に、テンポも良くとても新鮮でした。

松浦:過去の私の作品にあったように、会話している2人が緊密な関係にあって関係を突き詰めていこうとしていると、楽しい盛り上がりは無くて深刻になってしまいますよね。深刻な会話を書くのも好きなのですが、『奇貨』では、息の合った遣り取りを続けるうちにほとんどエクスタシーに達してしまうような、ガールズトークの醍醐味を書いてみたかったんです。恋愛の話でも、単に愚痴をこぼすのではなくて、恋愛の相手の人物像を分析してみたり、セクシュアリティ論めいたことを語ってみたりするところにも、人間関係を重要視する女性的な性質が顕われているのではないかと考えています。

去勢という進化

――松浦さんの小説はこれまで、ある種の過激化のプロセスを辿って来たような印象があります。とても濃密で、息の詰まる女同士の関係を描いた『ナチュラル・ウーマン』から奇形的な身体を持った人たちのさまざまな性愛の関係、形を描いた『親指Pの修業時代』、さらに、主人公の女性が犬に生まれ変わってしまう『犬身』、というプロセスから、そのように感じられるのですが、『犬身』にまで行き着いて、『奇貨』では違った方向を試行してみようとかいうことはあったのでしょうか。

松浦:自分では過激化というよりも、むしろ次第におとなしくなってきたような気がするんですけれども。『ナチュラル・ウーマン』あたりが過激さの頂点で、『親指P』でわかりやすくなって、『裏ヴァージョン』で性行為を描くのを止めて、『犬身』では、セックスどころかほとんど皮膚の触れ合いだけになってしまい、今回の『奇貨』では、入れ子になった内側のストーリーでは恋愛も出てくるけれど、本田と七島、あるいは七島とヒサちゃんの間には友だちとしての好意以外はまったく何もないというように、だんだん形としては地味になっているという見方もできるんじゃないかと思います。単純に淡白になったということではないですけれども。

別の言い方をすれば『ナチュラル・ウーマン』以来、どんどん自らを去勢していくような方向での進化をしてきたという道筋になるかと思うんですね。普通に言う性的なラディカルさではないにしても、それこそがおっしゃられたように過激だという言い方も成り立つでしょうね。

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――去勢していく方向での進化ということでみると、本田が糖尿病を患っているせいか男性の機能のほうもいまひとつのようで、作中では、「普通の男にはある男らしさ、オス臭さみたいなものがない」というような記述もあります。

松浦:本田は派生的に生まれた登場人物なので、自分の性愛観を本田に託して描こうというつもりはありませんでした。また、男性の性的不能をまっこうから描こうとするなら、本田のような人物にはならないと思います。『奇貨』は、何か新しいもの、思索の大きな成果を見せようというのではなく、自分の作家としての道筋の道端に咲いた小さな花を摘み取るというくらいの、慎ましい気持ちで書いたものです。ただ作品の主眼とは別に、本田のようないわゆるオス臭さがないような登場人物を一度しっかり描いてみたかったというのはありますね。これまでにもちらちらと出てきてはいたんですが、今回のように、主役級にすえて書くのは初めてだったので。


松浦理英子さんのこれまでの作品。
触れ合いの豊かさ

――『犬身』で肌の触れ合いだけになったというお話ですが、触れ合いの対極にあるのが、「性器結合中心主義」ですね。

松浦:「性器結合中心主義」というのは『親指P』のころに言っていた言葉ですね。当時の一般的な性愛感の中心にあったのが、性器を結び合わせて快楽の絶頂に達することを最大の目的とする性器結合中心主義的性愛ですが、それではあまりにも窮屈で貧しいのではないかと。人間の性的な行為には、性器の結合だけではなくて、肌の触れ合い、あるいは、心の触れ合いや胸のときめきとか、他にも豊かな部分があるんじゃないかということを言うときにつくった言葉です。

――その豊かなものひとつとして触れ合いがあり、触覚というものが松浦さんの作品で重要な位置を占めているのに対して、視覚というのがちょっと弱い立場にあるように思います。たとえば『親指P』の春志は目が見えないという設定で、あと、これは偶然かもしれませんが、『奇貨』の本田が行う行為は、盗み“見る”のではなくて、盗み“聴く”、聴覚のほうですね。

松浦:俗に男性のセクシュアリティは視覚型だというようなことを言いますね。そして、女性のセクシュアリティは視覚型ではないと言われますが、それは友だちと話しても自分自身を顧みてもおおむね妥当なのではないかと思えます。ですから、自分が書くセクシュアリティが概して触覚型であって視覚型ではないことは私にとっては自然なことです。また、男性型のセクシュアリティだけではなくて、私たち現代人の感覚が視覚中心に偏っているということが、いろんな人に指摘されていますよね。そこで、他の感覚を呼び起こした方がいいんじゃないかというような提言もあって、私もそれに賛同するんですね。それがわざわざ視覚を大きく取り扱わない理由です。

『親指P』の春志の目が見えないのは、視覚から入ってくる情報に惑わされないで世界を探る人物として設定したためです。本田のほうは狙ったわけではなく偶然ああなったんですが。

――設定上そうなったということで、偶然なんですね。

松浦:ただ、本田もそもそも視覚型の男性ではなくて、受け身で女性に触られたいという触覚型のセクシュアリティなので、盗み見をしないのは理屈としては合っていますね。そして、盗み聴くとはいっても、音声を聴きたいわけではなく、七島とヒサちゃんの関係性を知り味わいたいのですから、聴覚型ともいえないと思います。触覚型に加えて、何でしょうね、心理型とか精神型といえばいいんでしょうか。改めて考えても相当にフェミニンな男性ですね。

語りの権力への抵抗

――先ほど小説の構造が入れ子状になっているというお話がありましたが、『奇貨』は盗み聴きの内容を本田が記述するという二重の構造になっています。また、並録されている『変態月』という80年代に書かれた短編でも、小説の中で主人公の女の子が小説を書くという二重構造になっていますが、松浦さんの場合、物語を語ることとともに、語りの形式というものも毎回かなり綿密に考えられているんでしょうか。

松浦:うーん。自分で「綿密に考えている」と言うと、ちょっと間抜けっぽいですよね(笑)。

――たとえば『ナチュラル・ウーマン』は、時系列が過去から現在ではなくて、時間的に一番最初のはずの話が一番最後に来ていてとてもそれが効果的でした。それから『親指P』だとMという作家が最初の部分で出てきますが、すぐそのMと話をした女性による語りになり、そしてまた最後の部分でMの語りに戻るという形になっている。そのあたりの語りの形式はいつも違うものでやろうという気持ちがあって…。

松浦:それは野心よりも作家的な本能の部分が大きいんだと思うんですね。私はデビュー作から小説の中にインタビュー記事だとか断片的なエピソードとか、一直線の語りを崩すような要素を入れています。作中作的なものが入っていると小説が豪華になるような気がするので、入れ子構造が根っから好きだというのもありますが、何よりも一直線の語りというものを私が信じてないということが大きいです。

日常生活においても、他人の語りでも自分の語りでも、あまりにも一直線で一面的になってくるとこれは嘘くさいという見方が働いてしまうんですね。

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――整理された語りというのが嘘っぽいと。

松浦:あまりにも自分の語りを自分で信じて、さも本当にあったことをその通りに構成しているかのように見せかけた語りですね。それだけでもう胡散臭いと思ってしまう。それは必ずしも語り手が嘘をついていると感じるという意味ではなくて、微妙で細かいさまざまなものを切り捨てて要領よくわかりやすく語るという行為そのものに、物事を雑にまとめて、嘘をつくつもりもない語り手を間違わせてしまうような粗暴なパワーがあるということです。
そういう語りは近代文学の主流の書き方ですし、私もそれに則って書いてはいるんですけれど、その書き方を信奉しているわけではなくて、書きながらも嫌だなあと思っている。だから、作中のどこかに「これが本当かどうかはわかりませんよ」というようなサインを入れるのが私の誠意であり、近代文学の語りの権力に対する抵抗なんですね。

『奇貨』で扱っている私小説に関しても、素朴な人は、私小説は自分の身に起こったことをそのまま書いているんだろうと受け止めるみたいですが、私小説作家の方々は、いやそんなことはない、フィクションのフィルターを通しているとおっしゃることが多いですよね。本田も作中で、「プロレスのように、キャラクターも物語もあきらかに嘘なのだが、嘘がいつの間にか切実なものを映し出しているような私小説」があり得るんじゃないかというようなことを書いてます。

ですから、この『奇貨』という小説自体、「ここまで書いて来た通り」というふうな記述が出て来ることであきらかなように、本田の書いた私小説作品の形をとっているんですけど、本田の実人生をそのまま書いたものとは限りませんし、だいいち、この小説は私の名前で発表されたものですから、これは完全にフェイクですよね。そうやって、真実を指し示すような世界とは別次元の世界を暗示しておきたかったんです。

また、七島やヒサちゃんはレズビアンですが、レズビアンと言えば、カミングアウト、告白という慣習というか制度がありますよね。だけどそういう告白についてもそんなに真正面から人々を納得させるものとして機能していいのかというような疑問があるんですね。だから同性愛におけるカミングアウト、告白のようなものに対しても、それが真実を巡る物語であるというところからはちょっとずらしたい、外したいというようなことを考えていました。

孤独な人たちに寄り添う

――松浦さんの作品には読んだ後に不思議な幸福感みたいものがあって、それがいつもとても印象的です。幸福感といっても、いわゆる型どおりのハッピーエンドがもたらすものとはかなり異質なものですが、読者に何か幸福感のようなものをもたらしたいという気持ちというのはお持ちでしょうか。

松浦:それに近いものがあるとしたら、孤独な人たちに寄り添いたいという気持ちですね。満ち足りた人生を送っているような人をさらに幸福にしたいとはあんまり思っていない。書いている側としては自分の作品は寂寥感のようなものを読者に与えるのではないかと予想するんですが、一方で寂寥感を与えることは与えるけれども、そこに何かしら人を孤独なままに強くするポジティブな力が混じっていたらいいなと願っていて、それが今おっしゃって下さった幸福感なんだったらうれしいです。

――『奇貨』は、今お話しした幸福感とはちょっと違うのですが、本田の裏切り行為によって、一見、悲しいオチになってしまったようでもあるのですが、でも決して救いようがないとか後味が悪いようなものではなくて、何かこう、ちょっと心が温かくなって思わず微笑んでしまうような結末ですね。

松浦:そうですね、2人の間に過ちが起こって、どんなに腹が立ったり悲しまされたりしても、それでも関係は続く、人生の1つの章が終わっても相手は機会あれば交わるべき人として存在する、ということが最後の宴のシーンに表現されているとおっしゃって下さった方がいるのですが、たぶんそうなんですね、これで縁が切れるっていうことではなくて。

――そのあたりははっきりとは書かれずに読者に託されている。でもたぶん多くの人が、これは続きがありそうだなと。そして、このままでいられたらという本田の気持ちが通じるような展開があるのではないかという気持ちにさせますよね。

松浦:ええ。「ほんとに馬鹿な人だけど、この人ってこうなんだ」って、どこか受け入れているところが七島の側にあるんだろうと思います。

セクシュアリティへの視点の落差

――松浦さんの作品を読んである種の開放感を感じる人も多いのではないかと思います。さきほどの幸福感と、あるいはどこかで通じるものかもしれませんが、特に『ナチュラル・ウーマン』から『親指P』あたりに、非常に強く感じられます。それが先ほどお話に出た性器結合中心主義という呪縛からの開放感なのか、それとも異性愛や同性愛という垣根、区別さえも取払ってしまった平等主義のようなものがもたらすものなのか、いまひとつ判然としないのですが。

松浦:そのあたりは私の方が是非とも読んだ方に詳しく聞かせて頂きたいことなんですけれども。

――男性の多くは、やはり最終的にはセックスに収斂していくような話というのが馴染み易い、あるいは読書の無意識の前提になっているのではないかと思いますが、松浦さんの作品では、何かこう垣根が取り払われて、非常にすっきりしたというか開放感みたいなものが感じられる。そしてまた、ああそうなのかと、目が開かれた感じが…。

松浦:そういう感想はとてもうれしいんですけれども、まったく別のタイプの人たちは腹を立てたり…。

――腹を立てる?

松浦:反発を感じる人たち、否定したがる人たちもいると思いますね。

80年代までだと女性がセックスのことを書くだけで許せないという人もいましたし、女性が男性のことを女性視点で書くと、男性が読んで満足するように書かない限り、あるいは男性のナルシシズムを傷つけないように書かない限り、怒る人がいたんですよね、特に年長の方たちに。今でもそういう人たちが少しはいると思うんですよ。

――でもそれから時代はだいぶ変わりましたよね。

松浦:幸い変わりましたね。でも、たぶん今でも、『奇貨』を読んで本田のような男はいないとか、否定的な感想を持つ人はいるでしょうね。

惹かれる作家はジャン・ジュネ

――『奇貨』というタイトルなんですが、これは谷崎の『鍵』という作品に引っかけたもののようですが。

松浦:いや、引っかけてないです。鍵という言葉をひっくり返してつけたというのはほぼ冗談です。

――冗談なんですか(笑)。

松浦:タイトルなんて思いつくきっかけは何でもいいものなので、確かに鍵という言葉を弄くっているうちに思いついた言葉ではあるんですが、それはきっかけに過ぎなくて、深い意図はないんですよ。たまたま奇貨という言葉が転がり出て来て、私小説っぽいタイトルだし、内容にも合うと思ったから『奇貨』にしただけです。面白くない話ですみません。

――谷崎というと、言わずとしれたエロティシズムの大家ですが、エロティシズムの作家で松浦さんの好きな作家というのは?

松浦:15歳の頃からジャン・ジュネが一番好きな作家です。ジャン・ジュネが体現しているような受動的で優しいセクシュアリティやエロスのあり方、どの瞬間も濃密に生きる独特の存在の仕方に大変強く惹かれていて、ジュネが一番ですね、今でも。

***

――中でも特に評価されている、あるいは好きなジュネの作品は?

松浦:『薔薇の奇蹟』です。今言ったようなジュネの特質が最も強く出たテキストなので。後期の『シャティーラの四時間』のような政治的なテキストにも感銘を受けます。

――ジョルジュ・バタイユは?

松浦:大変刺激を受けましたが、ジュネほどではないですね。

――たとえば、『ナチュラル・ウーマン』や『親指P』の、性愛を軸とした限界体験みたいなことでいうと、バタイユの『眼球譚』あたりがすぐに想起されますが。

松浦:うーん、ただ、バタイユみたいに人を縛るものとして宗教があるというような認識は私にはありませんし、禁忌を犯すとか、死のエロスとかそういった観点にはあまり興味が持てないんですね。バタイユみたいな図書館司書ではなくて、ジャン・ジュネのような、アウトロー的な人物の中にある、自由さ、自由であるしかないような貧しさ、階級の低さに共鳴するんですよ。

次作について

――最後の質問です。松浦ファンの人のためにうかがいたいんですけれども、これまでの小説作品は、だいたい4年から7年ぐらいのスパンで書かれていますが、読者が次作を手にできるのはいつぐらいになりますか。

松浦:実は何年も前から書き始めているものがあるんです。『奇貨』は、そちらを一時中断して書き上げたんです。

――『奇貨』の前に取り掛かられた作品があるんですね。

松浦:ええ、途中まで進行しています。

――それが具体的に何年後になるかというのは…。

松浦:まあ明言はできないのですが、7年に1冊の刊行ペースがしばらく続いて、皆さん、『犬身』の次の作品は7年後だろうと予想していらしたかと思うんですね。その予想を覆して5年で『奇貨』を出すことができたので、次も早めに発表したいと望んではいます。

――それはファンにとっては非常にうれしいことですね。今日はどうもありがとうございました。


『奇貨』
著者 松浦理英子
発行 2012年8月
発行所 新潮社
定価 本体1,300円(税別)