転生の追憶 – 3 –

(2009.03.02)

前回までのあらすじ

先輩、志津絵に付き添い香港へと向かう美恵。
それは、志津絵の恋の無念を晴らそうとする旅であった。かつて彼女を弄んだ御曹司、張畑龍之介と新妻玲子の後を追って。そこに美恵のフィアンセ義之から急な香港出張が入ったとメールが。同じ頃、美恵の上司である宮脇健四郎も商談で香港に来ていた。ペニンシュラホテルのバーで偶然に宮脇と遭遇し、3人で盛り上がる中、美恵は再び射るような視線を感じた。

 志津絵は深々と頭を下げた。
「… 」美恵は再び射るような視線を感じ、辺りを瞬時に見回した。

◆ ◆ ◆

その中にあって、宮脇と美恵と志津絵の三人は、明らかに異彩を放っていた。しかしここは異国。彼等の放つ日本語は、どのカップルにとっても街のノイズ程度にしか思われていないようだ。
「それとなくは俺も知ってたよ。志津絵ちゃんと龍之介くんのことは」宮脇は龍之介が、例え次期社長と目されていようが、社長のご子息と呼んだことなど一度もなかった。
「ちょっとからかってやろうかなって、最初は軽い気持ちで、彼からの誘いにのってやったの。でもあんな奴でも良い所はあってさ。どうせ私なんか一緒になってもらえるなんて思ってなかったし。そんなことありえっこ無いって、自分に言い聞かせてた。でも気が付いたら、ミイラ獲りがミイラになってたってやつかしら。自分でも愛想が尽きるほど甲斐甲斐しくなってて。気付くのが遅かったの。本気で愛しちゃってた。彼も一緒になろうって何度も言ってくれたわ。『絶対嘘に決ってる! 』自分ではそう思うことにしてた。でもやっぱり心の何処かでは、もしかしたら年上のシンデレラってのが、あってもいいんじゃないかなって想い始めたりして」志津絵は微かな笑いを浮かべ、対岸のネオンを眺めながら言葉を続けた。「そんな頃、役員室で麗華さんとの縁談話が囁かれていたのを立ち聞きしちゃったわけ。『やっぱりか。もうここまでにしとかなきゃあ』って。でも時既に遅しだった。妊娠しちゃってたの。彼の子を。どうしようかって、散々悩んだわ」志津絵の頬に、香港島の明かりが伝い落ちた。「先輩に打ち明けられた時、私も何ていったらいいのかわかんなくって。それで先輩はお腹の赤ちゃんをどうしたいのって聞いたの。そしたら認知してもらえなくても、赤ちゃんに罪は無いから産むって」美恵も志津絵の視線の先で瞬く、香港島のネオンを見つめた。
「彼には産む決心が付いてから話したの。そしたら『嘘だ! 嘘に決ってる。ぼくを陥れようとするのか! 』だって。それ聞いたら、今まで一人で何を空回りしてたんだろうって、馬鹿らしく思えちゃって」志津絵は歩道に落ちた煙草の吸殻を、ハイヒールの爪先で蹴飛ばした。
「でもそれで終わらなかったんです。先輩は… 」
「美恵ちゃん、いいの。私の口から言うわ。辞表を出した日の夜、むしゃくしゃして美恵ちゃんと二人で散々呑んで荒れ狂ってやったの。終電が近付いて地下鉄の改札へと階段を降りてたら、後ろからいきなり背中を突き飛ばされて… 。気が付いたら病院のベッドに横たわってたわ。私は身体中の打撲と捻挫で済んだのに… 」美恵は志津絵を抱きしめながら言葉を引き取った。「でも残念ながらお腹の赤ちゃんは… 」
「あいつなんです! あいつが私を突き落として、赤ちゃんの命を奪ったんです! 」
「で、警察は何と? 」宮脇が尋ねた。
「警察は酔っていた事もあり、本人が足を踏み外して転倒したのだろうと… 」美恵が志津絵の代わりに答えた。
「違う! 私は確かにあの時、あいつのコロンの香を嗅いだんだから。日本では発売されていない、ドルチェ& ガッバーナのザ・ワン・フォー・メンだった。だから、絶対に間違えたりしない! 」美恵の胸元で志津絵は擦れた声を上げた。
散策路のフェンスに両肘を付いたまま、揺れる明かりをぼんやりと見つめながら宮脇がつぶやいた。
「男と女の美しいはずの恋愛が、瞬時に醜い結末を迎えることなんて、その辺にゴロゴロしているだろう。でも罪も無い小さな命を奪ってまで、自らの保身に走るような卑劣な男は断じて許せない」会社では一度も見せたことのない、宮脇の毅然とした表情は、まるで名立たる名刀の抜き身が月の薄明かりを浴び、怪しげな光を夜空に放つような鋭さを秘めていた。宮脇の引き締まった横顔を見つめる美恵は、身体を貫く何か得体の知れぬ予感のような衝撃を感じ取っていた。「課長… 」
「いい考えがある。俺に任せてくれ」宮脇が毅然として二人に言い放った。

◆ ◆ ◆

 翌朝、宮脇はペニンシュラホテルのロビーで美恵と志津絵を迎えた。「よく休めた? 」
「お陰様で、胸のうちにしこってたものを、昨日吐き出しちゃったからスッキリ。俄然お腹が空いちゃった」
「やだ、志津絵先輩」
「ぼくもきっとそうだろうと思って、朝食は香港の朝に相応しい、お粥の専門店に案内しようと」宮脇は二人を従えて、敵が寝首を欠かれるとも知らず、ぐっすりと休んでいるはずの、リージェントを正面に見ながらペニンシュラを後にして歩き出した。
 ペニンシュラとリージェントの間を東西に走る道路を潜るように、地下に歩道が敷設されている。地下道の入り口から、カンカンカーンとコンクリートに金属を打ち付ける音がする。三人はリージェント前の歩道に通じる、地下道を進んだ。
「あれって、もしかして乞食? 」美恵が出口を指して小声で尋ねた。
「ああ、あの場所でよく見かけるG.Iジョーさ」
「なんなのそれ? 」志津絵が怪訝そうな顔で宮脇を振り返った。
「いや、彼は陸軍の兵士がほふく前進するような恰好で、いつも通行者ににじり寄り空き缶をコンクリートの地面に打ち鳴らして物乞いをするから。それでいつの間にかみんなから、アメリカンコミック誌に登場するG.Iジョーって呼ばれるようになったとか」
「足が不自由なのかしら」G.Iジョーの脇を通りながら、美恵は気の毒そうに呟いた。突然G.Iジョーは、ラベルが真っ黒に変色した、空き缶を激しく打ち鳴らし、美恵の足元に向ってほふく前進を開始した。そして美恵に向って「マネーマネー」とだけ言葉を発した。垢で黒ずんだ顔を、覆い尽くすような無精髭。いかつい形相とは裏腹に、鼻の右脇にある大きなホクロが、妙に愛嬌を漂わせる。
慌てて美恵は駆け出した。
宮脇と志津絵が地下道を出ると、美恵は両手で自分の身体を抱え脅えていた。
「彼は足が不自由なんじゃなくって、足を不自由に見せることで商いを成立させているのさ。それが証拠に、夕方になると歩いて帰っていく姿が見られるから」宮脇は脅える美恵に愛おしさを感じた。
美恵は志津絵に腕を絡め、どうにか歩き始めた。宮脇は二人を従え、リージェントの東隣りに建つテナントビルに入り、地階へと階段を降りていった。
「やあ、宮脇さん。おはようございます」夏物のスーツに品の良いネクタイを締めた、小柄の男が三人を迎えた。満面に、にこやかな笑みをたたえながら。
「紹介するよ。ぼくの古くからの友人で、今回の仕掛けを全面的にプロデュースしてもらったリー・キムホンさんだ」美恵と志津絵は、宮脇に紹介されリーと握手を交した。
「さあ、まずは腹ごしらえでもしますか」そう言うとリーは、粥専門店のテーブル席に三人を案内し、広東語で注文を終えた。「やっぱり香港の朝は、これに限るよ」宮脇は海鮮粥を啜りながらつぶやいた。
「今日は土曜日だからビジネスマンが少ないネ。だけど、ウィークデーのこの時間帯は、東京のラッシュアワーみたいヨ」リーは向かい合って座る、美恵と志津絵にそう告げた。
「課長、リーさんは何をなさっている方なんですか? 」美恵はリーに微笑を返しながら、宮脇に尋ねた。
「一言じゃあとても言い表せないよな」
「私、仕事は何でもしますです」
「リーさんは、とにかくもの凄い人脈の持ち主で、何でも相談すれば大抵の事はコーディネートしてくれる。勿論ちゃんとしたビジネスから、果ては、我々が今回依頼したような、ちょっとダーティーな仕置きまで」
宮脇に促され、リーは今回の仕置きプランを手短に語った。
「ヘェー」美恵は感心しきった表情で、リーを見つめた。
「でもそんなにうまくいくかしら? 」志津絵は不安げに宮脇を見つめる。
「大丈夫、何も心配無い」リーは志津絵を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「この程度の懲らしめ方ならば、犯罪行為にはなりえない。君が味わった屈辱を思えば、何万分の一程度のささやかな仕返しさ」宮脇は右手を握り締め、親指だけを上に持ち上げ、志津絵に向かって突き出した。四人は階段を上り、仕置きの舞台となる早朝のリージェントへと向った。
リーは最後の準備に取り掛かるべく、足早にチムサッチャイの雑踏へと紛れて行った。