転生の追憶 – 2 –

(2009.02.18)

前回までのあらすじ


一九三七年七月、盧溝橋事件が勃発。日本国政府は日本人の早期帰国命令を発布。香港の九龍の埠頭でも、互いに愛し合った香港人の男と日本人の女が、なす術もなく引き裂かれようとしていた。男は二つの懐中時計を取り出し、一つを女に手渡した。
「私はこれを君と思って、戦争が終わる日をここで待ちます」と男は懐中時計の裏蓋を開いた。そこにはドレス姿の女と、タキシード姿の男の写真が埋め込まれていた。
一転、時は現代へ。成田空港国際線ロビーでは、赤川美恵が先輩女子社員の到着を待っていた。

 二人はパスポートコントロールを抜け、三十四番ゲート前の待合ロビーに腰掛けた。
そして美恵は【どこのホテル? 】と、義之にメールを送り返した。
「でも偶然にしちゃあ、ちょっと出来すぎじゃない? いいのよ美恵ちゃん、私なら。気にしなくたって」
「そんなんじゃあないって」
 近くで聞き覚えのある悪趣味な着メロが流れた。
「何あれ? 誰よあんな着メロ使ってんの? 『ちょっとだけよ! 』じゃん」
「そ、そうよね。ちょっとダサ過ぎよね」
( あんな着メロ使ってる人って、義之の他にもいるんだ) と、美恵は心で呟いた。
「でもさあ、まあ人それぞれだからね」
 再び美恵の着メロが流れた。そこには義之から【九龍リージェント】の文字が。
 出発ロビーに搭乗案内が流れた。
「あれっ? 」イタリア製の見覚えのあるスーツと後姿が、美恵の視界をよぎった。美恵は前方の人だかりを掻き分けようと、思わず身を乗り出した。
「…… 」美恵はまた射る様な視線を感じ、後ろを振り返った。
「なに、どうかした? 」志津絵も釣られて美恵の視線を追う。
「うん、何でもない。何だか誰かに見られてたような気がしたから」
「あんた美人だから… そんなのいちいち気にしてたら、いつだってあっちこっち振向いてなきゃあなんないわよ」
「私じゃなくって、志津絵先輩の美貌に熱い視線が注がれてたのかも」
「まあ、それも十分アリ… かな」
 志津絵は心なしか浮かれているようだった。

◆ ◆ ◆

 九龍リージェントホテルは、チムサッチャイ・ウエストの南端に位置する一流ホテルだ。ホテル北側の車寄せには、ヨーロッパの高級車がひしめき合って止められている。道路を一本隔てた北側には、旧日本軍が三年八ケ月間に渡って司令部を置いたペニンシュラホテルが、威風堂々とした構えを見せる。
 磨き抜かれた赤御影石のロビーの傍らでは、志津絵と美恵が敵の到着を今や遅しと待ち構えていた。二人はエレベーターホールの前にあるソファーに深々と腰掛け、英字新聞とファッション雑誌を広げ、ページを繰る振りを装いながら正面玄関を見据えている。
 張畑龍之介と妻の玲華は、ホテルリムジンの後部座席から、眼前に広がるチムサッチャイの風景を楽しんでいた。
やがてリージェントホテルの車寄せにリムジンが滑り込んだ。恭しく出迎えるポーターを後に、龍之介は玲華をエスコートしてチェックインカウンターへと向った。
「勝った! どう見たって、私の方がイケてるわよね! 」志津絵が英字新聞を捻り潰した。
「先輩のノーヒットノーラン、完全試合だわ! 」美恵はファッション雑誌を放り出し、志津絵と抱き合って歓喜の声を上げた。
 ポーターが龍之介と玲華を伴い、エレベーターホールへとやってきた。二人はソファーで、縮こまったまま息を凝らす。
 荘厳な到着音が鳴り響き、エレベーターが開いた。中からロングヘアーのホンコンナーらしきスレンダー美女が飛び出し、ポーターとぶつかった。
「メイフォアン」エレベーターホールの片隅から突然現われた男が、女の名を叫びながら美女を追って駆け出した。
見覚えのあるスーツとその声。美恵の心臓は、一瞬キュンと小さな悲鳴を上げた。呆然とする美恵。
 エレベーターの扉が閉まる瞬間まで、志津絵はソファに身を沈めたまま玲華を盗み見ながら、満面に一人勝ち誇った笑顔をたたえた。

◆ ◆ ◆

 ペニンシュラホテルのタワー棟、最上階のバーラウンジは、国際色豊な喧噪でむせ返っている。英国領の時代が終り、中国に返還されたといえども、香港の夜の華麗さは何一つ変わってはいない。
 窓際の席には、カクテルで祝杯を重ねる美恵と志津絵の姿があった。
 数人の男女に囲まれ、窓際のテーブルに一人の日本人がやって来た。
「ねぇちょっと、あれ・・・宮脇課長じゃない? 」志津絵は危うくカクテルグラスを放り出しそうに驚いた。
「そう言えば、契約でこっちに来てたんだっけ」美恵は週末の職場での会話を思い返した。
「でもさあ、宮脇課長って、見た目は風采が上がらないけど、あれで結構やり手って役員の間じゃ評判よ」志津絵が秘書課のお局と呼ばれ、若手男性社員から最も恐れられていた由縁だ。
「結構面倒見がいいのよ」美恵は宮脇のテーブルに目をやった。
 宮脇は大きな身振りで、英語と広東語を使い分けながら、取引先の外国人たちの笑いを誘っている。
「面倒見がいいって言えば、ほらあんたの課に貰われたあのヒョロヒョロっとした青二才。… ほら、なんつったっけ? 」
「二之前くんでしょう」
「そうそう。あいつあれでも東大ストレートの超エリートとかって? 」
「ちょっと変わってるけどネ」
「美恵ちゃんと同い年だったっけ? 」
「私は短大卒入社だから、同い年だけど私のほうが社歴は二年先輩」
「あいつ超お勉強はできたみたいだけど、直ぐに上を見下したように理詰めで迫ってくるって、あっちこっちの部署をたらい回しだったのよ。それを面倒見のいい宮脇課長に、他の部課長連中が寄ってたかって押し付けたらしいじゃない」志津絵はカクテルグラスに付いた口紅を、指先で拭った。
「でも課長は『少々暴れ馬くらいのほうが、飼い馴らしさえすりゃあ名馬になるんだ』っておっしゃってたわ」
「でも宮脇課長なら、本当に乗りこなしちゃうかも」志津絵はボーイを呼び止め、新しいカクテルを注文した。「東大出のあいつさあ、あんたに気があるんじゃない? だって何となくそんな気がするもん」
「ちょっと先輩! いい加減にして下さい! 」
「まあ、あいつがどんなにあんたにお熱でも、あんたがあの子になびくとは思えないけど。でもさあ、本当変わった名前よね。二之前なんていったら一じゃない」志津絵は一人で笑い転げた。
「でも実際に漢数字で一と書いて、二之前って読む苗字が四国にあるんだって」
「四国って言えば、そうそう、やっぱり漢数字の十と書く苗字もあるのよ。テレビで昔やってたもの。ねぇ、それって何て読むと思う」志津絵は得意気に、鼻の穴をひくつかせた。
「…… さあ? 」『でも何で香港まで来て、しかもペニンシュラのバーで漢字クイズなわけ? 私達女二人でもっと他にやることないの? 』美恵は思わず自問自答せずににはいられなかった。
「ヤッツ、ココノツ、トウって言うじゃない。だから十だけツがないからツナシなんだってさ」
「じゃあ彼、二之前綱士だから四国風に書いたら一十? 」
 二人は顔を見合わせて笑い転げた。
 二之前は、よく言えば寡黙な男、別の言い方をすればお勉強しか知らず、そのまま大人になってしまった「頭でっかちなオタッキー」。当然課員たちは、仕事上の上辺の付き合いだけに終始した。それも仕方なくと言った有り様で。しかし宮脇は他の者達と違い、二之前を色眼鏡で見たりはしなかった。二之前はエリート意識が強過ぎて、得意先からも鼻つまみ者扱いだ。そんな出来損ないで歪な性格の持ち主である二之前は、当然上司とも反りが合わず、これまでにも志津絵の言葉通り社内の部署を転々とさせられていた。しかし宮脇は、二之前を一人の人間として捉え、真正面から向き合おうとした唯一の上司だったのだ。
「なんだよ、君らも香港に? 」宮脇憲四郎は美恵と志津絵に気付き、グラスを持ったまま相席を決め込んだ。
「じゃあ改めて、異国の地香港と我社の美女二人に乾杯! 」いつの間にか宮脇のペースとなり、志津絵も美恵も大いにグラスを重ねた。
「課長、いやらしい。小指なんか立てちゃって」志津絵の言葉に慌てて、宮脇は左手をテーブルの下に隠した。
「いやっ、ごめん。生まれつきなんだ。生まれた時から小指と薬指がくっ付いたままで、小学生の時に手術で切り離したんだ。でも俺の子供の頃の外科技術なんてさあ、今のように発達してなかったから… その時の影響で、未だに小指だけが曲がりにくくって」
「あら、ごめんなさい。失礼にも笑ったりして」志津絵は深々と頭を下げた。
「… 」美恵は再び射るような視線を感じ、辺りを瞬時に見回した。

◆ ◆ ◆