『SARAVAH 東京』こんにちは。- 3 - 渋谷が嫌いでした。

(2010.10.25)

駅からハチ公前の交差点に向かう時のあの、人の波! 群衆って苦手です。青信号になると、うわ~っと人の波が迫ってきて、自分も迎え撃つ波の中の小さな点となって、まるで人格も個性もなし。そんな私のちっぽけなエゴのあやうい心の隙間にぐいぐい入り込んでくる、巨大スクリーンのCM映像。センター街には宇宙人のような格好をした若者たちが狭い目つきで何を待つのか、たむろしている。そして商業施設のてんこもり。売ったり買ったり、そんな行為のためになぜ時間をついやさなければいけないわけ?
「ああ、嫌だ、渋谷って。」とずーっと思っていました。

しかし、『SARAVAH 東京』を探す旅の中で、最終的にはここに来てしまったのです。 

 

新宿? 渋谷?

最初はず~っと新宿を探していました。新宿、わが町(私、新宿生まれです)。子供のころは『ACB(アシベ)』に通い、学生になってからは背伸びしてゴールデン街をのぞき、ガード下の「しょんべんよこちょう」でモツ煮込みを食べ、あの猥雑で、ひねくれものの感じ好き、森山大道さんの濡れたアスファルトや若松監督の感じが好きです。でも新宿には巨大な歌舞伎町があり、そこはちょっとシロウトには入れない世界です。もったいないです。

歌舞伎、と言う名前がついて、コマ劇があって、ブロードウエイみたいに大小の劇場や、カフェコンサートがあったらどんなに楽しいか、でも今の歌舞伎町はご存じのようにあまりいい雰囲気ではありません。
で、伊勢丹の周りの物件は異常に値段が高いし、西口は電気屋さんばかり。探すと本当にいいものがなかったのです。ああ、もう、だめかな……と諦めかけていたころでした、渋谷に立て続けに呼ばれたのは。

 

渋谷、文化発信論

20年来渋谷でボーダレスな文化の発信してきた『アップリンク』の浅井さんが偶然、私の主催する『ラ・ケヤキ』の前を自転車で通りかかったことから、昨年の8月に映画『未来の食卓』のオープニングイベントに場所を提供することになりました。それから、ピエールが『アップリンク』で映写会を催したりで、浅井 隆さんと話をする機会が増えました。

彼と話しているうち、我ら、同い年であることや、彼は寺山修司さんの劇団『天井桟敷』の舞台監督をやって外国の演劇祭に参加など、エキサイティングな経験をして、文化の橋渡し人になったこと。私は『SARSVAH』で働いてワールドミュージックのライブやCD作りにかかわってきたことで、意気投合して、「これはいいかも、文化発信基地をアップリンクさんの近くに置いたら効果は倍増するのでは?」とたくらんだのです。

そんな考えに浸りだしたころ『Dictionary』の桑原茂一さんが、「やっと、場所がみつかったんだよ! 渋谷の桑沢デザイン研究所の裏!」という連絡がありました。桑原さんももう20年来、フリーペーパーを出しつつ、ライブ、アートイベントなど、文化の発信をし続けている人です。アートスクールを作る場所が欲しい。という話を聞いていましたが、ついに素晴らしい場所をみつけたという。それからあっという間に、彼らはボランティアたちの手を借りながらかっこいい基地を作ってしまいました。この暑い夏のことです。

そのニュースが入ったころ私も『クロスロード』を発見したのです。行きつけのバーの2人も偶然すぐ近くにバーを出すことになりました。(『カフェリエゾン』と山田広野監督の店『喫茶スマイル』です。)

これは「呼ばれている」、としか思えません。アップリンク、桑原茂一さん、そして『SARAVAH 東京』。渋谷の文化発信、健在なり。エイエイエオ~!!

 

岡本太郎の朝礼

毎日渋谷に通ううちに渋谷が好きになってきました。きっかけは太郎さんです。

マークシティから駅を出るとあの傑作、巨大な岡本太郎さんの壁画が迎えてくれます。以前、東京都現代美術館で見て度肝を抜かれた、とんでもないエネルギーに満ちた作品です。名前も『明日の神話』最高のネーミングです。今のアートはコンセプチュアルなものばかり、作品よりも効能書きのほうが大切、頭でっかちの作品ばかりが美術館を飾っています。

岡本太郎さんの朝礼です。

何かの展覧会で、頭が疲れたな~と思いながら、最後にこの太郎さんの作品の部屋に行ったのですが、その時の感覚、今でもはっきり覚えています。まさに「ガーン」です。そうなんだよ、うるうる……、これだよ、ハートに直撃! イコール=アート。正解はこれです! と言う支離滅裂な感嘆詞を自分の中で叫んでいました。
アートの根本的テーマに横面をひっぱたかれました。

岡本太郎さんは私が卒業したパリ大学の40年前の先輩です。彼の教授であった方は私の学んだ比較人類学部の部長さんでした。最近彼の本が次々と再版されているので読む機会があって初めてわかったのですが、1930年代、若い太郎さんが受けたと同じフランス文化と人類学の啓蒙を私も1970年代に受けていたのです。似ているのはそこまでで、太郎さんは人並み外れた知性と創造性で芸術家として、人生と芸術との間に誤差のないすばらしい一生を送られました。

マークシティの巨大作品の太郎さんは言っているのです。「芸術は力だ」、と。過去の傑作に涙する暇があったら今起こっていることに目を向けなさい。と。そういう彼の強いメッセージを毎日マークシティを通る度、まるで朝礼みたいにありがたく受けてきます。すると私は認識するのです、山田電気の前で呼び込みしている店員も、ドンキーもセンター街でしゃがんでいる若者も、今、という同じボートに乗り合わせたメンツなのです。

文化をやる、などと威張った気分では絶対いいものはできない。われわれに与えられたキャンバスはパリやベニスの品のよい風景ではなくて渋谷の駅前の宣伝や雑居ビルなのであって、我々の人生芝居の共演者たちの中にはセンター街のつんつん髪の男の子たちや、リカちゃん人形みたいなまつ毛の女の子、疲れたサラリーマン、みんな共演者たちなのです。これら現実を認め、内包しつつ新しい、冒険心に満ちた、しかも時代に即するものを提供していかないと、マークシティの先輩に張り倒されまする。『明日の神話』なんか作れないぞ。と脅されている感じがします。

あの素晴らしい壁画の前を目をあげもしないで毎日多くの人々が通り過ぎているけれど、もったいない話です。ぜひ、見上げてください。栄養ドリンク10本分くらいの元気が出ます。

 

一方現場では

ビルは29年前に建てられた古い建築です。当時はモダンな感じだったのでしょうが、今見るとかなりレトロ。前の持ち主は壊して土地を売るつもりだったらしく、前のテナントがそのまますべてを残したままです。つまり3件の小さなバー、(バリ島風、なんだかわからないバー、そして石垣まで作ってある沖縄風バーです。)

タグがめちゃくちゃ書かれた地下の入り口。
中は廃墟になってました。

椅子やカウンター、調理器具から食器までそのまま2年間廃墟になっていました。これで大丈夫? ところどころにキノコまで生えちゃって、かなりハードコアな状態です。でも、これでいいのだ、やるのだ。と固い決意で、友人の建築家、ライフアンドシェルターの相沢久美子さんに建築を頼みました。私にとって全く、はじめて開く店、相沢さんも飲食店は今までやったことがない!   というはじめて同士の、二人とも怖いもの知らずの女子2名です。

私の注文は簡単で、音楽を聴きたい人がちゃんといい音で聴けること、音楽をちょい聴きながらおしゃべりしたい人は臨場感を持ちながら、ちゃんとお話しできること。おいしい食べ物が食べられること。人の出会える空間のあること。演奏する人が気持よくできる控室と良い音響があること。なになに? これがシンプルな注文か?? 言うのは安く、行うのは大変です。何しろ200㎡弱の面積しかないし、やれ柱だの、電気室や、換気ダクトやら、今までの人生で想像もしなかった、そういう物体があるのです。

しかし『明日の神話』を作るわれわれはクリアーしなければならないのです。20年したら「ここが、あの、世界的に有名な○○○が初めて演奏した場所よ」とか「ここがピアノの○○○とギター○○○のがはじめてジャムした場所よ」とかとか、神話とはおこがましいが、伝説の生まれた場所にするのですから。夢は広がります。財布の口も広がらざるを得ません。ど~しよ~!!

革マル派ではありません。すごいホコリにマスクで立ち向かう女子、左が筆者で右は美人建築家の相沢久美子さんです。