『SARAVAH 東京』こんにちは。- 1 - ついに見つけた『SARAVAH』の店。

(2010.10.11)

渋谷道玄坂に『SARAVAH東京』ができます!!

ピエール・バルーと私、潮田あつこはずーっと前からこの東京でSARAVAH(サラヴァ)スピリットあふれるカフェレストラン+音楽。の場ができないものかと探してきました。今年の8月、熱中症になりかけながら、ふらふらと町を歩き続け、そして、すばらしい場所にやっと出会えたのです。その名はクロスロードビル。渋谷駅から道玄坂を上ってきて、「文化村」のある松濤郵便局の交差点にあります。築29年の、しかも廃墟になっていたビルが改装されて、リニューアルオープンするという噂を聞いて、ヨッシャーこれだ! と思ったのです。

渋谷駅から道玄坂を上ってきて、「文化村」のある松濤郵便局の交差点。ここに『SARAVAH東京』ができます。

クロスロード、私たち『SARAVAH(サラヴァ)レーベル』が45年かけてやってきたのもクロスロード、という試みです。60年代のパリで世界初のアフリオカンミュージックのアルバム、ピエール・アケンデンゲの『NANDIPO』を作ったのもサラヴァ。ブラジルのビリンバオ・ソリスト、ナナ・バスコンセロスのアルバム『NO SUL DO POLO NORTE』も出しました。もちろん、ブラジルのボサノバをヨーロッパに紹介したのはピエール・バルーです。ブルターニュ出身、どフランス人の詩人、ブリジット・フォンテーヌとNYから来たアート・アンサンブル・オブ・シカゴを結びつけて作った『ラジオのように』……など数え切れないアルバムを出してきました。

クロッシング ロード:道を渡ってみよう、見知らぬ人や音楽に出会えるかも知れない。好奇心を刺激するような、出会いのある場を作りたかったのです。日本には素晴らしい性能とエネルギーを持ったアーチストがたくさんいます。面白いモノに出会いたい人もたくさんいます。その両方が出会う場があったらすごいじゃあないですか!!

と、ここまで一気にお話しましたが、『サラヴァレーベル』のことをご存じない人たちに自己紹介します。

 

サラヴァレーベルとは?

『サラヴァレーベル』は45年前にピエール・バルーがいわば冗談から作った会社で今となってはヨーロッパ最古、いや、世界最古の、今でも完全独立を誇るインディーレーベルです。インディはほとんどが数年で消えてしまうか、うまくいった場合は大きなレコード会社に会社を売って、名前は残るが実際には親会社が制作運営する。というのがほとんどです。しかしサラヴァは今でもヒモつきではない、唯一のレーベルなのです。

クロード・ルルーシュ監督『男と女』(’66 )。これは『サンバ・サラヴァ』の曲を入れるために特別に作ったシーン。アヌーク・エメがシャンプーをしてくれているシーンだった。

1960年代の前半のパリ、バルーは売出し中の若きシガーソングライターとして、ラジオ局の番組を持ちつつ、順調にレコードデビューしていました。同時に映画や舞台にも出演していましたが、中でもテレビ局のニュースのカメラマンだったクロード・ルルーシュとは自主制作で一緒に映画作りをしたり、俳優をしていました。一緒に作った3作目が『男と女』です。大人の恋愛を描きたい。という監督の希望で、友人のジャン・ルイ・トランティニアンとアヌーク・エメを連れてきて、ストーリーを作ります。

監督が資金集めに奔走している間、バルーはブラジルでほかの監督の映画に出演するため、出かけます。「資金が集まったら電報ちょうだいね。」という感じで、彼は大好きなブラジルにロケが終わっても滞在していました。その間、向こうの友人たち、バデン・パウエルやミルトン・バナナ、らと音楽のセッションやら歌やらを作っていたのですが、ヴェニシウス・ド・モラエスから頼まれた、『サンバ・ダ・ベンソ(Samba Da Bençao)』のフランス語の作詞にも頭を痛めていました。どうしたら原詩を裏切らない歌詞ができるのか……と。

 

ある日バルーのもとに電報が届きます。「資金はそろった、パリに戻れ。」バルーは借りていた小屋を払い、友人たちはお別れパーティを開いてくれました。まさにその晩、『サンバ・ダ・ベンソ』の歌詞が完成したのです。一晩中、出来立ての歌詞で歌を歌いまくり、夜明けにバデン・パウエルの下宿でシャワーを借りたあと、バデンのオープンリールのテープに吹き込んだものを記念にそのままリオの空港からパリに飛びました。

ブラジルでのセッションの様子。左・バデン・パウエル。中・ジョルジ・ベン、右・ピエール・バルー。『サンバ・ダ・ベンソ』がその後、『サンバ・サラヴァ』として 『男と女』に挿入された。photo /Alain Dejean

パリの空港で、ルルーシュ監督が迎えに来ていました。「疲れているだろう、自宅まで送るよ、」と言うのを、「一寸ラジオ局に寄ってくれ、聞かせたいものがあるんだよ。」と言って、当時DJをしていたパリのラジオ局でテープを聞かせます。聞いた瞬間、監督は「これだよ、これをフイルムの中に入れよう。」と飛び上がりました。そこでシナリオを変えて、この『サンバ・ダ・ベンソ』の入るシーン、今で言うビデオクリップのようなシーンができたのです。

録音ほやほやのテープを抱えてパリの空港に着いたピエール君。撮影はピエール君のお兄さんによるもの。

映画の方は、難航して、せっかく集めた資金は途中で使い果たしてしまいました。ある日監督は皆を呼んで「悪い、もうフイルムがないんだよロケはストップだ。」と言い渡します。バルーは策を講じて、自分とフランシス・レイの書いた曲を音楽出版社に売ることにしました。ところが無名な監督に、フランシス・レイも無名のしかも街で弾いている流しのアコーデオン弾き。バルーがいくら若きホープでも誰も出版権を買おうとは言いませんでした。そこで冗談に「では、自分で出版社を作ってやれ!」と作ったのが『サラヴァ音楽出版』でした。

映画はカンヌで金賞、ハリウッドでアカデミー賞。と、映画の大成功で、『サラヴァ音楽出版』にはお金がたくさん入ってきました。そこで、前から大好きだった、ブリジット・フォンテーヌとジャック・イジュランの2人に1枚づつアルバムを作ってあげよう、と始めたのが『サラヴァレーベル』です。以来、次々と才能あるアーチストが押し寄せてくるので、バルーは彼らを世に出すことに大忙しとなったわけです。

これが『サラヴァレーベル』の始まりです。次回には、渋谷の『サラヴァ東京』の工事の様子やサラヴァレコードの冒険のお話をします。楽しみに……

 

 

*人名の日本語表記は潮田さんの表記に準拠します。