深瀬鋭一郎のあーとdeロハス13世紀ぶりに熊野にいく。

(2009.05.14)

皆さんはゴールデン・ウイークにどちらかに出かけられましたか?僕は熊野古道に行ったんですよ。熊野は2004年にユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定されたことなどから、最近とても人気が高いようです。南紀白浜から中辺路、本宮、十津川、北山、尾鷲、新宮、那智を経て、最後に本州最南端の潮岬へと巡りました。それらの人為が自然に溶け込んだ風景は、ロハスな芸術のあり方が自然と共存して美しくあり得る例証として、「人工物は自然に勝てない」という芸術関係者の悩みへのヒントになり得るものでした。

飛瀧神社と那智の滝

もちろん、熊野古道をテーマとした芸術作品もあり、そのひとつに、森万里子のビデオ・アート作品に『KUMANO』(1997-8)というものがあります。熊野信仰をテーマに、作家自身が巫女に扮して那智の滝の前で祈りを捧げたり、宇宙船のようなCGの夢殿の中で茶の湯を行ったり、物の怪に扮して古道を歩いたりするという、13分間の美しい作品です。僕は10年前にそれを観てからというもの、「いつか、心ゆくまで熊野を歩いてみたい」と、KUMANOへの憧れを持ち続けてきました。

熊野に出かけたもうひとつの理由は、自分のルーツがその少し北、吉野郡の山奥にあるからです。正確には北山から十津川のあたり、日本の秘境のひとつです。奈良県吉野郡上北山村国道169号線には深瀬トンネルがあり、その脇に深瀬滝と、いまは池原ダムにほとんど沈んでしまっている深瀬谷があります。子供のころ、山形県上山市の父方の実家に行き、深瀬信清が737年に大野東人の家来として奈良から蝦夷征伐に行き、原田種陰とともに山形に住み着いたという伝承をきかされたのです。

『続日本紀(しょくにほんぎ)』と『印鑰神明宮縁起(いんにゃくじんめいぐうえんぎ)』によれば、鎮守将軍大野東人(おおのあずまびと)は奥羽山脈男勝の蝦夷征討にあたって、熊野古道の北の果てにある伊勢神宮に赴き、内宮で神祇官の安部乙宮から銀の鍵(鑰)を渡され、それを旗印として蝦夷と戦いました。奥羽を平定した後に、大野東人は伊勢神宮を勧請して、その分社として印鑰神明宮(山形市鈴川町)を建立し、そこに銀の鍵(鑰)を収めました。その社守として残されたふたり(深瀬・原田)のうちひとりが僕の先祖だといいます。ふたりは同じ鈴川町の国司壇という祠に祭られています。

熊野へは、つまり子孫として1272年ぶりの帰郷でした。残念ながら、北山川や熊野川の開発反対運動にもかかわらず、池原ダムは1965年3月に竣工して、旧深瀬集落はダムの底に沈み、武家屋敷があったという昔日の面影は、もはやそこにはありませんでした。そうした歴史の浮き沈みにもかかわらず、13世紀ぶりの熊野は変わらぬ美しさに満ちて、やまとの国の原点をみる感銘がありました。「木(紀)の国」の語源をなす、木がもりもりとした山並みや、人知れず物の怪を宿す大門坂の石畳、突然開ける伊勢路の浜の鯉のぼり、そして、自然信仰の源である那智の瀧や獅子岩などの奇岩にも。

また行きたいですね、熊野へ。多分それは、僕の父の1273年ぶりの帰郷として。

熊野古道なかへち美術館です。
熊野本宮大社です。
谷瀬の吊り橋です。
七里御浜のこいのぼり。
熊野那智大社にて著者近影。
中辺路の農家で見つけた「日本銀行」。