ぶろぐちようじの書棚 - 1 - いまさら『アンダーグラウンド』

(2010.04.26)

デジタルかアナログか

キンドルだ、iPadだ、と出版業界はデジタル化に大騒ぎだけど、僕にとってはいままでの形態の本のほうが絶対良い。なにしろ本は一冊ずつ触感が違う。

本を読むとき、じっと数時間はその本を読むために手に持つことになる。このあいだにその本の表紙の紙質、ページの紙質、本の重さ、本の匂い、そしてその本の作者の言い回しと哲学が、無意識に僕のからだに刻まれていく。そのための装置として本がある。

たとえば、西田幾多郎の『善の研究』は僕にとって、昔の岩波文庫の薄紙に包まれた字の小さく読みにくい本として記憶されている。内容がなかなか理解できなくて一生懸命読むが、それでもわからず手に汗をかいてくると薄紙がペタペタくっついて鬱陶しくなってくる。その体験全体が『善の研究』だ。だから大きな活字で豪華な装丁で『善の研究』が出てくると僕は違和感を感じる。個人の体験ってそういうものだと思う。

だからこそ本の装丁は非常に大切な要素だ。一冊の本を思い浮かべるとき、その内容より雰囲気を先に思い出す人は多いんじゃないかと思う。

記憶というものは意識していないたくさんの要素に支えられている。だから「あの話はどこに書いてあったか」と思い出すとき、すぐに著者やタイトルが思い浮かばなくても、いつそれを読んだとか、どんな雰囲気の中で読んだとか、どんな重さの本だったとか、二段組みの本だったとか、そんなことから思い出されることがある。

僕は昔、ハワイからの帰りの飛行機の中で太宰治の『人間失格』を読んだ。ハワイで買ったティキゴッドの栞を本に挿し、狭いエコノミーシートに張り付いて、明るいハワイから日常にまみれる日本へ帰る機内で読んだ。だから『人間失格』というと、そのときの雰囲気が甦る。栞が紙をはさむようになっていたので、文庫の薄いページを何ページか破ってしまったことまで覚えている。その煩わしさと『人間失格』が感覚の中で統合されている。

 

紙の固まりに吸い寄せられる

最近、『アンダーグラウンド』を読んだ。オウム真理教の地下鉄サリン事件で被害に遭った人たちのインタビュー集である。それを村上春樹がまとめた。僕は村上春樹の作品が好きなので、たいていのものは読んでいるが、この本だけは出版された当初、まったく読む気がしなかった。ところが去年末に気になって、文庫を買った。なぜいまさら気になったのか、読み出すころはわからなかった。

僕は本屋に行くことが好きだ。すでに目標のある場合は、その棚に向かって一直線に歩くが、ただなんとなく何かの本に出会いたいときはぶらぶらと本屋を歩き、これがいいか、あれが面白いかと眺めてまわる。このとき、どの本を読むかは「なんとなく」という雰囲気が教えてくれる。もちろん明確にテーマを持っているときは「探す」モードになるが、漠然と何かを読みたいときは「感じる」モードでふらふらする。そして時々ピンと来る作品に出会う。

だからその日のコンディションによって一冊も読む気にならないときもあるし、本屋を出るときには山のように本を抱えて出て行くときもある。『アンダーグラウンド』を読もうと決めたのはそんな「感じる」モードでふらふらしていたときだ。それまでちっとも読みたいとは思わなかった『アンダーグラウンド』が、何かの臭気を発して「読め読め」と迫ってくる。腰に手を当てて「本当に読むの?」と思いながら手に取った。文庫なのに800ページ近くある紙の固まりを手にすると、なぜか読みたくなった。

読み出すと不思議な感覚に囚われる。事件現場は五ヶ所あった。現場が違えば話は違うかというと、そうでもない。どのようにサリンが置かれていたのか、人々はどのように駅構内から出て行ったのか、それらは微妙に違うが、大雑把に言えばほとんど同じだ。何度も似たような話を読むから、これは前に読んだ話と似ているなと思う文章が何度も出てくる。しかし、それがどの現場の誰の話だったかはよく覚えていない。それを思い出すためには前に書かれていた文章を丁寧に読み直す必要がある、何度も何度も。

この「何度も何度も」読むことがかつての僕にはできなかった。無駄に思えたのだ。しかし「同じような文章を何度も読むのは無駄」という、効率に対する幻想を手放すと、何度も読むことは別の価値を生み出す。何度も読むと微細な差がわかるようになる。内容をしっかりと把握することになる。同じ現場でもインタビューする相手によって微妙な差異があることがわかってくる。

村上春樹がこの事件に興味を持ったのは、女性誌の投書欄を読んだからだそうだ。そこには夫がサリン事件の被害に遭い、その後後遺症に苦しめられ、仕事がうまくできなくなると会社から追い出されてしまったという、ある女性からの投書が掲載されていた。それを読んで村上春樹は「どうして?」という疑問を持つ。

 不運にもサリン事件に遭遇した純粋な「被害者」が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、何故そのような酷い「二次災害」まで(それは言い換えれば、私たちのまわりのどこにでもある平常な社会が生み出す暴力だ)受けなくてはならないのか? まわりの誰にもそれを止めることはできなかったのか?
( 『アンダーグラウンド』村上春樹著 講談社刊 から引用)

村上春樹は取材し、麻原彰晃についての考察を重ね、この事件をオウム真理教の信者達が麻原の差し出す「物語」を受け入れた結果だと考える。そしてその一方で、私たちの側にどんな物語があるのだろうと疑問を呈する。村上春樹はこれを書くのに丁寧に紙幅を割いているがここではそれを再現はできないので、興味のある人は『アンダーグラウンド』を読んでいただきたい。サリン事件の被害者が「ひどい二次災害に遭遇するような社会」に蔓延している物語とはどんなものだろう? そして、こんなことを書いている。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受けとってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度-システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか? もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか? あなたの「自立的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか? あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?
( 『アンダーグラウンド』村上春樹著 講談社刊 から引用)

 

『ザ・コーヴ』というドキュメンタリー映画

夏に『ザ・コーヴ(原題 The Cove)』という映画が公開される。この映画は去年アメリカで封切られ、アカデミー賞も取った作品だ。この映画の主人公はリチャード・オバリー氏。僕は十数年前にマイアミからキーウエストに行く途中にあるシュガーローフキーで彼に会った。当時彼はアメリカ海軍がイルカを兵器として飼育し、虐待していると訴訟を起こして勝訴、アメリカ海軍から兵器として育てられたイルカを数頭ずつ預かり、海に返すためのリハビリをおこなっていた。イルカのリハビリ施設として使っていたのがシュガーローフキーにあるリゾートホテルの、入り江を囲ったプールだった。

『ザ・コーヴ』は、オバリー氏が和歌山県太地町のイルカ漁を告発する内容になっている。彼が出てくるというので、その映画に興味を持ったが、日本ではなかなか上映されなかった。去年の東京国際映画祭で一回だけ上映され、そのときのシホヨス監督とのインタビューをもとに週刊金曜日に原稿を書いた。

このドキュメンタリー映画はたびたび話題になったが、ほとんどが『日本の捕鯨文化を脅かす存在』として話題にされている。しかし、僕はそれに非常な違和感を覚えた。オバリー氏は日本の捕鯨文化にはほとんど興味を持っていない。彼が考えるのは「イルカを大切にしたい」という一点だ。なぜそのように考えるようになったのか、彼には強烈な物語がある。それを表すために『イルカがほほ笑む日』という本を書いている。彼は世界中どこのイルカでも、虐待されていたら助けようとする人なのだ。ところがその人に対して多くの人が「日本の伝統文化を壊そうとしている人」とレッテルを貼っている。まったく話が違う。

彼がなぜイルカを愛するようになったのか、その物語を知れば、彼の気持ちも少しは理解できるだろう。しかし、誰かが作った「日本の伝統文化を壊す悪者」という物語に乗せられて、多くの人にはもうリチャード・オバリー氏の愛情がどういうものか理解できなくなっているのではないか? その結果、なぜアメリカ人がこの映画を高く評価しているのかが理解できない。日本バッシングをしているとしかとらえられなくなっていることによって、アメリカをはじめとする多くの国とのコミュニケーションにギャップができてしまっている。そのことが問題だと僕は思う。

この映画について知っているかと人に聞くと、知っていると答えた人のうち半数ほどは、実際には映画を観ていないのに「あの映画は文化的侵略だ」などと批判を始める。それは自分で映画を観て感じた感想ではなく、誰かの言っていたことの丸ごとのコピーでしかない。

『ザ・コーヴ』で何が問われているのか実際には見ないで批判することは、誰かの物語を丸ごと呑み込んでいるようなものだ。そうすれば少しは現実の複雑さを忘れられる。麻原の物語を求めて与えられた信者のように。

僕たちは、たとえば効率という物語に踊らされている。効率という物語ばかりが優先されると、わずかなゆがみが増幅される状態に甘んじなければならなくなる。効率が優先されるとき、目標重視の考え方が採用され「感じる」モードにはなりにくい。そのことが僕たちの感性を摩滅させている。

『アンダーグラウンド』の「似た内容が何度も繰り返される丁寧なインタビュー」が、そんなことを思い出させてくれた。きちんと事実に向き合うためには、しっかりと確かめて感じるための時間が必要だ。

 

告知・幸せまねきヨガ

最近共著で本を出した。『ママと赤ちゃんの幸せまねきヨガ』という本だ。ヨガの指導者である西川眞知子先生と、幼児教育をしてきた飛谷ユミ子先生、そしてキャラクターデザインをしている江村信一先生とのコラボレーションだ。

この本に書かれているヨガをおこなうためには、ママは赤ちゃんのことを十分に感じる必要がある。ママがもし効率的に赤ちゃんを扱ったらどうなるだろう? 何かを生み育てるにはしっかりとしたつながりと時間が大切だと思う。

『ママと赤ちゃんの幸せまねきヨガ』共著(長崎出版刊)1,575 円(税込)

『ママと赤ちゃんの幸せまねきヨガ』というタイトルだが、パパやおじいちゃん、おばあちゃんにも一緒に参加してもらえるようになっている。赤ちゃんを囲んでゆったりと家族同士でつながる時間を持ちたい方はぜひどうぞ。