土屋孝元のお洒落奇譚。センスの良い戦国武将は、
信長か、政宗か、幸村か。

(2012.12.26)

誰も読めない!?
漢詩「葉雨 聴雨寒更尽、開門落葉多」

この前、師匠の茶室にてこんな話が話題に上りました。 今の日本人は昔に(戦国時代)比べて退化しているのではないか、ということです。

僕も最近、携帯電話やPCの利用のためか、漢字の部首がうろ覚えです、だいたいのイメージでは記憶しているのですが……。

先日の稽古の茶室の床の間に、漢詩「葉雨 聴雨寒更尽、開門落葉多」この軸が読めないということになり、話がそれて、電話番号も携帯電話のメモリー機能でなかなか覚えていられないとか。

ちなみに「葉雨 聴雨寒更尽、開門落葉多」は「ようう ちょううさむささらにつきる、もんをひらけばらくようおおし」と読みます、意味は、夜半からの雨音で寒さが更に増す。翌朝、門を開けるとあの音は雨ではなく落ち葉だったのか。と、夜半から翌朝までの時間を表現する漢詩で、茶席では今の時期、晩秋から初冬に掛ける軸です。

これまた本題からはそれるのですが、後で出る人物とも少なかれ関係があるので、今でも天台宗の千日回峰業の阿闍梨などは、修行の途中、叡山にひとたび入ると、他の気配、人や獣の気配や場所を正確に感じとるとも言います。この修行の最後には、100日間の五穀断ちの後、9日間の断食、断水、不眠、不臥の行に入り護摩炊き修行を行なうとか。この時、高僧が四方から棒で支えるとも言いますが……。

日本の歴史上誰が一番広い意味での
センスが良かったか?

人間の可能性は精神力でいかようにもなるのでしょうか。

昔の侍などは走るのも早かったと伝わります。甲冑を付けてかなりの距離を行軍したようですし。何でこんな話になったかと言いますと、日本の歴史上誰が一番広い意味でのセンスが良かったか、という話題の中で話がそれたのです。

皆様、同様に織田信長が一番ではとの意見でした、あの時代にポルトガルの甲冑を纏い、西洋の服を着て、ワインを飲み、地球儀を眺め、ルイス・フロイスらの話を聞き、世界地図で日本の正確な位置を理解していたと言われています。

鋼鉄の亀甲船を建造したり、黄金瓦の今までの城とは違う安土城の築城、楽市楽座により交易の完全な自由化、いろいろな改革を進めた人物という見方と、叡山焼き討ちや石山本願寺の総攻めなど、反対する勢力には徹底的な弾圧をする情け容赦のない人物との見方もあります。

かなり美意識は高かったと思います。堺での名物狩や、戦の報奨に茶の名物を与えたり、青井戸茶碗 銘「柴田」は信長が柴田勝家へ与えた大名物と言います。現在は根津美術館収蔵でお茶道具の公開時に見られることもあります。本能寺にて明智光秀 謀反の時にも、近習に何処の旗頭かと尋ね、桔梗文と告げられると、光秀なら逃げ道はあるまいと言い、一言「是非もなし」と言ったとか。この後、弓や鉄砲で応戦し、森蘭丸に本能寺に火をかけよ伝え、最期は幸若舞「敦盛」を舞ながら……と映画やドラマでもおなじみの場面です。自分の後継者と思っていた光秀にとの気持ちもあったのでしょう。ここから長くなりそうなので このあたりで終わりにして、本題に戻し、信長以外には伊達政宗、真田幸村、大谷刑部と話題に上りました。

信長西洋甲冑にマント姿。正確には関ヶ原で家康が西洋甲冑をつけていましたが、信長が着用していないとはいえません。
信長、そして伊達政宗、真田幸村、大谷刑部。

伊達政宗については、秀吉の朝鮮出兵のための京での馬揃えの時に、300人の黒い甲冑装束に金箔地の日の丸を付けた騎馬武者と足軽の黒ずくめ軍団だったようです。当時の京の町衆もおおいに感嘆し、そこから伊達物の言葉が生まれ、現代の「伊達男」の言葉が出来たとか。
現代に蘇ってもかなり目立つ集団だと思います。

江戸時代に入り天下泰平となっても、ローマへ使者を送り、支倉常長らのローマ法王への謁見を果たし、スペインとの軍事同盟を画策し、スペイン艦隊の加勢で幕府と一戦交え天下を狙う覚悟であったとか、その時の布陣をも考えていたと資料が残ります。

伊達政宗:有名な青葉城の騎馬像

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真田幸村は伝統的な「真田の赤揃え」と言われる真田の兵士全員が全身赤い甲冑づくしで敵味方が入り混じる合戦の中でも、目立つ様に赤揃えにしていたとも言われています。

普通、赤揃えにしたら狙われやすいと思うのですが、敵に後ろを見せず、潔さを心情とする侍らしい真田軍団ならではの戦装束でしょうか。大阪夏の陣では、最後に残った少数の真田幸村以下の軍勢にて「目指すは家康の首、ただひとつ」と徳川家康本陣への突入を図り、家康本陣総崩となり、危うく最後は一騎で家康が逃げだしたほどの勇猛さだったと伝わります。

これに加えるならば、センスを心意気、男気とでも訳すと、関ヶ原合戦での大谷刑部、男気を貫き石田三成に加勢して病をおして最後まで戦った武将です、謎が多く秀吉の落胤とも噂がありますが、定かではありません。

真田の赤揃え。この赤い鎧の軍団だったようです。

真田幸村。これもあまりも有名な鹿の角兜、顔はイメージです。

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加藤清正、福島正則らと同じ親家康派だった刑部が佐和山城にて三成の説得を受けて三成へ加担します。寝返りがあるだろう負け戦とわかっていて、三成軍を助けられる位置に布陣し、寝返る小早川秀秋らの武将達を食い止め最後に自刃して果て、家来に自分の首を隠させたと伝わります。ここからはまったくの個人的な趣味なのですが、センスがいいと言えるかどうか。

幕末の新撰組、あの羽織姿や隊旗、局中法度に表現される、侍に憧れを持つ集団の不器用なまでの身の処し方。幕府海軍(榎本武揚らの函館戦争や蝦夷独立を考え列強各国との交渉を進め)の制服姿も含めた組織としての身の処し方など。土方歳三の函館、五稜郭まで転戦して最後の突撃へ向かうフランス式軍装姿などをいいなあと思います。硫黄島で戦死したバロン西こと西中佐(ロサンゼルスオリンピックにて馬術で金メダルを取り、アメリカ名誉市民だった)の軍服(洋服)へのこだわり、帝国陸軍の制服(ブーツ)ではなく、特別にエルメスへブーツを別注していたようですね。

バロン西。ポートレイトより、愛馬ウラヌスとともに。

最後に派遣された硫黄島では、敵の捕虜にも十分な手当をしていたとか、ほかの陸海軍の将校ではありえない、隊からはぐれた兵士達を自分達の壕へ入れたり、敵見方、階級の差別なく扱ったと言います。米軍からの「西さん、出て来て下さい。私たちは貴方を助けたい。」の投降の呼びかけにも答えず、最後は部下達には投稿させてから行方不明になったとも伝わります。センスを磨くとは日々あらゆることに研鑽し、自然に気づき、学び、経験を積み、生きることかもしれません。