土屋孝元のお洒落奇譚。あの頃は17歳……。

(2010.10.05)

いつものように、銀座を散策しながら、考え事をしていて、銀座の『ギンザ・グラフィック・ギャラリー(以下gggギャラリー)』の『プッシュピン・パラダイム』展にふらっと入ったとたん。芸大を目指していた17歳の自分に戻ったような錯覚をおぼえました。

僕が芸大を目指した高校生の頃、70年代初めから『プッシュピンスタジオ』の名前は見聞きしていました。お茶の水美術学院(通称、お茶美)へ高校3年生から 通い、(その頃、美大受験の学生の大半は、東京では、すいどーばた美術学院(通称、ドバタ)、新宿美術学院(通称、シンビ)、そして、お茶美(オチャビ)へ通っていました。この3つの予備校に入ることは、芸大美大入学への近道でした。

その頃のお茶美では、午前1組は1番から50番まで、午前2組は51番から100番までと成績順で決められていたのです。毎月、デッサンと平面構成の試験があり、その成績順で入れ替わるのです。)通学というか予備校の行き帰りにお茶の水や神保町の本屋さんにて、当時あった、デザインの専門誌や画集などでシーモア・クアスト、ミルトン・グレイザー、ポール・デイビス、ジェームス・マクミランという名前や代表作は見ていたのですが、今日、突然に銀座の街角で原画も含めた作品群に出会うとは。今更ながら原画(版画も含めて)やリンカーンセンターでの演劇告知のための大きなポスター、プッシュピングラフィックの素晴らしさに驚きました。

©Takayoshi Tsuchiya

原画が残っているものは、少ないのですが、ポスターや小型グラフィック、原画だけでも十分な アート作品です。あるイラストレーションの解説に、ポール・デイビスが雑誌の挿し絵で「ボストン大虐殺」からインスピレーションを受けプッシュピンターゲットのイラストレーションを描くために、たまたま古いまな板を街で見つけたのでそのまな板に射撃用ターゲットを描き 、ダーツを使い穴を開け、それからイラストレーションを描いたというのです。絵の背景に使われた、古いまな板の存在感はキャンバスや紙に描いたのでは、表現できないものでした。茶の湯での「みたて」にも共通する美意識があると思います。

シーモア・クアストの雑誌の小さなカットイラストレーションのための木版画作品などは原画は無いのですが、最近、ミッドタウンで見たピカソ展のピカソによる、ある詩集のための装丁作品にも匹敵する完成度です。僕はピカソ作品のなかでは その詩集の装丁デザインが一番、印象に残っていますから。

『プッシュピンスタジオ』のポスターやイラストレーションは、ポスター作品の文字を手描きで描いているのには感心させられました。

自分のイメージに合う書体がない場合、自ら手描きで文字を描く。基本ですね。 日本には書の文化があり、自ら描く文字の文化を生かしていきたいと思います。
なぜ、今、見て、こんなに印象に残るのだろうか……と。

それは写真ではなく、人間の手で描かれたイラストレーションを使っているからなのでは、コンピューターが進化して 何でもCGで調整できるようになると ある程度の写真では 驚きを感じなくなりつつあり、手触り、手仕事、触感、などの表現が心に響くことがあります。
この、プッシュピンスタジオのグラフィックは、その感性を刺激するのだろうと……。

高校生の頃、『プッシュピンスタジオ』がアメリカで全盛だった頃、日本では、伊坂芳太郎さんの『エドワーズ』のショップバックやグラフィックなどが話題を呼び、そのショップバックやグラフィック欲しさに『エドワーズ』にて洋服を買っていました。

©Takayoshi Tsuchiya

今思えば、『プッシュピンスタジオ』の日本版の様なグラフィックですね。ロンドンブーツが流行り、ベルボトムのジーンズとフラワープリント、丈の長いベスト、アフガニスタン製のバックや長袖のTシャツ、ロングヘアー。

この後、芸大へ入学し ポパイ創刊とともにアメリカンカジュアルに変化した、
僕たちの学生生活でした。学校にて、スケートボードをし、テニスにアディダスのスタンスミス、ブルックスのスニーカー、ケッズのデッキシューズ、ホワイトコーデュロイのパンツ、ダッフルコート、デイパック、ダウンジャケット……「プッシュピングラフィック」が思い出させてくれました。