転生の追憶 – 7 –

(2009.04.06)

前回までのあらすじ

女装姿の龍之介。バリント声のトランスジェンダーと、ベッドで睦み合う姿に玲華は思わず卒倒。美恵はリーの仕掛けが首尾よく行った事を見届けた。「メイファン!もう一度やりなおそう、二人で」。そこに突如現れたフィアンセの義之。美恵は唖然として気を失った。仕置きの成功を祝う席でも、美恵の気は漫ろ。宮脇が異変に気付き美恵を誘い出した。ホテルへと続く坂道。美恵は自らの結婚観を振り返り、問わず語りを続けた。そして入社時から宮脇に対して抱いていた、密かな思いを打ち明けた。

「これまでの人生で、自分の意思を貫こうとしたことって、あんまりなかった。何でも親の言うままだった。今回の結婚話にしても。でもたった二回だけ、親に逆らったことがあるの。一つは、就職の時。両親は地銀に入れって、頭取と勝手に話しつけちゃって。でもわたしは、どうしても就職先は自分だけの力で探したかった。そうしないと自分の居場所が見付からない気がしたの。この後五十年も親が生きていて、『おおーい美恵、こっちだよ。こっちに歩いといで』なんて、言ってもらえるわけないんだし」
「それにしちゃあ、よく親の薦める結婚を決心したもんだ」
「だからこんな状態に陥っちゃってるのよネ。そうそう、それともう一つが今回のこの旅行。親は『結婚直前に海外旅行だなんて』と、とんでもなく怒りまくってたから、これもマリッジ・ブルーの延長戦ってことにして、飛び出してきちゃったの」「へえ、お嬢様にしちゃあなかなか奮ってるじゃない」ベランダに差し込む朝日が美恵を包み込んでいる。心から美しいと、改めて宮脇は感じた。
「もう! 茶化さないでください。これってやっぱり偶然じゃない気がするの。自分の意思で親に逆らったことが二回とも、間接的だけど課長と密接に結びついていたわけ。直接的じゃないところは、なんつーかわたしの魂の奥ゆかしさかな」

◆ ◆ ◆

二人を乗せたタクシーが、レパレスベイホテルを後にした。宮脇と美恵は、香港島中央部の、ピーク・トラムの山頂駅へと向かった。
 香港最後の日曜の朝。美恵にとって、今回の香港訪問で唯一となる自由な一時だ。宮脇も美恵も、今日の午後のフライトで日本に戻らなければならない。宮脇はお昼までの一時の過ごし方を提案した。
 まずセントラルでピークトラムを降り、香港名物の二階建てトラムに乗換え東に向かう。そしてションワンのキャットストリートで、骨董品のウィンドーーショッピングと洒落る。美恵もこのヘンテコな旅の思い出に、自分への土産を買い求めたいと、宮脇の提案は了承された。
「さっきも言ったけど、『偶然が紡ぎ合わされて必然となる』ってことは、目の前に現われた、自分の願望とは一見とても程遠い物として映る試練も、自分の魂が描いた人生と言う名の物語の結びには、欠かせないことかも知れないんだ。少なくともこの現うつつの世においては」
「じゃあ課長は、本心から抱かれたいって思った相手に、二度も振られたことや、フィアンセのおどろおどろしい男色スキャンダルも、今まで親任せでのほほーんと生きてきてしまったわたしの、みーんな、みーんなまとめて、罰ゲームとでも言うつもり? 」美恵はわざとらしく、ちょっと脹れて拗ねる振りをした。
「ぼくに怒りをぶつけて楽になるんだったら、それでもいいさ。ぼくだって男の端くれのつもりだ。だから美恵ちゃんのような美人を、この腕で組臥したいと思ったさ。しかし、二度ともぼくは据え膳に箸も付けなかった。ぼくはそこにこそ、ぼくの魂が描いた今生でのテーマが隠されている気がしてならないんだ。二度あることは三度あるとか。もし今生でもう一度、君と二人っきりになるという、偶然という名の必然が待ち受けていたとしたら、今度こそ何も躊躇うことなく、君を口説き落として見せるまでさ。例え八十に手が届きそうなほど、齢よわいを重ねていたにせよ。それがぼくの魂の仰せとあらば」宮脇は美恵の顔を覗き込んだ。
「何か態のいい、言い訳って感じだけど… 」

 タクシーは、ピーク・トラムの山頂駅に滑り込んだ。宮脇は美恵を伴い、下りのトラムに乗り込んだ。
「それに今度の結婚も、罰ゲームなんかじゃないさ。言い忘れちゃったけど、さっきリーさんから電話があった。メイファンを起用したのは、リーさんだから。昨日メイファンの素性について調べるよう頼んでおいたんだ。リーさんはさっそく『上海夜会酒家』っていう、ゲイバーに行って直接メイファンから事情を聞いてきてくれた。メイファンってのは、香港での源氏名で、本名は安形大二、二十七歳。和歌山県出身。義之君と同じ大学で、共にフットボール部に所属していた。最初の一年は、寮も同じで何処に行くのも一緒、学問とスポーツに明け暮れる普通の大学生だった。しかし二年目になると、安形は講義もろくに出なくなり、フットボール部にも全く顔を出さず、いつしか寮を出て行ってしまったそうだ。義之は親友を心配し、随分探し回ったようだ。当の安形は、フットボール部の先輩に連れて行かれた、新宿二丁目のゲイの世界で、自分の中に眠っていた『女』の性が芽生えたらしい。そのまま怪しいネオンに惹かれる蛾のように、新宿二丁目に吸い寄せられて行った。安形は身も心もすっかり女になっていったそうだ」宮脇の告げる一語一句を美恵は、固唾を呑んで聞き入っていた。

 トラムが山麓駅に到着した。セントラルのオフィス街まで、二人は寄り添うように坂を下った。いつしか宮脇の腕に、美恵の腕が絡んだ。ごくごく自然に、昔からの恋人同士のように。
 グランドレベルまで、束の間の恋人気取りで、二人は見知らぬ人々の間を歩いた。ションワン行きのトラムに乗り換え、二階席に陣取った。
「安形が何軒目かのゲイバーに勤めていた二年前、会社の上司に連れられて義之がやって来た。義之は直ぐに安形であることを見破ったらしい。それから義之は毎日店を訪れては、安形に改心を求めたという。義之は大学一年のとき、安形に誘われ一度だけ彼の実家に遊びに行ったことがあったそうだ。安形の行方が知れなくなり、安形の両親が息子の安否を気遣い上京した。義之は安形の両親を引き連れ、当ても無く心当たりを探し回ったという。丁度二年前の再会時、安形の父親は脳梗塞の後遺症で、右半身麻痺の足を引き摺っていたそうだ。一人息子の行方を何とか探して欲しいと、安形の母は再三電話で義之に懇願したそうだ。そんな中、安形と再会した義之は執拗に郷里に一度戻るよう説得した。しかし翌日には、安形の姿はもうその店から消えてしまっていた。義之はその後も新宿二丁目のゲイバーを訪ね歩いては、安形の行方を追ったそうだ。最近になって、香港で安形を見かけたという風の噂を耳にし、今回の出張を利用して、ついに安形を探し当てたんだそうだ」
「でも『日本に一緒に帰ろう! そしてもう一度やり直そう、二人で… 』って… 」美恵の心の中のわだかまりは、未だ晴れそうにない。
「それは義之君が友人として、安形をこの世界から救い出そうとして… 」
「あーあっ、もうどうでもいいっ! もう、何が何だかサッパリわかんない」美恵はしばらく地上の雑踏を見つめたまま、吐き出すようにつぶやいた。

◆ ◆ ◆

 キャットストリートの雑然とした街頭。宮脇は美恵を気遣うように進んでいった。食料品から電化製品、宝飾品や漢方食材店や食堂が、所狭しと軒を並べる。喧噪に咽返る裏通りが少し怖いのか、宮脇の腕に回した美恵の手にも力がこもった。
 一軒のアンティークショップの前で、宮脇が不意に立ち止まった。煤けたままのショーウィンドーの中には、縁のかけた青磁の湯飲みや壷、それに大ぶりの中華刀から銀細工を施した鳥篭まで、雑然と散らかっている。さらにそれらの間には、変色して伸びきったままの輪ゴムで、無造作に束ねられた旧日本軍の軍票の札束が、渦高く積み上げられている。
 宮脇の目は一点に集中したまま固まった。視線の先には、濁って鼠色に変色した、銀製と思われる二つの懐中時計があった。宮脇は美恵を引き連れ、店の中へと入っていった。
 広東語で店主となにやら会話を始めると、ショーウィンドーの中から懐中時計が取り出された。
「これは一九三七年頃、この店で特注品として作られたものだそうだ。この店は当時、イギリスの時計メーカーの代理店もやっていた。イギリスから時計職人が招かれていた時代に、作られた手作りの代物だそうだよ。今はもう錆び付いてしまい、開かなくなったそうだが、文字盤の裏側にからくり蓋があって、そこに写真が収められるような仕掛けになっている。いずれにしても特注品だから、この世にたった一組のペアの懐中時計だそうだ」
「どんな人が使ってたんだろう? 」宮脇の肩越しに美恵が覗き込む。宮脇が美恵の疑問を、店主に投げかけた。店主は店の奥から、古めかしいノートを取り出してきた。
「誰と誰のペアウォッチだったかまでは、わからないそうだ。でもこの店に再びこの時計が持ち込まれた記録は残っているそうだ。男物の方は、第二次世界大戦後間も無く香港の老婦人の手で、この店に持ち込まれたらしい。もう一方の女性用は、それから十年ほどたった一九五六年に、日本の業者の手を経てこの店に持ち込まれたそうだ」