森鷗外と森林太郎 ーー『ヰタ・セクスアリス』を中心に

(2009.09.25)

【概説】
森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」はその自伝的性質と性欲描写により発禁処分を受けた。
小説を書くことは、時に官僚の身分には不利益になることも多かったが、それでも鷗外は文学への情熱を持ち続けた。
そのような鷗外の内面の葛藤を「ヰタ・セクスアリス」から読み解いていく。

森鷗外と森林太郎
――『ヰタ・セクスアリス』を中心に

神木まなみ


 森鷗外は近代を代表する文学者の一人であるが、その著作の署名は「鷗外」で統一されていない。鷗外の名は処女作「舞姫」の発表時に使用され、その後、鷗外が一時筆を絶つまでの間、一番多く使われていたものであるが、鷗外作品全体で比較すると一番多い署名ではない。当時の鷗外の精力的な文筆活動と「舞姫」が鷗外の代名詞とも言える作品になったことを考えると、小説家(文筆家)鷗外という名が定着したことは想像するに難くない。しかし、鷗外が自らの作品の署名をまったく適当につけていたとは考えられない。そこには必ず鷗外の意図があるはずである。本論では、鷗外の著作の中で発禁処分を受けた特異な作品である「ヰタ・セクスアリス」を中心にこの問題を考えていきたい。

 「ヰタ・セクスアリス」は明治四十二年「スバル」七号に森林太郎の署名で掲載、七月二十八日に内務大臣平田東助の名で発売禁止の処分を受けた。
 この作品は自伝的な要素を含んでおり、作品中に描かれている体験は鷗外自身の体験を元にしたものであることが、長谷川泉の研究により実証されている。(1)また主人公の名の湛は鷗外の諱・高湛(たかやす、一説にはたかしず)からとられたものである。金井という苗字も鷗外の実妹小金井喜美子からとったのではという見方もあるが、こちらの方は定かではない。
 同時代評としては、「ヰタ・セクスアリス」の「スバル」掲載の翌月に出された「趣味」に大町桂月は「精錬せる名文なり。吾人は、先づこの老大家の健在を祝せざるべからず」と書く一方で、同年同月の「帝国文学」には無署名で「こんなくだらぬものを書くのは以来大いに慎んだらよからう」とある。また、翌年の明治四十三年一月に内田魯庵は「東京朝日新聞」に三回にわたり「ヰタ・セクスアリス」の評論を載せている。その三回目の終りには「日本の自然派の作家が性慾解釋を試みやうとする大膽な態度は他の學者よりも先んじて歐州の思潮に觸れたものとして稱楊するを敢て惜しまぬ。唯怨むらくは諸君の多くは如何歐州専門家間に此性慾が説明され解釋されてをるかを知るものが甚だ乏しいようである。(中略)くれぐも鷗外博士の最も大膽に最も科學的に性慾を描冩したる『井(ママ)タ、セクシュ(ママ)アリス』が今の官憲の下に禁止されたは殘念に思ふ。」と評価している。今日の研究はこのような直截な評価に向かうことを避けているようだ。(2)
 

 はじめに触れたように「ヰタ・セクスアリス」は森林太郎の署名で発表されている。鷗外は時代や作品により異なる署名がある。「鷗外」の名が初めて出たのは明治十九年、手沢本レクラム版ゲエテ全集第十一巻、ファウスト第一部第二部に、「明治十九年一月於徳停府、鷗外漁史校閲」とある。
 鷗外が初めて公に文章を発表したのは明治二十二年、「軍医学会雑誌」第二十四号別刷附録に載った「隊務日記」である。このときの署名は陸軍一等軍醫森林太郎だった。鷗外の署名を追っていくと、次に鷗外森林太郎、相沢謙吉、鷗外漁史、鷗外、という署名がある。その後、明治二十四年九月の「逍遥子の諸評語」から明治二十五年六月の「早稲田文學後没理想」(ともに「しがらみ草紙」)までは無署名で発表。明治二十六年に「観潮楼主人」、明治二十九年に「鷗外漁史が書く」、明治三十年に鷗外の署名で発表して以降は無署名もしくは本名の森林太郎の署名がされている。再び鷗外の名が見られるのは、明治三十七年三月の「日蓮聖人辻説法」(「歌舞伎」明37・3)である。以後また森林太郎の署名が続く。明治四十二年一月の「杯」(「中央公論」明42・1)で再び鷗外の名が使われるが、それから約一年後に発表された「電車の窓」(「東亜之光」明43・1)までは森林太郎の署名がされている。「ヰタ・セクスアリス」はこの「杯」から「電車の窓」の間の時期に書かれた作品である。四十三年以降は鷗外の名で多く作品を発表している。その後、大正三年三月「新世界」に発表した「曾我兄弟」より森林太郎の署名に戻り亡くなるまで鷗外の名は使われなかった。
 明治三十三年「福岡日日新聞」に掲載された評論「鷗外漁史とは誰ぞ」で、鷗外は「鷗外」という署名について次のように語っている。

福岡日日新聞の主筆猪股為治君は予が親戚の郷人である。(中略)昨年彼新聞が六千號を刊するに至ったとき、主筆が我文を請はれて、予は交誼上これに應ぜねばならぬことになつたで、乃ち我をして九州の富人たらしめばという一篇を草して贈つた。そのとき新聞社の一記者は我文に書後のやうなものを添へて、讀者に紹介せられた。その後中にこの森といふものは鷗外漁史だとことはつてあつた。予は當時これを讀んで不思議な感を作した。この鷗外漁史と云ふ稱は、予の久しく自ら署したことのないところのものである。これを聞けば、殆ど別人の名を聞くが如く、しかもその別人は同世のひとのやうではなくて、却つて隔世の人のやうである。(中略)予が若し小説家ならば、天下は小説家の多きに勝へぬであらう。かやうに一面には當時の所謂文壇が若し名聲といふものが幸福であるならば、予は實に副はざる名声を與へて見當違の幸福を強ひたと同時に、一面には予が醫學を以て相交はる人は、他は小説家だから與に醫學を談ずるには足らないと云ひ、予が官職を以て相對するひとは、他は小説家だから、重事を托するには足らないと云つて、暗々裡に我進歩を礙げ、我成功を挫いたことは幾何ということを知らない。予は實に副はざる名聲を傳して幸福とするものではない。予は一片誠實の心を以て學問に従事し、官事に鞅掌して居ながら、その好意と惡意とを問はず、人の我真面目を認めてくれないのを見るごとに、獨り自ら悲しむことを禁ずることをえなかつたのである。それ故に予は次第に名を避くるといふことを勉めるやうになつた。予が久しく鷗外漁史といふ文字を署したことがなくて、福岡日日新聞社員にこれを拈出せられて一驚を喫したのもこれが為である。
 
これを読むと、明治三十年代の鷗外は「鷗外」という名のために医学・官職で携わる人たちから軽んじられ、自ら避けるようになったことを明かし、そのために「鷗外」という名について今ではまるで他人のように感じられると言っている。それどころか別の部分では「鷗外は死んだ」とまで言っているのである。安東璋二は「森鷗外と森林太郎―「鷗外漁史とは誰ぞ」と「長谷川辰之助」―」(3)の中で「これはいわば鷗外という名の一方的な廃棄宣言である」と述べた上で「鷗外漁史という称は、もともと官の森林太郎が、精神の別世界に逍遥するために用いられたものに違いなかった」「医官文三界に身を置く森林太郎の立場を不本意に混同し、誤解せしめる象徴的な名称として実体化されてしまった」と論じている。
 鷗外にとって、鷗外漁史として評論や数編の小説を書いていた時期は官僚と文学という二元的矛盾を含みながらも実際にはその問題を自身では感じていなかった。鷗外は明治七年に第一大学区医学校に入ってから明治十四年七月九日に医学士となって業を終えるまでの間は、学校においては医学を学び、寄宿舎に帰ってからは和漢洋の古典的教養によって文学趣味を身につけていった。明治七年の鷗外は数え年で十三歳であり、幼いころから、医学と文学は鷗外にとって日常的なものであった。そしてその日常は陸軍省に入って以後も当然受け継がれており、明治二十年代の鷗外はそれらの延長線上にいたはずである。鷗外が自らを小説家として認めていないのも、鷗外にとっての文学が、小説を書くことよりも「没理想論争」に見られるような批評の方向を向いていたからであり、それはまさしく幼少からの文学的教養が礎となっているのである。そしてその教養こそが百戦百勝の戦闘的啓蒙者といわれる批評家を生み出したといっても過言ではない。しかし、世間では処女作「舞姫」のため小説家としての印象が固着してしまい、「小説家鷗外」が一人歩きしてしまった。それは鷗外の本意とするところではなく、「鷗外漁史とは誰ぞ」といような自己弁護の文まで書かざるを得なかったのである。

鷗外における医官文三界の問題を実際に「ヰタ・セクスアリス」を見て検証したい。
 「ヰタ・セクスアリス」は著者(主人公を金井君と呼ぶ語り手)が金井湛について語っている部分と、金井湛が自らの体験を手記という形で語っている部分(VITA SEXALIS)とで構成されている。著者の語りは金井の「VITA SEXALIS」を挟んでおり、それぞれを仮に序文と末文と呼ぶ。
 序文は著者(語り手)によって金井の性欲史執筆の経緯を説明している。それを読むと、金井は三つの疑問が動機となり性欲史の執筆に至ったことが分かる。
 一つめは自然主義への疑問。夏目金之助の「我(ママ)輩は猫である」に技癢を感じたとして、それに対して世間の文学の主流になっている自然主義を用いてあまり技癢を感じないとしている。加えて「何に就けても性欲的描写が伴うのを見て、そして批評家がそれを人生を写しえたものとして認めているのを見て、人生は果たしてそんなものであろうかと思うと同時に或は自分が人間一般の心理状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか、特にfrigiditas(引用者注・ラテン語で性的不感症の意)とでも名づくべき異常な性癖を持って生まれてきたのではあるまいかと思つた。」とも書かれている。
 二つめはJerusalem(4)の「哲学入門」から。「あらゆる藝術はLiebeswerbung(引用者注・ドイツ語で求愛の意)である。口説くのである。性欲を公衆に向かって発揮するのであると論じてある」のだ。それを読んだ金井は「なぜこの説を少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲であると立てないのだろうと思つ」ている。そして「一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現してきて人の生涯にどれだけ関係しているかということ」を自分の性欲史を書くことでわかるだろうと考えるのである。
 三つめは性欲的教育について。独逸から届いた郵便物の中に性欲的教育の問題を或る会で研究した報告が入っており、そこで問題にしているのが「教育の範囲内で性欲的教育をせねばならないものだろうか、せねばならないとしたところで、果たしてそれが出来るだろうか」ということである。そこで金井は今年高等学校を卒業する自分の息子に教えるとしたらどうするのがいいかを考え、自身の性欲史を書いてみて「書いたものが人に見せられるか、世に公にせられるかより先に、息子に見せられるかということを検してみよう」と思い筆をとるのである。
 しかし、ここで改めてこの語りが金井のものではないという問題に返ってみる。それぞれの問題を著者に置き換えてみると、性欲的な問題に対する一つめの疑問は小説家(文筆家)として、二つめの疑問は学者として、三つめの疑問は父親として持っていることになる。それぞれの問題を詳しく見ていく。

 自然主義への疑問、これは疑問の形をとっているが、当時文壇の中心となっていた自然主義への批判である。また反対に技癢の対象として挙げられた夏目金之助の「我(ママ)輩は猫である」は言うまでもなく夏目漱石の「吾輩は猫である」であり、漱石は鷗外と並んで非自然主義の文豪である。
 鷗外の自然主義批判はこの作品に限らない。明治四十二年五月の「東亜之光」に発表した「追儺」に次の文がある。

小説にはかういうものをかういう風に書くべきであるということを聞せられている。(中略)此頃囚はれた、放たれたという語が流行するが、一體小説はかういうものをかういう風に書くべきであるというのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以つて小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ斷案を下す。
(中略)今の自然派の小説を見れば、作者の空想はいつも女性に支配されてゐるが、あれは作者の年が若いからと思ふ。僕のやうに五十近くなると、性欲生活が生活の大部分を占めてはゐない。矯飾していふのではない。矯飾して、それがなんの用に立つものか。

 「小説にはかういうものを……聞せられている」とは自然主義を指し「囚はれた」「放たれた」の代表としては、島村抱月の「囚はれたる文芸」がある。また鷗外がこの時代に自然主義の作品として想定していたのは田山花袋の「蒲団」(明40)であると推測できる。
 鷗外は小説全般が自然主義により現実を赤裸々に描くものと解釈され、表現の解放を模索されながら、しかしそれが性欲的描写の一点に向かっていること。そしてそれが人生を描写したものだと批評家や世間が認めていることを、「自然主義」という枠に囚われていると批判したのである。
 鷗外にとってありのままに描かれる現実とはなんであったのだろうか。金井湛が鷗外自身を描いたものであるならば、手記を書く動作主の金井とその行動に外からの眼差しを向ける著者という、異なるように見える二つの眼差しが同一人物の眼差しであることになる。それは一方では陸軍軍医総監、衛生学者として、他方では小説家(文筆家)として存在している鷗外の眼差しと同じである。鷗外にとって軍医である自分も小説家(文筆家)である自分も一人の同じ存在である。その意識は漱石を本名の夏目金之助と呼んでいることからもうかがえる。漱石もまた小説家である前に英文学者であり、公費で留学し西洋の思想学問に造詣が深いという共通点がある。鷗外は夏目金之助という英文学者が小説を書き(その小説は文壇の主流である自然主義小説ではない)しかも世間に認められたからこそ技癢を感じたのである。
第二の疑問である「哲学入門」の論については、はじめは金井の専門である哲学とそれに付随する審美学の話へ、そして最終的には人生における性欲の萌芽についてと疑問が広がっていく。鷗外は哲学や審美学についても学んでいたので、ここで見られる疑問は学者としての興味が表れているといえる。学者として、疑問を持った人生における性欲の萌芽については、父として息子に性教育をするならばどうすればいいかという三つめの疑問につながっていくのである。金井の長男は「今年高等学校を卒業する」と書かれているが、実際に「ヰタ・セクスアリス」が書かれた明治四十二年七月に鷗外の長男於菟は第一高等学校を卒業している。独逸から届いた性欲的研究の研究報告によれば、性教育をするには「物心が附いてから」で「婚礼の前に絵を見せるという話は我国にもあるが、それを少し早め」て教えるのがいいらしい。金井の長男は高等学校を卒業する年齢であり、丁度この性教育をするのに適した時期である。金井自身も二十歳になった頃から縁談を進められている。当時の男性が結婚を考える時期であることがこのことからも分かる。また「ヰタ・セクスアリス」が書かれた時代に、鷗外は衛生学者として性病や性教育に関しての研究をしており、鷗外にとって性とは、自然主義小説に描かれる対象である以前に自らの研究対象であった。『衛生新篇』(下)の「生育」(5)では、生の生理と病理から避妊や売淫、性教育まで解説しており、鷗外の研究者としての関心の高さがうかがえる。『衛生新篇』はその原型とも言うべき『衛生新論』を書き改めたもので、明治二十二年に書き始められ、明治三十年に第一版が刊行された。この時代に鷗外は他にも衛生学書の類を多く書いている。
 鷗外が捉えていた性とは、こうした医学的知識を背景としたものであった。しかし医学書の中に統計を元にした分析はあっても、性欲と人の生涯との関係を示したものはない。人の生活がどのように性欲の発現に関係しているかを鷗外自身もあまり考えたことがなかったのだろう。「實はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽してどう發展したか、つくづく考へてみたことがない。一つ書いて考えて見ようか知らん」という本文からも推測できる。これまでの研究のように、発現した性を医学的に説明するのではなく、性の発現の過程を取り扱おうとした結果が、ある人間の性欲史という形だったのだ。また金井は性欲史を書くことで「自分で自分がわかる」と言っており、性欲史から自己を模索しようとしているのだ。これらの点からも自然主義の性欲小説とはその書かれた動機が全く別物であることが分かる。
 
以上の序文の問題意識について末文ではどのような結論を付けているのだろうか。
 金井の手記は二十一歳の八月二十四日に横浜から独逸留学に旅立つところで止まっている。末文はそれを引き継ぎ、はじめに独逸留学中のエピソードを少し語り「金井君も随分悪い事の限りをしたのである」とまとめている。金井の手記が性欲史であるならば、その「悪い事」について詳しい記述がみられるべきであるが、金井がそれを書かない理由について次のように書いている。

しかし金井君は一度も自分から攻勢を取らねばならない程強く性欲に動かされたことはない。いつも陣地を守つてだけはいて、稺いNeugierdeと余計な負けじ魂との為に、おりおり不必要な衝突をしたにすぎない。(中略)
さて、一旦筆を置いて考えて見ると、かの不必要な衝突の偶然に繰り返されるのを書くのが、無意義ではあるまいかと疑うようになった。金井君の書いたものは、普通の意味でいう自伝ではない。それなら是非小説にしようと思ったかというと、そうでも無い。そんな事はどうでも好いとしても、金井君だとて、芸術的価値のないものに筆を着けたくはない。

金井の芸術的要求の高さは序文で触れられており、「そこら中にある小説はこの要求を充たすに足り」ず、また「小説か脚本かを書いて見たいと思う」がその「要求が高い為に、容易に取り附けない」のである。結局作者は金井に自分の書いてきたものを自己否定させることで、自然主義の性欲的描写に対する批判意識を深めたのだ。また自己認識としては、「自分は少年の時から、余に自分を知り抜いていたので、その悟性が情熱を萌芽のうちに枯らしてしまつたのである」と述べ、自らの冷澹さを理由づけている。また続けて自分が性的無能力者ではないことから、その性欲を「馴らし抑えている」のだと結論付けた。つまり、性欲に冷澹であることは悟性があるからだということになる。結局は、森林太郎の衛生学者という側面が、性欲への冷澹さの源だったということである。
自己分析を終えた作者はここで、息子への性教育の問題に返る。息子に見せられるかどうかを金井の手記執筆の最終的な出発点と位置付けていたが、それに対して「読ませられなくはない」と言いながらも結局は、これを読んだ我子の心への効果が計り知れない、父のようになっては困るということを理由に見せたくないと言うのである。「ヰタ・セクスアリス」には性教育についてという表の問題と、自身の自己発見、加えて子の親からの精神的な自立という裏の問題を抱えていることがわかる。この親からの精神的な自立とは言いかえれば子供に自身の自己発見を促すものであり、「彼に服従するな、彼に服従するな」というDehmelの詩(6)を引用することでその意思を表示している。

 これらの問題は鷗外の医官文という別々の立場がそれぞれ抱えていた問題ではなく、三つの世界に身を置いていたからこそ生まれてきた問題である。つまり小説家(文筆家)として切り取られた「鷗外」という側面だけでも書くことはできないし、「軍医林太郎」という側面だけでも書くことはできない問題なのである。それらの側面を「父」というワードで一つに結びつけた一人の森林太郎という人こそこの作品の著者になり得たのである。そしてそれは本作「ヰタ・セクスアリス」に限らず、広く鷗外作品に言えることである。またこの作品が発売禁止の処分を受けたのも、医官の世界で本来は性の管理を行っている立場にある人間が書いた小説である、ということが自然主義小説とは区別されたためである。発売禁止という処分がある意味では自然主義小説と違う小説であることのお墨付き的な役割をしているのではないだろうか。


 次に「書く主人公」と「書かれる主人公」という問題を考えてみたい。「書く」「書かれる」という問題は処女作「舞姫」にも見ることができる。「舞姫」は明治二十三年一月の「國民之友」に鷗外森林太郎の署名で発表されている。主人公太田豊太郎の手記という形をとっているが、その後「舞姫」の批評に対して発表された「舞姫に就きて氣取半之丞に與ふる書」(「しがらみ草紙」明23・4ではその署名が相沢謙吉(作中の太田の友人)になっている。この評論の中で「鷗外漁史というものありて、此記(太田豊太郎の手記)に題するに舞姫の二字を以てし、これを國民之友の紙上に公にしたりといふ」とあり、「舞姫」においては手記を書いた太田豊太郎がいて、さらにその手記に「舞姫」の題を付けて発表した鷗外漁史、「舞姫」を論じる相沢謙吉という三者の視点が存在する。
相沢謙吉の役目は氣取半之丞(石橋忍月)の「『舞姫』評」(「国民之友」明23・2)に答えて、(一)主題と題名とは必ずしも一致しないこと、(二)エリスのような平俗な女優がいても不思議ではないこと、(三)不必要といわれる六十余行の文草といえども太田生の履歴を知らせるために不可欠であること、(四)太田生の心の矛盾はけっして不自然ではないこと、(五)薄志弱行の性質の人を主人公としてもなんの不思議もないこと、(六)太田生の成り行きはけっして支離滅裂でないこと、さらには「ユングフロイリヒカイト」(処女性)を重んじたことなどをあげて反論することであった。この相沢謙吉の役目は、鷗外が自らの作品に対して冷静な眼差しを加えることであるといえる。実際に自らの作品に対して、徹底して冷静な眼差しを向けられているかどうかは別として、そうした態度をとっていることが重要である。この眼差しは鷗外の特徴である「自明視され隠蔽されてきた制度への亀裂を容赦なく暴き立てていく、その冷徹な眼差し」(7)であるといえ、「ヰタ・セクスアリス」においても「人の皆行うことで人の皆言わないこと」を書くという行為にその態度が見られる。
 「ヰタ・セクスアリス」における「書く」「書かれる」という問題では、金井湛と森林太郎は太田豊太郎と鷗外森林太郎と同じように異なる人物として捉えなければいけない。はじめにも述べたが、発表者が森林太郎であるならば、作品中で金井湛を「金井君」と呼んでいるのはこの森林太郎に他ならない。金井湛は作品中で自らの手記には言及していない。この手記を使って「性欲」や「世間」、そして手記の書き手をも論じているのは森林太郎ということになる。そしてここで言う森林太郎とは先ほども述べたように「鷗外」「軍医林太郎」の両方の側面を併せ持つ実生活者森林太郎ということになる。
 しかし金井湛は、作者自身をモデルにしているのは事実であり、金井湛=森林太郎ということもできる。そうだとするならば、金井湛の役割とは何なのか。金井湛は森林太郎の過去であり、作者森林太郎はその過去を「金井君」と呼ぶことで、あたかも別人のように捉え、自らを自らの冷徹な眼差しにかけているのではないだろうか。そうして現在の自分が生きる世界を批評しているのではないだろうか。金井の手記は「現在」と平行に書かれてきたものではない。現在にいる執筆者が意図的に過去から切り取ってきたものである。そして丁寧にも金井のモデルが鷗外である証拠をあちこちに点在させている。完全に作者と作品の内容を区切らない私小説的な語りにすることで、過去の切り取りを実行しているのである。また「ヰタ・セクスアリス」に限って言えば、過去の自分を使って現在の文壇を批評することで、自然主義が鷗外や西欧の文壇にとっては、もはや時代遅れの流行であるという批判を暗に含んでいたのかもしれない。
 鷗外における「書く」「書かれる」という問題はこのような自己に向けられた冷徹な眼差しを意味するのである。


 「ヰタ・セクスアリス」は「金井湛」という過去の象徴を作り出し現代批評を行いつつ、自身の抱える分裂問題を表出した作品である。しかし、ここに見られる鷗外の分裂は世間から押し付けられた問題であり、鷗外の内面から発生した問題ではない。むしろ外側から発生した外的分裂問題と言える。実際に、自然主義主流の文壇批判をし文学の可能性を広げようと試みる態度は、明治二十年代に「日本医学会論」などで当時の内向的な医学界への批判でみせた態度を文学界に引き継いだものである。また明治三十年一月に「公衆医事」を機関誌として発刊した際に「この編輯の事業の為には、人の色々の批評を受け、又或人からはあれは新聞屋だと貶しむるやうな口吻で云はれる事は屢ですが、是等の事業は学者の品位を落とすやうなものでないことは自ら信じて居ります。又官途に就いて居る者が新聞を書くと云つて、不思議な事でもして居るやうに云う人もありますが、政治論を書くでもなし、学問上の事を書くにはどんな官に就いて居ても少しも不都合のあるべき筈がありません」と言っている。この言葉は「ヰタ・セクスアリス」発表年に鷗外が文学博士の学位を授かったことを考えると、そのまま明治四十年以降の鷗外の文筆活動に置き換えることができる。また「豊熟の時代」の鷗外の自己にまでおよぶ冷徹な眼差しは、林太郎の医学者として培った観察眼でもあり、後期の「傍観者」という文学的態度の根幹をなすものでもある。このように鷗外にとっては軍医、衛生学者という立場が自身の文学活動に広がりを持たせたことになり、文筆活動は決して「精神の別世界」として切り取られるものではなかった。しかし世間は「鷗外漁史とは誰ぞ」で試みた「鷗外」の廃棄宣言を聞き流し、「小説家鷗外」「軍医林太郎」として扱ったのである。鷗外は遺書につぎのような言葉を遺している。

死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官権威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍省皆縁故アレトモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス 

 鷗外は大正五年に予備役となって在職十年に及んだ医務局長の椅子を退いた。大正六年十二月には帝国博物館館長兼図書頭に任命されて宮内省に入った。大正八年九月には帝国美術院院長に任命されている。その他にも多くの役職を兼ねていた。
鷗外はその生涯を閉じるまで医官文の三界に身を置いていた。そして世間にいくら森林太郎という存在を主張しても、かなわないことであることも感じていたのである。しかし、鷗外がこれ以後の活動を歴史小説や史伝に移行していき、資料研究にその精神を集中させていったことを考えると、もはや世間の反応への関心を失っていったということもできる。「ヰタ・セクスアリス」はそうした精神的な移行の出発点を示していると言え、森林太郎と署名することで、鷗外自身もその態度を示しているのである。

注1『鷗外「ヰタ・セクスアリス」考』(明治書院 昭43)
  『続鷗外「ヰタ・セクスアリス」考』(明治書院 昭46)
 2昭和十一年に岩波書店から第一次鷗外全集が刊行されたが、その著作編第二巻で佐藤春夫は当局は「性欲小説たるを知って、哲学小説たるを知らず」と評した。長谷川泉は資料を駆使し、その伝記研究によって今日の研究の基礎を築いた。
  岡崎義恵は『鷗外と諦念』(宝文館出版、昭40)で「金井の性欲の描写ではなく、自己の性欲を諦視する金井といふ人の心境の表現になってゐる」と捉えた。重松泰雄「金井湛――『ヰタ・セクスアリス』」(「解釈と鑑賞」昭59・1)は「作者自身における、『恋愛』不在のいわれを問う物語だ」と指摘している。千葉一幹は「森鷗外「ヰタ・セクスアリス」からはじまる系譜」(「国文学」平11・10)で田山花袋の『蒲団』と比較し以後のセクシュアリティの系譜を考える上で、「発禁処分を受けたという点」と「性について語ることがそのまま自分とはなにかを語ることになるという形式を日本において確立する端緒を開いたという点」において優位性を持つと論じた。
酒井敏は『森鷗外「スバル」の時代』(双文社出版 平9)に所収の「『ヰタ・セクスアリス』をめぐって――その周辺、および、眼差しと〈制度〉・〈差別〉の問題」では金井を「周囲の眼差しを意識する臆病で小心な湛」とよび、書く営みを通して〈制度〉だけでなく〈差別〉という主題を顕在化させていると論じた。
 3「語学文学」(昭52・9)
 4オーストリアの哲学者。人間の精神活動を発生的、生物学的、社会学的見地から研究した。主著に『哲学入門』。鷗外は「心頭語」(『二六新報』明33・2・1から明治34・2・18)の一部で同書の内容を要約し紹介している。
5『鷗外全集』22巻参照
6デーメルの詩集『しかし愛は』(1893)所収の詩「わが息子に寄せる歌」にある句。「彼」は父を指し、息子の父からの自立を説いている。
 7一柳廣孝は「森鷗外、権力のなかの抵抗 『魔睡』『ヰタ・セクスアリス』を中心に」(「国文学」平14・7)で「スバル」創刊以降のいわゆる「豊熟の時代」の鷗外の特徴を「自明視され隠蔽されてきた制度の亀裂を容赦なく暴き立てていく、その冷徹な眼差しに象徴され」ると言っている。

 「ヰタ・セクスアリス」を含む鷗外の作品の引用は筑摩書房版『森鷗外全集』による。

タイトルの表記について。
岩波文庫は、1960年に新しい表記の改訂版を出版した。その際、タイトル表記も読者には難字であるという編集部の判断で「ヰタ・セクスアリス」から「ウィタ・セクスアリス」に改められた。

筆者プロフィール

神木まなみ(かみき・まなみ)

1983年秋田生まれ。
中学校の教科書に載っていた「高瀬舟」に感銘を受け、
現在大学院で鷗外研究をするに至っている。
小説はもとより映画やアニメなども好き。トニーレオンの大ファンで、最近では「レッドクリフ」が話題となっているが、お気に入りは「恋する惑星」「ブエノスアイレス」などのウォン・カーウァイ監督作品。
学生時代に柔道をやっていたことは、143センチの身長と合わせて、他人の意表をつくのに役立っている。