転生の追憶 – 5 –

(2009.03.14)

前回までのあらすじ

濃厚な初夜を過した、御曹司龍之介のスゥイートルームで電話が鳴った。手はず通り宮脇の手配した仕掛け人リーが、龍之介とその妻に罠をかける。会社の将来のため、香港政庁高官とパイプを作っておくいい機会だとの誘い文句に、龍之介の警戒心は解かれていった。食事を終え龍之介が部屋に戻るとチャイムが。リーのセクレタリーという、妖艶なメイが押し入ってきた。メイのあまりの美しさに、龍之介は抗うことも出来ずもはや虜に。

リー社長からの電話だ。
「奥様のエステはまだ当分時間かかるよ。それまでよかったら私のセクレタリーのメイを、可愛がってやって下さい」龍之介はリーの大きな電話の声が、メイに漏れ聞こえないよう、受話器を耳に強く押し当てた。その隙にメイは、サワーグラスにビールを注いだ。グラスの底へ沈み行く白い粉が、琥珀色の液体に溶けて消えた。
龍之介はリーの申し出に、幾分上気している様子で、メイの隣のソファーに深々と腰掛けた。メイの大きく割れたスカートの太ももに視線が釘付けになったまま、龍之介はビールを一息に飲み干した。

◆ ◆ ◆

玲華はすっかり、身も心もリラクゼーションした様子だ。エステティックサロンのラウンジで、ハーブティーの入ったティーカップをゆったりと傾ける。ホテルのスタッフになりすました美恵が、すっかりくつろいでいる玲華の傍らに跪き、耳元で一言囁いた。
「先程お部屋に内線電話を入れましたが、まったく応答されません。フロントによれば、ご主人様は一時間ほど前にお戻りになられたようで、お部屋にいらっしゃるのではと申すのですが… 」
玲華の表情が、不安そうに翳った。

◆ ◆ ◆

 スゥイート・ルームの鍵は、オートロックされている。
「奥様、これをお使いください」美恵が合鍵を手渡した。
「龍之介さん! 」そう大声で夫の名を呼ぶと、玲華は部屋の中へと駆け込んだ。
 一瞬何がどうなったのか、玲華は訳がわからないまま、リビングの入口に立ち尽くした。
「うるさいわねぇ、今いいところなのよ。見ればそれくらいわかるでしょうが! 」バリトンの太く低い声が、ソファーから響いた。ソファーでは、女同士があられもない下着姿のまま絡み合っている。ソファーで四つん這いになっている女は、既に恍惚として陶酔し切っているようだ。
( なぜ、なぜ私たちの部屋で、こんなことが・・・)
眼の前で繰り広げられる光景は、玲華の理解を遥かに超えていた。四つん這いの女の尻に被さるような格好で、ロングヘアーの女が言い放った。
「見世物じゃないんだよ! あんた一体誰なのよ。なによいきなり勝手に人の部屋に入ってきといて」
玲華は『レズビアンの人達の部屋に、間違って入ってしまったんだわ』と、そう思い込むことで、何とか自分を踏みとどまらせようと必死だった。陶酔し切っている四つん這いの女が、僅かに喘ぎ声を上げ顔を反らせる。横顔に見覚えがあった。新婚初夜の甘いひととき。情事の後そのまま目を閉じ、玲華の胸に顔を埋めていた龍之介の顔と重なった。茶髪のウィッグと、濃い目の化粧だけが昨夜の夫と違っているだけだ。
「りゅう… 、龍之介さん」玲華はそのまま気を失った。
時折りサイドボートの影から、デジカメのシャッター音だけが断続的に聞こえていた。

 スゥィート・ルームの入口に立って成り行きを窺っていた美恵は、廊下を駆けてくる足音に気付いた。ドアはロック出来ないように、シリンダー錠を挟んだ状態で、薄っすらと開かれている。
「もう最低! すっかり萎えちゃったわ! 」
四つん這いの龍之介に覆いかぶさったまま、バリトン女が振り向き、くずおれたままの玲華に吐き捨てた。美恵の網膜にくっきりと、色香を放つ妖艶な女の顔が焼きついた。
「メイファン! 」ドアの開かれる音と同時に声がし、一人の男が飛び込んで来た。擦れ違い様に男の前髪が、後部に流れた。
一瞬、額の際に楕円形の痣が見えた。美恵は呆気にとられたまま金縛り状態に陥った。
「メイファン、何をしてる! 」
『ヨッ、ヨッチャン・・・』美恵は飛び込んで来た男の、後姿を見つめた。美恵の脳裏の回路が、爆発寸前に軋み出した。
「日本に一緒に帰ろう! そしてもう一度やりなおそう、二人で… 」男がメイファンをソファーから引き摺り下ろしながら叫んだ。美恵の意識は、そのまま遠のいてしまった。

◆ ◆ ◆

 チムサッチャイの雑踏から車で十五分ほど。入り江の小さな漁港は、レイユームーンと呼ばれ、海鮮レストランと鮮魚店が居並び、香港人の食通で賑わっていた。宮脇とリーを先頭に、美恵と志津絵が後に続き、鮮魚店とレストランの家並を奥へと進んだ。リーは鮮魚店で大シャコや活海老、トコブシやロブスターを指差し、手早く調理方法をレストランのウエイターに告げた。

 レストランのテーブルに着くや否や、志津絵は顔色の悪い美恵を気遣う様子もなく、敵将の首を上げたかのような興奮振りで、宮脇とリーを労った。「まずは乾杯っ!ご協力に心より感謝しま〜す」
一方の美恵は、志津絵の話も上の空といった様子で項垂れてばかり。折角の海鮮料理に、箸を付ける気力さえ失っている。宮脇も志津絵の興奮振りに相槌こそは打つものの、何度も心配そうに美恵へと視線を投げかけた。

レイユームーンでの食事を終えると、リーは宮脇と美恵に気遣い、浮かれ調子のままの志津絵を伴って、チムサッチャイのスコティッシュバーで呑み直そうと連れ出していった。別れ際、宮脇に意味深なウィンクを一つ送りながら。

◆ ◆ ◆

 香港島の南側に広がる海岸線。その中央にあるスタンレー・マーケット。ジャンクショップの一角は、観光客達の喧噪に包まれ、人息で気温まで吊り上げているようだ。宮脇は憔悴しきっている美恵を伴い、映画『慕情』の舞台となったスタンレー・ビーチを漫ろ歩いた。
「あのメイファンって名のトランスジェンダーと、付き合ってたんだ… 」美恵は自分の中で、一つ一つ区切りを付けるようにつぶやいた。
「『日本に一緒に帰ろう! そしてもう一度やりなおそう、二人で… 』って… 。じゃあやっぱり脅迫状や無言電話も、あのメイファンって男女の仕業? … 」
「なんだい、穏やかじゃないなあ」
「結婚が決って、課長に退職届を出した日の夜、家に帰ったら切手もない封書が届いてたの。『結婚は破談にしろ。お前が不幸になる』とだけ、ワープロで書かれてた。もちろん差出人名もない、名無しの権兵衛さんから。最初は誰かの悪戯だろうって思うようにしたわ。でもそれから自宅に無言電話が掛かるようになって… 。お母さんが気味悪がってNTTに相談して、悪戯電話撃退サービスとかいうのを始めて、どうにか収まったようなの。やれやれって思ってたら、今度は私の携帯に。しかも会社のビルを出た途端、直ぐに電話が鳴るわけ。ワンギリじゃないから、着信ボタン押すまで何回も何回も呼び出すし。非通知にしたりとか色々対策もしたけど、敵もさる者でプリペイドの携帯からかけて来たり、公衆電話からだったりと。それでここ半年で三回も携帯の番号変えたんだから」
「だからか! 俺が美恵ちゃんに電話しようとメモリー呼び出すと、三つも番号が出て来るから、どれが今使ってる番号だったかさっぱりわかんなくって」
「それは課長が、前の番号を消去してないからでしょう。ちゃんと私、課内の人だけには、その都度番号が代わるたびにお知らせしてあるんだから、その時にデータを入れ替えてくれなきゃあ。課長みたいに前の番号に掛けてくる人もいるから、だから用心に二台も持ち歩くはめに」
「待てよ… ってことは、うちの課の誰かかもしれない可能性だってあるわけか」
「ええっ、うちの課の… 」
「いや、冗談だよ。そんな結婚間近の女性を、脅かすような悪趣味な人間、うちにはいないだろう」
「そうよね。… ただあの一十さんだったら、もしかして… 」
「何だよ。そのイチジュウって」
「ああ、一十って二之前(にのまえ)さんのこと。二の前だから一。ヤッツ、ココノツ、トウの十(とう)にはツがつかない。だからツナシ。漢数字の一十って書いても、二之前綱士つなし。本当に四国の方の苗字にあるんだって」
「へぇー。でもお前、それは良くないよ。いくらあいつが変わってるからって」
「そんなことがあってから、ちょっとノイローゼぎみになっちゃってたのかも知れないけど、いつもずっと誰かに付けられたり見られてる気がするの。そうそう、ここに来てからも時々… 」美恵はそう言ったと同時に、キッと鋭い視線で後ろを振り返った。