ぶろぐちようじの書棚 - 2 - 死ぬまで生きる、『自死という生き方』

(2010.07.16)

グラントリノ

クリント・イーストウッドはアメリカの象徴とも言える俳優、そして監督だ。イーストウッドの作る映画はずっとアメリカ的な作品が多かった。彼の名前が「Old West Action」のアナグラムであることを思えば、それは当然のことだろう。ところが1990年代から文芸的な作品を撮るようになり、『硫黄島からの手紙』で日本的な感覚を表現できる監督となった。なぜそう言い切れるかというと、アメリカ人の他の監督による日本を舞台とした映画がどのようなものかを見ればわかる。アメリカ人が日本人に対して持っている感覚のズレは近年修正されてきたとはいえ、まだまだある。ところが、日本人が見てもあまり違和感を覚えないで済む映画をクリント・イーストウッドは撮った。彼はそれだけ日本がどのような場所かを研究したに違いない。

クリント・イーストウッドはB級映画の端役からキャリアを重ね、テレビ西部劇『ローハイド』でブレークする。その際にした契約がもとで、『ローハイド』出演中はアメリカ映画に出演できなかった。そこでイタリアで制作されるマカロニウエスタンに出演する。それが『荒野の用心棒』だった。当時は公言していなかったが、それは黒澤明の作品『用心棒』のリメークだった。それから何年もして『夢』の上映のためにカンヌ国際映画祭に出席した黒沢明に、イーストウッドは近づき「あなたがいなかったら今の私はなかった」と感謝したという。

そのイーストウッドが『グラントリノ』という作品で監督と主演をした。俳優として参加する映画はこれが最後になるだろうという発言で噂になったが、この映画を観て僕は、イーストウッドが「ハラキリ」を理解したなと思った。もちろん自己犠牲的な考えはアメリカ人にもあるだろう。しかし、自分の命を差し出すということまでは考えないのではないか。かつては「ハラキリ」も「特攻隊」も、アメリカ人には理解されなかった。『硫黄島からの手紙』を監督するにあたり、日本人がなぜ万歳突撃や自決をしようとしたのか、詳細に調べたのではないだろうか。世界中に自殺は存在するが、誰かのために命を差し出すことはあまりない。切腹や特攻隊が存在した日本は、特異な文化圏といえる。

 

須原一秀の『自死という生き方』

『グラントリノ』を観て『自死という生き方』という本を思い出した。この本の著者須原一秀は能動的死というものを考察し、その内容をこの本を書き、その考察に従い自死する。

『自死という生き方』の冒頭に「はしがき」として以下の文章が書かれている。少し長いが、そのまま引用する。

はっきりと言えることは、「私は厭世論者でも虚無主義者でもない」ということである。また「ものごとから常に逃避する傾向の人間である」ということでもないし、さらには「肉体的・精神的に、どこか不健康である」ということでもない。
 むしろ私は、体も心も普通ないし普通以上に健康であり、この本を執筆している今現在も、人生を普通ないし普通以上に肯定し謳歌している人間である。(謳歌はちょっと言いすぎの感もある。)

もちろん私も人並みに、「人生ははかない」などと主張する厭世的な文や詩に出くわして感銘を受けたり、「現代人の孤独」に関する種々の言説に納得した気になったり、ということはある。

しかし思い返してみれば、人生のどの段階にあっても、私自身が自前で本気で「はかなさ」や「孤独」を感じたことはない気がする。それは私が鈍感なのか、かなりイージーな人生をおくってきたせいか、それはわからないが、いずれにしても、今この本を執筆している現在においても、「はかなさ」も「孤独」も体感としてはまったく感じていないことは確かである。

つまり、私は「孤独」とか「はかない」という言葉は使えない種類の人間であるし、本書においても一切使う気はない。そこで、なぜそのような人間がなぜ自死を決行するに至ったかを、以下において明らかにして行きたい。

そして、それが一般市民の普通の生活と問題なく両立し、また世界的に広く共有されている「自死」に対する嫌悪感を和らげ、むしろ一定の敬意の対象になる可能性を探るための哲学的事業がここに展開されていると考えていただきたい。

ただしその際、本書のどの部分にあっても、日常的な言葉に私自身の実感と日常的な意味を込めて使いたい。そのことに厳密な意味でこだわりたいと思っているし、全体としては、本書にはまったく「深い意味」も「裏に隠されている意味」も無いことをあらかじめ断っておきたい。

そのことをキャッチコピー風に言えば、「本書の主張内容は、日常的常識と日常的感覚を持っている人々に、日常的立場から日常的言葉で訴える凡庸なメッセージである」というところである。

そしてまた本書は、私の以前の三冊の著書の続編であり、その三冊の結論を前提にして、さらにその上に展開するための哲学的事業の顚末報告として企画されたものである。

つまり、今回の哲学的事業の狙いの一つは、二〇〇〇年に公刊した拙著『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』(新評論)において取り上げた「寿命予定表」に関連している。そこで述べた内容(自分の寿命の予定を自ら設定して行く生き方の推奨)が、単に観念的に(頭だけで考えて)思いつかれたものではなく、私の生活実感に即して述べられたものであること、したがって読者に「いい加減な見当付け」を提示したわけではないことを客観的に立証するためである。そしてまた、私が「死」に対しても弱腰ではないことを立証し、『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』の主張を全体としてバックアップするためでもある。

もう一つは、二〇〇五年に公刊した『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』(新評論)における「哲学は学問的には成立しない」という主張に関連している。つまり、哲学が学問的に成立しないならば、「哲学者に残された仕事は何か?」ということなのだが、それを私は次のように考えた。

この科学主義と資本主義の時代にあっては、人生の一大事である「死の問題」に関して、ほとんどの現代人は無条件に宗教や伝統に頼る形はとれなくなっているという現実がある。

しかも「死の問題」は、古代ギリシアにおいてソクラテスが「死刑による死」を晴朗・快活に受け入れてみせるという模範を示して以来、昔から哲学者の領分とされてきた。

と言うことは、この科学主義と資本主義の時代において、宗教にも伝統文化に頼らずに「死」を晴朗に健全に受け入れるための「心と体の体制」はどのようにして整えることができるかーそのような心身体制を整えるための実感・体感と直結した知見をどのように蓄積して行くかーに関して、医学、心理学、社会学などと共に、何ほどか社会に貢献する仕事が哲学者にも残されているはずだ。

というわけである。

言い換えれば、「平常心で死を受け入れるということは本当に可能か?ーそれはどのようにして可能か?」ということを哲学研究者の一人として自分自身の心身を賭けて調査・研究し、後進に追試・研究の道を開く仕事が哲学研究者には残されていると考えたのである。

確かに、そのような調査・研究が生身の体を持ち、実際に種々の問題の中で社会生活をおくっている者に可能かどうか疑わしい。しかし、後進の研究者が何人もいろいろな形で追試を繰り返せば、そのうち若干の客観的成果に到達する可能性はあると考えたのである。

そのための私なりに努力をした結果が本書である。したがって本書は、何ほどか社会への貢献を期待して企画された哲学的事業の顚末記録であると考えていただきたい。

その事業の成果を要約すれば、次のようになる。すなわち、キューブラー・ロスが死の受容に関して「否認・怒り・取引・抑うつ・受容」の五段階説を主張したが、それはガンなどの告知を受けて、その後に経過する受動的な精神の展開過程であり、「死の受動的・消極的受容」に関する説である。

それに対して、本書では「死の能動的・積極的受容」に関する五段階説を唱える。と言うのも、日本では昔から武土たちが「切腹」という形の「死の能動的・積極的受容」を実践してきているので、そのことを新たな視点から見直して、しかもそれを、客観的・第三者的視点からだけでなく、一人称の視点からも調査・研究して、現代の一般市民のための「能動的かつ積極的な死の受容の理論」を構築したわけである。

その結果が本書であり、それに付随する私の行動である。少しでも有意義な哲学的事業であれば、と今は祈っている。

『自死という生き方』 須原一秀著 双葉社刊 より引用

この本に書かれた内容は、須原が哲学者たちに向けて研究材料の一つとして自分の生命を差し出した結果ということになる。ここにも日本人特有の特異な心性がうかがえると言えるだろう。

日本人は誰かのために死ぬことに価値を見出す民族だ。そして、それは他民族にはあまりないモノの考え方らしい。『自死という生き方』にも引用されているモーリス・パンゲ著『自死の日本史』には、日本の切腹と対比するため古代ローマの政治家であるカトーの例があげられている。カトーは元老による共和制を守るためにカエサルと戦い敗北して切腹する。カトーの切腹(自らの手で腹を切る)を近親者はみんな止めようとした。だからこそその行為はむごたらしい様相を強めたという。一方で日本の切腹はなすべき決意を教え、すべき所作、表明すべき感情の規範がすでにあり、それに則っておこなわれる。西洋人にとって自死は狂気の沙汰としか考えられないが、日本の切腹は死ぬことに大きな意味と価値が与えられる。欧米ではあまり例のない自死への意味づけが『グラントリノ』では、クリント・イーストウッドが演じる主人公コワルスキーの死に与えられていた。ただし、欧米の人たちにも共感してもらえる仕組みがあった。それは主人公コワルスキーの不治の病の暗示であり、最後のトリガーを弾くのは自分ではなく他人だということだ。しかし、そこには明らかなコワルスキーの意図があった。その意図をどう解釈するかであの映画の価値は様々なものになった。

同様に『自死という生き方』の須原も、様々な批判と賞賛がなされる。そして、この批判も賞賛も、どちらか一方が正しい考えであるとはなかなか断定できない。それは日本人が厳格な宗教を持たないからだと言えるだろう。言い方を変えれば、宗教に束縛されない自由なモノの考え方ができるからとも言える。死について、これから僕たちはどのように考えるべきなのだろう?

Model / AG(アグ)芸術系大学在学中。バンドライブや演劇など、多岐にわたり活動し、可能性を探っている。

 

死ぬ自由

『JogNote』というサイトにエッセイ『楽しく走ってステップアップ講座』を連載している鍋倉賢治准教授は、そのエッセイに「PPK」という言葉について書いている。それは「ピンピン生きて、コロリといこう!」という意味だそうだ。ウォーキング学会に参加していた元気なお年寄りの皆さんがスローガンとして唱えていたとか。

日本の平均年齢がどんどん上がり、若い人に対して高齢者の比率がどんどん高くなっている。そんな状況で、人は死ぬ自由というものを考えなければならないのかもしれない。本人が「充分生きた、もうするべきことは何もない」と考えられるほどに多くの達成を体験し、苦しんで死ぬよりは、まわりの人に迷惑をかけるよりは、このまま死んだほうが幸せだと考えるなら、死ぬ自由があってもいいのかもしれない。かつて僕はそんなこと、あまり考えなかった。ところが『自死という生き方』を読んで、少し考えに迷いが出てきた。いまだ僕自身は自死したいとは思わないが、そう考える人のことが理解できる気がする。

もし自死する自由が与えられたとしたら、残された人の悲しみをどうするかを考えるべきなのだろう。

 

バリ島のお葬式

20年ほど前からバリ島のお葬式を見てみたいと思っていた。それはとても豪勢なお祭りで、人びとはみんな楽しそうに振る舞うと聞いていた。誰かが死んで楽しそうにお祭りをするという感覚が信じられなかった。一方で、その感覚を体験してみたいと思ったのだ。

1999年から縁あって、毎年のようにバリ島ウブドのプリカレラン王家のラーマさんのところに、ニュピというお祭りの日にホームステイさせてもらった。そのお祭りに通うことで次第とバリ島の価値観が理解できるようになってきた。

2008年4月、ラーマさんのお父様であるライさんが亡くなり、その葬儀に参列させていただくことになった。そのとき驚いたのは、葬儀の日程が五日間もあったことと、ホテルから葬儀会場に行こうとするとホテルマンたちから「楽しんでおいで」と言われたことだった。

よく映像などで流されるバリのお葬式は、お葬式の四日目の儀式だった。東京から出発するのに、その儀式の日だけを聞いていたので、その三日前にバリ島に入り、葬式のための衣装を新調し参列するつもりでいたが、バリに着いたその日の夜に電話をすると、もうその日から葬儀が始まっているので明日から参列して欲しいといわれ驚いた。あわてて衣装を手配し、翌日朝にホテルからプリアタンの王宮に向かおうとした。ホテルのロビーに行くとホテルマンたちがみんなニヤニヤしている。日本人がバリの民族衣装を着ているのだ、笑いたくもなるだろう。

ベルボーイがやってきて「素敵な衣装ですね? なぜその衣装を着ているのですか?」というので、プリアタンのプリカレラン王家のお葬式に参列します」というと、「わかりました。タクシーをプリカレラン宮まで手配すればいいですか?」と聞くので、うなずいた。玄関前に着けられたタクシーに乗るとベルボーイは「Enjoy」と言ってドアを閉めた。

プリカレラン宮の普段見慣れた家のあいだに大きな仮の家が造られていた。日本的に言えば「殯宮(もがりのみや)」だ。その屋根の下で葬儀がおこなわれた。

はじめて参列するのでどうしたらいいのかもわからずキョロキョロしていると、確かにみんな明るい表情でそこにいた。「こちらにどうぞ」と招かれて椅子に座ると、コーヒーとお菓子が出てきた。

しばらくしてラーマさんがいらっしゃると「お父さんに会ってください」というので、導かれるままについていった。正直に言うと、このとき「お父様に会う」というのがどういうことかわからなかった。お父様は葬儀の一ヶ月ほど前に亡くなっていた。その頃は村の祭礼などがあったため、葬儀を一ヶ月遅らせていたのだ。お父様の遺体はすぐに焼かれたことを聞いていたので、「お父様に会う」というのは、遺灰か何かに対面することかと思ったが、実際に対面したのはお父様のシンボルだった。太い柱のような木を横たえ、そこに衣装を着させ、頭の部分にはウダンという、バリ人が普段巻いている鉢巻が巻かれていた。聞くと、前日に魂を呼び戻す儀式をしたので、いまお父様はそこにいるのだという。僕にはそこにお父様がいるのかどうかわからなかったが「いる」と言われたので挨拶をした。

五日間の葬儀はまず1日目に魂を天界から呼び戻す。2日目に親族や友人などと霊的な対話をする。3日目に魂には再び天界に戻っていただき、4日目にご遺体を焼く。この葬儀ではご遺体はすでに焼かれていたのでシンポルを焼いた。遺体をすぐに焼き、後日おこなわれる葬儀でシンボルを焼くのは裕福なうちだけができることなのだそうだ。5日目には輿を海に流す儀式をおこなう。

確かにお葬式のあいだずっと、人々は明るい表情をしていた。そして、それがバリのお葬式なのだと思っていた。ところが一度だけ、参列者みんなが泣く場面があった。それは3日目の魂に天界に戻っていただく儀式の時だった。人生の象徴といわれるたくさんの笹細工を中心に置き、冥福を祈る親族がそのまわりを反時計回りに何度もグルグルと回る。僧侶はお経を唱える。何度かまわっているうちにみんな泣き出すのだ。バリ人にとって遺体のあるなしより、魂のあるなしの方がずっと大きな意味があることがよくわかった。翌日、盛大に遺体のシンボルと棺を運び、寺院の広場で火葬した。ここがとても派手なので、これこそがバリ人にとっての葬儀だと言われる。確かにそれも葬儀の一部だが、バリ人にとって一番感情が動くのは、魂と別れる儀式なのだということがわかった。

多くの日本人にとっては遺体が本人そのものと認識される。だからこそ死化粧が施されたり納棺師が必要とされる。日本人のような態度が正しいのか、バリ人の態度が正しいのか、日本とバリの文化を脇に置いて考えると、どちらが正しいのかよくわからない。PCとソフトの関係に置き換えると、バリ人はソフトに重きを置き、日本人はハードに重きを置くと言うことになるだろう。どちらにせよ、文化的背景が違えば人間はそれぞれの考えを受け入れることができると言ってもいいだろう。つまり、自死した人に残される人も、きちんと感情を整理する機会や、それが当たり前と考えられる文化さえ与えられれば、悲しみに対処できるのではないだろうか。

即身仏

日本には即身仏が何体か存在する。即身仏はミイラと混同されることがあるが、まったく違う物だ。ミイラは本人が死んだあと、第三者によって遺体が保存されるように加工されることでできる。乾いた環境に置かれ、自然乾燥によってできるものもあるらしい。一方即身仏は本人が生きているうちから遺体が保存されるように木食し、ついには乾燥した状態で死に至るものだ。本人の積極的意志により即身仏への準備をしながら死んでいく。なぜこのようなことがおこなわれたのか、そこには当時の信仰が関係している。

そもそもは弘法大師の入定説がもととなっている。実際に弘法大師が即身仏になったかどうかは諸説あるが、おおかたの見方は火葬され、のちに即身仏になったという話が流布されたというものだ。しかし、かつて即身仏になったという話がいろいろなところに引用され、すっかり事実として流通するようになり、その影響を受けて湯殿山系の即身仏が生まれたのだそうだ。

即身仏になるためには非常に厳しい修行をし、僧としての篤い信望を得なければならない。そうなることで即身仏となったあとも信仰の対象として扱ってもらうことができる。

 

信仰と科学

切腹や即身仏と須原の死とでは何が違うのかというと、残された人たちがその死についてどう思うのかが違う。切腹は名誉が与えられ、即身仏は尊敬の念や信仰の対象として崇め奉られる。しかし、須原にはそのような名誉や信仰は与えられなかった。尊敬の念が得られたかもしれないが、人の立場や考えによって微妙に違い、必ずしも尊敬の念が得られたとは断言できない。それは須原の問題ではなく、その時代の人の考え方の違いによるものだ。

信仰的なモノの考え方は一つの正解があり、人はみなその正解へと導かれていく。一方で科学的な考え方は、第三者から見た考え方を検討し、多くの人が了解できる答えへと向かっていく。このとき、「心」のような曖昧なモノは無視されがちだ。

ひとりひとりの心のなかはまったく異なる。だから科学が心を扱おうとするとき機能不全を起こす。東京大学名誉教授の清水博は薬学博士にも関わらず、この心の問題を科学的に説明できないかと研究している。清水によれば「生きている」状態は医学で生み出すことができるが、「生きていく」状態は医学では作れない。ではどうすれば「生きていく」状態をすべての人が納得する形で表現できるのかという問題に挑んでいる。

しかし、須原は「生きていく」ことができないから死んだのではない。「もう充分に楽しんだ」と自分から生を放棄した。もしかしたら、このところ毎年三万人の自殺者がいるが、その何割かは須原と同じように「もう充分楽しんだ」と思って命を手放しているのかもしれない。そのことについて生きている私たちはどう対処し、考えていくべきか。新たな学問が必要のようだ。

全ての人がいつかは死ぬ。その観点に立てば、多くの人が須原の問いかけた問題について考え、討論すべきだろう。