自分が弱者となって見えてくる視点
『ディプソル 多様性社会の再生』

(2011.09.14)

安全神話と成長神話の崩壊

まさか、雨に濡れる事がこれほど恐いなんて。まさか、口に入れる食物に、これほどの不安を感じるなんて。まさか、これから20年は立ち入ることすらできない地域が広範囲にわたって出現するなんて。

私たちは、3・11の前には多くの人が想像すらしなかったような『まさか」の事態に直面している。

被災地で大きな苦痛を強いられている人たちに対して、何かできないだろうかという焦燥感、一方で、自分の身すらどう守ればよいのかわからないという不安感。何がどう危ないのか、現状はどうなのか、どのように収束していくのか。飛び交う情報の多さの前に、不信感が募っていく。

安全神話が、これほどあっけなく崩れ去っていくのを目の前にして、私たちは、これまで強引に推し進められてきた<強者>の原理を思い知る。

想定される危険を、「割り切って」切り捨て、推進してきた結果の原発事故。
大事の前の小事として、個人の命や尊厳や生活よりも、国家の開発発展を、経済の成長を優先させてきた<強者の都合>だ。

「自分」は安全圏に身を置き、「ほかの誰か」にリスクを押しつける。

「ほかの誰か」とは、「割り切られて」死の危険にさらされる社会的弱者に他ならないと、本書の巻末コラムで、評論家の菅孝行氏は言う。

自分が弱者となって見えてくる視点

では、社会的弱者とは誰のことか。

高齢者、障がい者、子ども…。そうだろうか。

どんなに優秀な働き手も、体を壊すことはあるだろう。高血圧で、薬が手放せなくなることもあれば、心を壊し、神経科に通院することもあるだろう。あるいは、時が経てば、みな年老いて、体も頭も思うように動かなくなる日が来る。そして何よりも、今、日本社会がこんな状況になり、途方に暮れている自分自身がいるではないか。

自分も弱い存在であると認識できたとき、社会的マイノリティが直面している様々な苦悩が、他人事ではなく、自分の中に響いてくるのだ。

『弱者」とは、『弱くて気の毒な可哀想な人」ではなく、社会の様々な状況が障害となって立ちはだかっている、その状況に置かれている存在、という事に他ならない。

被災地の障がいを持つ人や家族の叫び。処方箋も医師も不在の中、向精神薬が手に入らない。些細な変化にも対応できず、ご飯も食べられない。パニックを起こしてしまう。居場所がない。避難所を出ざるを得ないが、出ると配給がもらえない…。

その叫びが、胸の中に響き渡る。

本書は、『被災地の障がい者とその家族たちの現実」と、『障がい者が働く現場」の2章からなる。

巻頭インタビューで辛淑玉氏は言う。
『迷惑をかけられることを拒む社会。その暗黙のルールによって追いつめられる存在がある」。

迷惑を拒み、多様性の摩擦を拒み、『有能」で豊かな、文明社会の健常者の都合優先で唱えられてきた近代化のお題目。3・11から学ぶべきことの根幹は、そこからの脱却にある、と本書は訴える。弱さに寄り添う眼差しを、今、自分自身の問題として、取り戻そうではないか、と。