土屋孝元のお洒落奇譚。僕たちのクラスには、
いつも明るい彼女がいた。

(2013.05.30)

あるときはメーテル、魔法使いの魔女、
西部劇のカラミティ・ジェーン。

僕が彼女を初めて見たのは、芸大に入学して数日も立たない、芸大美術学部の食堂、通称「大浦食堂」でした。

僕たち芸大生は、その当時は東京にある3つの予備校(御茶ノ水美術学院、通称、お茶美。新宿美術学院、通称、新美。水道端美術学院、通称、どばた。)から合格していて自然に派閥があるような、ないような雰囲気でした。他にも違う予備校出身者もいたのでしょうが、この3つの予備校がメジャーでした。

僕はお茶美出身なのでお茶美仲間と自然に集まり、授業と授業の合間も集まっていたのです。大浦食堂前のテラス席が美校(音校は音楽学部の学生食堂、通称、キャッスル)の学生の集まる席で、その場所で彼女を見かけたのでした。

その場所にはあまりにも不似合いな、まるで、不思議の国のアリスの世界からやって来たような服装で。ヘアースタイルといい顔つきといいまさにアリスそのものでした。後に知ることになるのですが、彼女のその服、当時のポパイ創刊、アメカジ全盛時代にはあまりにもクラッシックなドレスは、自らのお手製だったのです。

その後もとてもシックで素敵なファッションで、あるときはメーテル、魔法使いの魔女、西部劇のカラミティ・ジェーン、と僕たちを楽しませてくれました。最近でこそ見かけますが、30数年前の卒業式には、大正浪漫風の着物に袴スタイル、ブーツを履き、大きなリボンを付け、まるで夢二の世界からやってきた様でした。


 

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僕たちデザイン科、工芸科の学生は1年度は基礎的な美術の授業、実技を基本的に勉強します。このころは奏楽堂の教室がクラスのアトリエでそこで集まり、それぞれの実技ごとの教室へ移動しての授業でした。正確には今はない奏楽堂裏の木造校舎です。

美大なので実技がメインです、大学内の花壇の植物を写生したり。ヌードの人体デッサンをしたり、これは選択だったと思うのですが、約一月かけての鳥獣戯画や源氏物語絵巻模写、この古典技法模写で凄いのは、お手本が「小林古径」「横山大観」などの大先輩の模写した本物なのです。これを一月借りて見本にしながら、畳の部屋で墨を摺り、面相筆と溝引きを使い模写しました。石膏にてお爺さんをモデルに模刻、これは粘土でカタチを造り、その粘土を型取りして石膏で仕上げるというものでした。その先生は有名な彫刻家船越桂氏の父で彫刻の船越先生。デッサンでは、ドイツから帰国したばかりの榎倉康二(えのくらこうじ)先生にわら半紙に油のシミを付けたものを並べて、これがデッサンだと教わりました。まだ入学して数ヶ月くらいの時期で、まさに有頂天、飛ぶ鳥を落とすとはこの事を言うのだろう、勢いの頃ですね。

今思えば、この基礎実技の先生方もそれぞれの分野での当時考えられる最高の先生でした。

こういうことは、後で分かるものですが、その当時は何もわからずにいたものです。


おじいさんの模刻イメージ。
「セクシー3 & ダンディ11」

話は彼女に戻り、2年度までデザイン科、工芸科はグループごとの授業で、やっと3年度から専攻を決めるのです、僕はデザイン科のビジュアルコミュニケーションを選択しました。彼女と同じクラスになり、少ない同級生の1人となったのです。男性11人、女性3人、後にこのクラスでグループ展を開き、「セクシー3 & ダンディ11」なんてタイトルで作品を展示したりしたものです。

僕たちに、一番近い先生は有元利夫先生で、この時に広告のことや絵画技法のこと、色々と影響を受けました。教室(クラスのアトリエ)でヌードクロッキーも一緒に描いたり、この頃、よく有元さんのご自宅にもおじゃましました。デザイン科の工芸棟での余暇というか、自主制作のシルクスクリーン、エッチングの制作など、有元さんと作業しながら得たものも多かったと思います。当時は先生と教室(クラスのアトリエ)で飲み会をしたり、僕たちのアトリエにはかき氷機まであり、暑い時にはかき氷を食べたり、家族的な雰囲気でした。
 


かき氷機、クラスメイトが谷中あたりから拾ってきました。
居るだけでその場が華やいだ。

3年の時には、僕たちクラスで大阪の民俗学博物館見学があり、2泊3日の研修旅行に出かけることになり、僕たちは、クラスメートとみんなで「ホワイト」しばりで来ることに決め、それぞれが工夫を凝らし、集合場所で落ち合ったのです。現地集合現地解散でした。

服装が全体もしくは一部白くないといけないという決まりで、伊勢の津の駅前で白い一団が集合したのです。クラス全員が白一色で変な集団に見えたことでしょうね。

今では、楽しかった思い出での一つです。彼女は白プラスヒョウ柄で颯爽と現れ、もうこのころには、ヨーコちゃん(彼女はみんなからこう呼ばれていました。)はこういうアイデンティティだとみんな理解し不思議には思いません。彼女のある面を見たのもこの頃です。それは、美大とはいえ、学科の授業もあるわけで、その中で、僕は「音楽」という授業を受講しました、ヨーコちゃんと同じ授業を受けていたのです。

当時の授業はといえば、現代音楽を聴きながら、シェーンベルクの現代音楽作曲法、12音技法、など。先生曰く、「君たちのピカソやカンディンスキーの現代美術と同じだよ。」と、いうのですが、かなりの難解さでした。

少し難しくもありましたが、音楽学部との共通の講義であまり見かけない種類の人達(音楽学部の人たち)を見るだけでも楽しい時間でした。僕たち美校生には音校の女子は眩しかったのです。当時、一番大きな階段教室で机を並べて聴講していると、普段見れない真剣な表情でノートを取っていた姿を思い出します。

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4年になると卒業制作に入ります、美大はこの卒業制作が重要で何を作るかで悩む時期でもあるのです。みなこの頃には自分の進むべき方向性や得意不得意により、制作するものが見えてきます。ヨーコちゃんは猫好きなのと古典技法的な表現方法で中世のエリザベス1世の様なドレスを着た猫とフィレンツェの枢機卿かはたまたアンリ・フランソワの様な衣装を着た猫の肖像画を描きました。一貫して猫と古典がテーマだったような気がします。後にバレエを習ったり、この発表会もクラスメートで見に出かけたものです。乗馬を始めたり、オペラ歌唱のような歌を歌ったり、自分の作品の世界感を再現するために、いろいろと精進もしていたのでしょう。その一部にあの「音楽」の授業もあったのだと思います。

前のクラス会で会った時にも、明るく元気に振舞っていた姿を思い出します。僕たちクラスの中では、いつも明るく、元気で、居るだけでその場が華やいだものでした。

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胃を悪くしたとは聞いていたのですが、その時も普段と変わらずにいたので、大丈夫だろうと思っていました。仲間とカラオケの時に歌う歌は「夜来香」「蘇州夜曲」越路吹雪の「サントワマミー」「ろくでなし」美輪明宏さんの「ヨイトマケの歌」これで世界が想像できると思います。 芸術祭の学内バンドでも彼女はボーカルでスターでした。

いまでも、彼女の唄うあの声が耳に残ります。
容姿に不似合いな声で「ガハハ……。」と笑い、柳家金語楼の顔真似をしてみんなを笑わせ、教室(クラスのアトリエ)では、紅茶を入れて飲んでいた記憶があります。

最近、ヨーコちゃんはどうしたのかな、と、気にはなっても連絡はしていませんでした。

また、ある時期からは、連絡しても、仲間の集まりに参加しなくなり、だんだんと僕もみんなも忘れていたのです。彼女は自分の世界を追求し、いろいろお稽古に通い、ひとりコツコツと自分の世界で絵を描き続けていたのです。

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それはあまりにも突然でした、亡くなった知らせを受け、そのあとクラスメートからの連絡で、お姉さまから、もう九州の実家に帰り、ヨーコの部屋も整理するので、最後のお別れにきてくださいと、急な連絡があり、行けるメンバーみんなで出かけ、彼女の部屋へ入った途端、彼女が目指した世界のほんの一部を見たような印象でした。

部屋全体が彼女の作品なのです。ピアノ、オペラ歌唱の楽譜、鹿の剥製が壁に掛かり、猫脚キャビネット、お手製の品々。なんとミニチュアお雛様やお道具までも。ゴージャス&ビューティフル、クラシックでキュートな世界でした。なんでも、自分で手作りして、より完成度を高くする、納得いくまでの仕事ではないと、気が済まなかったのでしょう。同じ歳で50代後半になり、美大を出て何を残さないといけないのか、教えられた気がします。

猫と古典絵画と大好きな世界を愛し、闘病中も明るく、過ごし、年末から体調もすぐれぬ中で、大晦日、紅白の美輪明宏さんの「ヨイトマケの歌」だけは、きちんと聞けて、年明けてから旅立ったとお姉さまから聞きました。

これが、僕の記憶と思い出のなかでのヨーコちゃん、です。人にはいろいろな面があり、全てを見ている人はいないと思います。違う印象だったという仲間もいることでしょう。人にはいろいろな面があっての魅力だと……。いまでも、ふらっと笑いながら、「お待たせ、」と、仲間の集まりにあの姿で現れるよう気がします。