「映画作家が使いこなしてこそ成長
3Dは新しい言語」W・ヴェンダース。

(2012.02.27)
『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』より。©2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION
『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』より。©2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION
ヴィム・ヴェンダース監督『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』が公開されました。
アート作品ではじめて3Dを取り入れたと話題の作品です。
先だっての来日時に行われた記者会見、
東京芸術大学で学生を対象に開催されたレクチャーより、
3D映画についての見解、ヴェンダース監督の創作活動の源のお話を。
ピナのダンス作品で感涙。ほかの何ものとも違う。

実は私はダンスに興味がありませんでした。もちろんクラシックバレエも、モダンダンスも鑑賞したことはありましたが心に触れる、ということはありませんでした。自分の遺伝子にはダンスを好む遺伝子はないのだ、と諦めていました。しかし、25年前ヴェニスで、初めてピナの『カフェ・ミュラー』を観に行き、はじまってから5分後にはもう泣いていました。圧倒的に心を揺さぶられるものがあったのです。それまでに感じたことのない「新しいもの」を感じていましたが、それが何だかわからない。脳ではわからないけれども、自分の肉体がそれを感じていました。

『カフェ・ミュラー』は、長い作品ではありませんでしたが、これほどまでに男女関係の哀しい感じを深く描いたものはない。ダンスなので言葉はないのにもかかわらず、男と女の関係とはどんなものかが見事に表現されていたのです。その後に観た『春の祭典』でも、息をするのが苦しいくらい感動していました。

ピナは、それまでに観たどんな舞踏家とも違っていました。それは彼女自身の言葉でわかります。「私はダンサーがどう動くか、には興味がない。何が彼らを動かすかに興味がある。」

ピナと私はその後20年間、どのように彼女の映画を作るか話合ってきました。キチッとした枠組みで撮ろうとしていましたが、適切な手法を見つけられず、私は映画作りを一度キャンセルしました。その後リスタートし、彼女の全作品を撮影しました。その後ピナが亡くなり、ヴッパタールのダンサーたちとどうするか相談しました。ピナだったらどうするだろうか? ピナは生前、カメラの前には立たなかったのでピナの映像はありません。しかし、私は彼女の眼、視点は描けるはずだと考えました。その視点をどう辿るかと思った時ピナの姿はダンサーたちの中にあるあることに気が付きました。20〜30年の間、舞踏団でピナの気持ちを表現してきた彼らの中に。それがわかった時、本当に再スタートできたのです。

3D技術という言語を
使いこなしていくことが作家の責任。

私はこの作品を、ダンスに興味がない人に観てもらいたいと思っています。かつての私がそうであったように。3Dの技術があったからこそ、この作品を作りました、なかったらおそらく作らなかったでしょう。ステージの上というのはダンサーたちの王国であって、なかなか踏み込める場所ではありません。しかし、3Dという技術をもってはじめてその中に入り込めたのです。

これまでの3D映画が何をやってきたか興味はありませんでしたが、この作品の撮影は、3Dの可能性を感じさせてくれました。これほどダンスに合っている表現技術はありません。3Dにとってダンスは必要であるし、ダンスにとっても3Dが必要であると考えます。これこそ出会いであった、と思います。

この作品は私にとって初めての3D作品でしたので、まだまだわからないことがたくさんありますが、これからもどんどんこの技術を使って映画を作っていきたいと考えています。3D技術を使うことは映画作家の責任です、技術は映画を作る上の言語です。使いこなしていくことによってはじめて成長します。この技術は、映画作家がきちんと使いこなしていくべきもの。アトラクションとしてのみとらえていると3Dの素晴らしさは壊されてしまうでしょう。

3Dでわかった、人間の丸み、
ボリューム感。
また私はドキュメンタリーにとっても、3Dは素晴らしいメディアであると思います。

3D技術の持つ能力は、アクション大作やファンタジーを観てもわからないでしょう。それらは、3Dのスペースの広さ、深みしか使っていません。しかしこの『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』のラストシーンを見てもらえばわかると思いますが、3Dほど人間の身体の圧倒的な存在感を表現できるものはないのです。この作品を撮っていて、人間の身体が持つ丸みやボリュームを感じました、これまでわからなかったことです。

ドキュメンタリーの世界というは、どれだけその人(被写体)の世界に入り込んでいけるか、ということです。3Dの存在感の表現はまさに没入型の映像で、それに一番ふさわしい表現だと思います。3Dで撮影するにはお金がかかると思われるかもしれませんが、その技術の進歩は目覚しく、最初50人体制でスタートした『ピナ』の撮影は、今は5人でできます。極端な話 CanonのEOS 5Dがあれば、撮影できます。昔ほど高価なものではないのです。

(2011年10月25日@美学校試写室 
ヴィム・ヴェンダース来日記者会見より)


「ドキュメンタリーにとって3Dほど素晴らしいものはない」とヴェンダース監督© 2011 by Peter Brune

ピナの大ファンでプレゼンターとして駆けつけた楠田枝里子さんと。© 2011 by Peter Brune
本を読むこと、映写機での上映が好きな少年時代
ここの学生はみなさん美術学部の生徒さん? 私は実はずっと画家になりたかったのです。ですから、今みなさんの前にいる人は、画家になりたかった映画監督というわけです。失敗した画家、と思ってくださってけっこう。

若い時分はみな、将来こうなりたいと、はっきりした目的を持っていることだと思います。

第二次世界大戦で壊滅したドイツの街で幼少期を過ごしたので、楽しみは読書くらい。学校に入る前は祖母が毎日絵本を読み聞かせてくれたのです。祖母は指で文字をなぞりながら本を読んでくれたので、私は彼女の指と文字を見ながら物語を聞いていたのです。そうやって私は言葉を読むこととを学びました。ですので、私は読むということは、音と視覚がいっしょになって頭の中に入ってくることでした。

面白いことに、言葉そのものが私を感動させるのではなく、言葉と言葉の間こそありました。この経験は私にとって大きいものです。大事なものは行間、白いところにある。

ふたつめの大きな経験は、読むことができるようになった頃に、プロジェクションをすることを覚えたことです。6歳のころ、父が地下室で古い映写機を見つけたのです。1920〜30年代のほんの短い間8mmムービーのように使われていた9.5mmのいわゆる手回し映写機で、箱の中には10本ほどのフィルムが入っていました。チャーリー・チャプリン、ローレル&ハーディ、バスター・キートンなどスラップスティック、ドタバタ喜劇でした。私はまだその頃映画館に行ったことはなかったのですが、それらを友人の誕生日などで上映しました。手動式なので、食べているシーンを前後させて、ものを食べてもどして、しているところなどを何度も繰り返して見せたりして、人気者になってしまいました。そこで、イメージを見せることは、こんなに人々にパワフルな影響力を及ぼすものだと学んだのです。また、ちゃんと見せるものがあるとパーテイに呼んでもらえるのだなあ、と思いました。

ゴッホのひまわりから広がる世界。
絵画、音楽との出会い。

その次に絵画との出会いがありました。私の家は裕福でもなかったので安く手に入れたゴッホの『ひまわり』のプリントが壁に貼ってありました。その絵が私をアムステルダムへ導いたのです。アムステルダムに行けばレンブラントもあるし、フェルメールもある。そのほかオランダの風景画家にたくさん触れることができる。まるで恋に落ちたようでした。素晴らしい作品に心が揺れました。

当時私が住んでいたところは、オランダとの国境に近いところだったのでアムステルダムまで自転車で4〜5時間。何度も何度も通い、絵を何時間も見続けました。これが子供だった私にとって3番目に素晴らしい経験でした。

4つめは同じころ、両親がラジオを買ったことです。母はドイツのポピュラー音楽、父はクラシックを聞いていましたが、私はそれらが大嫌いでした。しかし、アメリカ駐留軍が米兵にむけて音楽を流していたAmerican Forsce Netoworkのチャンネルと見つけると、これこそ自分の音楽だ! と思いました。それはロックンロールでした。私ははじめてドーナツ盤のレコードを買うと、友人のところで聞きました。

これらが自分にとっての教育、学ぶ、ということの基本になったことでした。これらが今の自分を形つくっていると思います。

1 物語のセンス 行間を読むことで学びました。
2 フレーミングのセンス 画家たちから習いました。
3 音楽への愛 ラジオから。

それらすべてまとめて作品を作るのが、映画作家である、ということを当時はまだ知りませんでした。自分の好きなことを合わせてものを作って、なおかつ仕事にできる、とは思いもよりませんでした。

画家への道を捨てきれずパリに。
シネマテーク通いから映画を作る画家を目指す。

仕事と、自分の楽しみは別のものと考えていたので高校を卒業すると、父のように医学部へ進みました。でも2週間通って意味がないとわかりました。勇気を振り絞って父に相談、画家になりたいので、パリに行きたいと告げるとあっさりOK。パリへ行きましたが、美術大学の試験に合格できず、アメリカ人の経営する美術学校に通うことになりましたが授業は午前中のみ。午後から夜の暇つぶしに私はシネマテークに通いました。1日に6〜7本見れました。だんだん映画中毒になっていってしまいました。でも6本目見ると1本目を覚えてない。そこで暗い映画館の中でメモをとることにしたのです。(私は今でも暗闇でメモをとることができます。)こうして、映画の歴史を自分の中で積み重ねていきました。1,000本は観たと思います。

シネマテークの上映作品の中で、画家の作った映像作品を見せる週がありました。その時、はじめて納得しました、画家でありながら、フィルムカメラを持って映画を作ることはよいのではないかと。映画を作るのはお金がかかる。でも私は決心しました、フィルムメーカーで画家、になると。大事にしていたサキソフォンを質屋に入れ、16mmのボラット機(カメラ)とフィルムを手に入れました。それで撮影した私の最初の作品は、ただただ風景を映したものでした。

映画の学校に行かないと行けない、ということでパリの映画学校行ったがすでに定員。新聞でミュンヘンに映画大学がオープンしたというの告知をみつけ、テストを受けました。テストは映画のストーリーを書くことです。ボラット機で撮影した風景の16mm作品も添付、かなりの狭き門だったのですが、なぜか入学できました。ところで、落ちた人はあの、ファズビンダーでした。彼はとっても怒っていましたけど。その時、私はあくまでも映画を作る画家になりたかったので、映画評論のコースに通いました。暗闇でメモをとる特技を生かして映画評を書くと、雑誌に掲載されるようになりました。

映画大学に入学した私は仲間内で映画を作ったり、1968年、フランスのカルチェ・ラタンで起きたことと同じように、学校の先生を追い出して、カメラを買ったりしました。入学したはいいものの、学校には1台のカメラもなかったのです。

大学では3年間勉強しなければ、映画を作る予算をもらえなかったのですが、大学に行かなかったファズビンダーはすぐに3本撮影していて、すごいなー、大人だなー、と感じていました。

学校でもらえる予算といっても、カラー35mmで10〜15分分のお金。白黒にして1テイクなら100分は撮れました。学校では、撮影時にカメラを止める=カットする、ということを教えてくれなかったので知らなかったせいもあって1テイクなんですけど。

場所のセンスと、
フレーミングのセンスは対峙する。
(中略)
子供の時から同じことを考えていると思います。ストーリー、フレーミング、音楽のセンス。そして、場所のセンス。Sense of Placeと呼んでいます。自分の好きな絵を探して旅をしている間に、場所のセンスを感じるようになりました。

誰から教えてもらったというものではありませんが、この感覚は、映画作りにおいて私がいちばん大事にしているものです。私は自分の好きな場所の風景を撮影してきました。その場所が好きだからカメラの視線、角度を決められる。場所からいつも始まるのです。

好きな場所にいると物語が湧いてきます。いつもそのように作ってきました。場所が物語を内包していて、眼にしているものをフレーミングすることができます。このように、場所のセンスと、フレーミングのセンスは対峙するものなのです。

フレームに入れば永遠に残るが、フレームから出せば永遠に入らない。フレームの中に入った絵の流れが映画になるのです。


100年前、リュミエール兄弟も3Dをやろうとしていた、目で観たまま、奥ゆきまで表現したかったに違いない、と語るヴェンダース監督© 2011 by Peter Brune
3Dではこれまでフレーミングが
意味をなさない

今すごく3Dが気に入っていて、それについて話たいと思います。いいかな?(会場拍手)
私は今年66歳になりますが、3D作りを初めて、映画監督をはじめた若かりしころに戻った気がしました。

『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を作るまで撮影の前には、毎晩ドローイングを描いていました。だいたいその内容は次の日の仕事はどうやればいいのか、ということを描いたもので、パリで勉強したエッチングで、コミックに似たスタイルのものでした。次の日の撮影に安心して臨めるように自分のために書くようなもの。例えば、明日は街のここで、こんな人を、こういう風に撮る、と絵にしていたわけです。

そんな風に仕事を進めてきたのですが、3Dは全く別物です。

20年前からピナの映画を撮りたいと思っていました。ピナのアートは躍動感があり、スペースが重要な意味を持ちます。絵、キャンパスの二次元では奥行きを表現できない。私のドローイング、絵をつなげて映画を作る手法では、ピナのアートを表現するのはムリだと思っていました。

ダンサーたちの美しさを捉えようとしましたが、私の映画人生で学んできたのものでは表現できないものがあると教えられました。フレームの技術では彼らダンサーの王国に入り込むことはできない。例えるなら、金魚のいる水槽の前にいて、金魚を捕まえねばならないのに、私のカメラは水槽の中へは入れず、外にいないといけない……。

映画のクローズアップと、3Dのクローズアップは
くらべものにならない。

そんな時突然現れたのが新技術が3Dです、3Dでなら、その水槽の中に入って行って表現できると気づきました。3Dの世界では私がそれまで描いてきたドローイングは意味がなくなってしまいました、フレーミングしてもしようがないのです。

3Dはこれまでの映画が知りえなかった人間の身体の厚みや、顔や頭の奥行きが表現できるのです。これまでの絵画や映画ができなかったこの人がそこにいる、存在する、ということを表現できるのです。

映画のクローズアップは3Dのクローズアップとは比べ物になりません。存在感がちがうのです。私がこれまで学んできた技術とは全く違うもので、はじめから勉強し直さなければいけない、と思いました。

3Dは新しい言語です、全く別のルール、リアリティがあってしかるべきものです。これまでのような映画のあり方ではダメなのです。撮り方がまったく変わる3Dでは、物語も従来のものではダメになってくるでしょう。それを大手映画会社は理解していないと思います。

この新しい言語で人間の存在感を捉え、動かすには、ドキュメンタリーが一番よいと思うのです。

固定概念ではなく、原点に立ち返って
新技術を学び直すことが大事。

みなさん3Dをアクションやファンタジー映画と思ってはいませんか。3Dは宇宙の彼方知らないところのお話ではなく、地球の上のリアリティこそ捉えるべき技術です。ドキュメンタリーで存在感のある人間を動かし、そのあとどうやってフィクションができるか。

これまで私は3Dが物語の上で必然とされていた例を見たことはないです。実は今年、パリのシネマテークで、リュミエール兄弟100周年記念上映をやっていて、彼らがはじめにどうやって映画を作ったのか再現した映画が上映されていました。それを見ると彼らは3D映画を作ろうとしていたのです。実際には条件が揃わず計画は滞ってしまいましたが、彼らがやりたかったのは、人間が眼で観たままの奥行きを表現したかったのです。

3D技術は複雑で、人間の持つ2つ目のように、どのように光を捉えてどのように作用するか、そして3Dカメラはそれに対応できるのか、詳しくは解明されていません。先人たちもまったく同じことを志していたとは感慨深いです。これまでの2次元の表現で考えてきた、映画はこういうものだ、という固定概念ではなく、リュミエールたちの原点に戻ってゼロからスタートしてハイテク技術をより深く研究し、考えなおして学んでいくことがとても大事だと思います。

3Dの技術で次に撮りたいもの? 世界の建築物、建造物に関するものですね。建築は、映画の中で粗末に扱われてきました。もうひとつは、あるファミリーの物語というような非常にシンプルなもの。おそらく、みんな撮りたいと考えているのではないでしょうか。今、映画作家たちは映画作りのコードを変えていかねばならないと考えている。そこでは簡素な物語を3Dで表現することが必要になってくると思うのです。

ヴィム・ヴェンダース特別講義より
(2011年10月26日@東京藝術大学美術学部)

■ヴィム・ヴェンダース Wim Wenders
1945年、ドイツ・デュッセルドルフ生まれ。
医学を志すが画家への思いを断ち難くパリへ。絵画修業の傍ら映画に没頭、ミュンヘン国立テレビ映画大学へ。在学中から映画製作を手がけニュージャーマンシネマの担い手として知られるように。『アメリカの友人』(’77)の後、ハリウッドへ渡り『ハメット』(’82)を製作。その時の出来事を題材にした『ことの次第』(’81)でベネチア映画祭金獅子賞受賞。『パリ・テキサス』(’84)が高く評価され、カンヌ映画祭パルムドール、英国アカデミー賞最優秀監督賞受賞。静逸な作品『ベルリン・天使の詩』(’87)でカンヌ映画祭監督賞『ミリオンダラー・ホテル』(’00)でベルリン映画祭銀熊賞受賞。ドキュメンタリー作品としては映画監督ニコラス・レイを追った『ニックス・ムービー』(’80),小津安二郎へのオマージュ『東京画』、ファッション・デザイナーのクリエーションをとらえた山本耀司の『都市とモードのビデオノート』(’89)がある。キューバの音楽家の人生とその音楽を紹介した『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(’99)は、同名のアルバムとも世界中でロングヒットを記録した。日本の尾道をテーマにした写真集『Journey to Onomichi』を出版、写真家、著述家としての活動も。ヨーロピアン・フィルム・アカデミー代表、ハンブルグ芸術大学映画学科教授。


©NEUE ROAD MOVIES GmbH photograph by Donata Wenders

左・『フルムーン』(’06)より。
右・植物、水、岩、など有機物が登場するピナの舞台。

左・常識にとらわれないダンスは熱狂的に支持された。
右・モノレールの中、高架下、工場、現代建築の中で踊る。

***

『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』

2009年、惜しまれつつこの世を去った天才舞踏家ピナ・パウシュ。ドイツのヴッパータール舞踏団を率い、世界中に熱狂的なファンを持つピナと二十年来の友人で、いつかその映画を撮ることを約束していたヴィム・ヴェンダース監督。

驚きと躍動感に満ちたピナの世界の映像化を一度はとりやめてしまったヴェンダースは、進化した3D映画技術を目のあたりにし、その再現の可能性を確信。『春の祭典』(’75)、『カフェ・ミュラー』(’78)、『フルムーン』(’06)、『コンタクトホーフ』(’78,’00,’08)といったヴッパータール舞踏団の演目を、ステージだけでなく劇場を飛び出し、街や自然の中でダンスシーンを撮影。奥行きのあるピナの舞台装置、彫刻のように美しいダンサーたちの肉体美、予期しない動きを繰り出すダンス、とピナの世界を3Dで体験できる貴重な映像を完成させた。

またダンスの合間にダンサーたちのピナへの思いのモノローグを挟み込むことで、ステージのドキュメントであるだけでなく、ダンサーたち自身のドキュメンタリーにもなっている。さらには、その語り口からありし日のピナの姿が浮かび上がってくるトリプル・ドキュメンタリー構造。隊列を成したダンサーたちが舞台から映画観客席に迫ってくるような冒頭から圧巻の映像。

原題 Pina
出演:ピナ・バウシュ、ヴッパータール舞踏団のダンサーたち
監督:ヴィム・ヴェンダース
製作:ジャン=ピエロ・リンゲル
芸術コンサルタント:ドミニク・メルシー、ロベルト・シュトゥルム
衣装:マリオン・スィートー
舞台、衣装デザイン:ロルフ・ボルツィク
ステレオグラファー:アラン・デローブ
撮影:エレーヌ・ルヴァール
3Dスーパーバイザー:フランソワ・ガルニエ
3Dプロデューサー:エルウィン・M・シュミット

音楽:トム・ハンレイシュ
104分/ドイツ語、フランス語、英語、スペイン語、クロアチア語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、韓国語/Color/2011年/ドイツ=フランス=イギリス
提供・配給 ギャガ

©2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION

本年度 第84回アカデミー賞 長編ドキュメンタリー映画賞 ノミネート作品

2012年2月25日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿バルト9他全国順次3D公開


ヴッパータール舞踏団では約20カ国からのダンサーが活躍する。