転生の追憶 – 1 –

(2009.01.27)

朝から細かい霧の様な雨が降り続いている。埠頭に停泊中の客船が、まるでベールにくるまれたようだ。旅支度を整えた日本人が、次々とタラップを駆け上がっていく。
波止場の待合所に佇み、黙ったままその光景を恨めしそうに眺める男女がいた。

一九三七年七月七日夜半。廬溝橋西北で銃声が鳴り響いた。その日、後の世にいう廬溝橋事件が火蓋を切り、八年におよぶ泥沼の日中戦争が勃発した。ここ香港に於いてはその一週間後、日本国政府が日本人に対する早期帰国令を発布したのであった。

「この愚かな戦争が、私達を引き裂くというのか」男は流暢な日本語を吐き捨て、女を胸元に抱き寄せた。
男は麻のジャケットの胸元に手を忍ばせ、銀の懐中時計を二個取り出し、小振りの時計を女の掌にそっと握らせた。
「ウォンさん… 」
「私はこれを君と思って、戦争が終わる日をここで待ちます」男は懐中時計の裏蓋を開いて見せた。
裏蓋の中には、ドレス姿の女の顔写真が埋め込まれている。女も裏蓋をそっと開いた。そこにはタキシードにブラックタイで正装した、男の笑顔があった。

一年前、貿易商の父に連れられ、女は香港の夜会に出かけた。父は男を、日本への留学経験を持つ、大切な取引先の子息だと紹介した。
それが二人の出逢いとなった。写真はその時に撮影されたものだ。
「この戦争の行く末が、私にはわからない。でもとても恐ろしい気配を感じます。どんな事が起ころうとも、必ず生き抜いてください」
「戦争さえ終わったら、もう一度逢えるかしら」
「私には何もわかりません。ただ一つだけわかっているのは、あなたと巡り逢えて何よりも幸せだったということだけです。こんな別れが待っていなければ」
女は男の胸に顔を埋めた。
「戦争が終わって、二人とも生きていられたら、必ずまた逢えます。でも、もしそれが叶わなかったとしたら、今度こそ戦争で憎しみ合う事の無い、同じ民族として同じ国に生まれましょう」
「… きっと」女は俯いていた顔を上げ、頬を伝う涙を拭いもせず、左手の小指を差し出した。
「私の国のおまじない」男は、火傷でくっ付いてしまった左手の薬指と小指を広げ、女の小指に絡めた。
「満州に出向かれたお父さんには、あなたが今日九龍を発ったと打電しておきましよう。どうか、ご心配なく。そしてご無事で」

九龍の港に出船の汽笛が響き渡った。霧雨に打たれる旭日の艦旗が、風を孕んだ。
デッキで千切れるように手を振る、女の姿が霧に抱かれて行く。男は埠頭に佇み、千切れ去った紙テープを握り締めた。

◆ ◆ ◆

成田空港出発ロビーは、現の煩わしさを脱ぎ捨てた旅行者や、現の煩わしさを重ね着し項垂れる海外出張者で溢れかえっている
。出発ロビー入口の自動ドアが、そのどちらにも属さない一組のカップルを吐き出した。
「放してよったら! うんざりなのよ。もう離婚よ! 」
「そ、そんなあ… 。ハネムーンのお金だって全部払い込んであるんだし、だってキャンセル料とか取られちゃうじゃないか」新郎は片手でカートを押し、新妻を何とかなだめようと必死だ。
「あなたって、この期に及んでも、離婚の心配じゃなくって、キャンセル料の心配?バッカじゃないの? 」妻は新郎の手を振り解いた。
新郎は慌ててカートを止め、妻に縋り付かんばかりの形相だ。妻は腕組みのまま、蔑むように新郎を睨みつけている。
二人の直ぐ後ろを歩いていた赤川美恵は、張り詰めたその場の空気を察して立ち止まった。
「やれやれ、これが成田離婚ってやつか」
美恵は一週間後に迫った岡田義之との結婚式を想い、憂鬱そうに溜め息をついた。
「でも、私たちに限って、このカップルのようなことはないか… 」美恵は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
新婦の怒りは、どうにも納まらない。「だいたいよ、何で花束贈呈の厳粛な時に、メールの着メロが鳴り出すわけ? しかも何でタキシード姿で携帯なんか持ってんのよ! 」
「だから、それは… 」
「何が前祝いに連れてかれたっつうキャバクラの女から、『今度は朝までネ』なのよ! おまけにベッドで仲良くハグハグしてる写メ付きだなんて。花束贈呈楽しみにしてた家の親父なんて、もう少しでぶっ倒れるところだったんだよ。ザけんじゃねぇっつーの! 」
「何もこんなところで、そこまで… 」
確かに新婦のヒステリックな声は、興味本位のギャラリーを呼び寄せる結果となった。
「そういえば、義之さんもあの時… 」眼前に繰り広げられる成田離婚の修羅場は、美恵の記憶を呼び覚ました。

ちょうど一ヶ月前。
美恵と義之は結婚式の衣装合わせのために、ホテルに出掛けた。白無垢の衣装合わせを終え、色内掛けに着替え始めた時だった。
突然オヤジモードの着メロが、義之のポケットから鳴響いた。たしか、チャッチャカチャッチャチャッチャッチャのフレーズ、加藤茶の「ちょっとだけよ! 」のメロディーだった。義之は液晶画面を覗き込むと、一言も告げずにそそくさと外へと発った。
今思えば、義之の顔が一瞬強張った気もすると、美恵は思い返した。ついにそのまま義之は、三十分以上経っても戻らなかった。美恵は衣装合わせの済んだ色内掛けのまま、ホテルの衣装係りが気の毒がって入れてくれたお茶を啜って待ち続けた。どうしても色内掛けのまま、義之と共に記念写真に収まろうと。それは花嫁に許されるささやかな特権であると。このホテルから嫁いだ何千人の花嫁も、きっとそうしたに違いないはずだ。美恵は花嫁の義務であるかのように、何が何でも衣装合わせの記念に、写真を撮っておこうと決めていた。ホテルの衣装係りは、こうしたトラブルにも慣れているようで、ご丁寧にお茶菓子まで用意していた。
「悪い。急な仕事で」
まさにお茶菓子に手を伸ばしかけた時、義之が飛び込んで来た。都合が悪くなった時のいつもの癖で、前髪を掻き揚げる振りをしながら。額の片隅にうっすらと楕円の痣が見えた。
「男って何でも仕事って言えば、それで済まされるとでも思ってるのかしら? 日曜日だったって言うのに… 怪しい奴」
目の前で繰り広げられる一触即発の成田離婚の現場を目撃し、明日の我が身に重なり合う気がして、美恵は忌まわしそうに首を大きく振った。
「もしかして… これがマリッジブルーってやつ? 」離婚騒動が一向に収まりそうもないカップルをやり過ごし、美恵はF カウンターを目指し歩き始めた。
「… … 」誰かに見られている、そんな気がした。美恵は誰かの視線を感じ、背後を振り返った。
「まただ… 気のせいだといいんだけど」このところよく射る様な視線を感じる。結婚を控えナーバスになってるんだろうかと、美恵は思った。
「美恵ちゃん。ごめん待たせた? 」美恵と同じ商社に勤めていた、一年先輩の佐藤志津絵が肩を叩いた。今回の小旅行は、志津絵の傷心旅行に後輩として付き合うのが目的だ。
二人が勤める商社の跡取り息子に、志津絵は弄ばれ、そしてゴミ屑のように捨てられてしまった。とうてい志津絵の怒りは収まりきらず、取引先の社長令嬢という跡取り息子の妻を、この目でしかと見定めてやろうと考えた。そこで志津絵は、跡取り息子と社長令嬢がハネムーンに飛び立つ前に、彼等の新婚旅行先に先回りして、美恵と二人して香港で待ち伏せようと考えたのだ。
美恵の携帯が突然鳴り始めた。義之からのメールである。【急な出張でこれから香港へ。月曜日には戻る。愛してるよ! 】の文字と、唇マークの絵文字だ。
「フィアンセから? 」志津絵が歩きながら液晶画面を覗き込んだ。
「これから香港へ出張だって」
「何それ? あっ、もしかして二人で示し合わせてるんじゃないの? 」