『SARAVAH 東京』こんにちは。- 11 - 真珠子というアーチスト。

(2011.01.10)

ピンクリボンの洪水

始まって間もない12月16日に真珠子のライブ、「ピッサーユーアンコールナイト」がありました。

いったいどういうものが出てくるのか、タイトルの意味も不明だし、(後に真珠子たちの作った竜の名前とわかりました)不思議尽くめのショーでした。

で、見てみたらもっと不思議でした。

天井の中心からはまるで運動会の万国旗にように太いピンクのリボンが放射線状にゆるく張られ。壁には真珠子の描く少女たちが紙に描かれたのを切り抜いてこれまたピンクのガムテープ(そんなのあるんだ?)でバチバチ貼り付けられてました。

よく私たちの小学校、中学校でいませんでした?「私、将来マンガ家になるの。」といって休み時間にノートの端っこにお目目のでかい少女の顔を書いていた同級生って。真珠子のイラストはまさにそれを彷彿とさせるもので、手足はかぎりなく細く長く、黒目しかない目は、はるかほっぺたの下についている、肉体を忘れさせるあの、感じです。正直言って私には理解できない世界です。奈良美智さんが出てきた後、まさに学生ノートの端っこに書いた風の若い子のイラストを、競ってコンテンポラリーアートの画廊が売り出していましたが、今はどうなっているのでしょうか。

まあ、そんなことはいいとして、真珠子の少女マンガの世界のイラストは壁にとどまらず、そのまま布にプリントして、立体の世界で洋服として、とんでもなく少女チックな、いまや国際化した日本語「Kawaii」というジャンルの洋服も真珠子は作って売っていました。メイドさんのエプロンつきのピンクのひらひらスカートの数々もあります。

『天草みぞかちゃん』2009年 / 水彩用紙、アクリル絵の具

それで、ステージに出てきた真珠子は中学生が一人で部屋の中で鼻歌を歌う感じ、のまま、歌を歌うのです。ピエールは最初、天井を見て、”C’est cocasse!” と一言、私もなんと言ってよいかわからない状態でしたが、我慢して聞いているうちに自分たちも少しづつひきつけられていくのがわかりました。

 

この気持ちは何だ?

こんなもの好きなわけがないのに(失礼)いったいこの気持ちは何なのでしょう!?

アイドルのように聴衆に媚を売るわけでもなく、リズムを取って体を揺するでもなく、世をひねくれた目で見ているわけでもなく、大柄の彼女は両足に体重を置く感じで正面向いてに突っ立って、ピンクのひらひらを着て、ただ素人の歌をひたすら歌うのです。(彼女のために言いますが、音程は合ってました、歌の発声ではない、いわゆる鼻歌です。でも音程があっているとか外れているとかいうことがこの際どうでもいいことに気がつきます)まるで小さい子供が一所懸命に訴えている、という感じ、でも彼女は小さい子ではなくてたぶん30歳を超えた女性です。大人がそういうことしていいのか? なんだか消化不良気味ではありましたが、この力のようなものは何なのでしょう? と自問し続けながら一部の最後まで見てしまいました。

そして私はすごいカルチャーショックを受けるのです。
お休みの間お客さんを観察しましたが、kawaii系のひらひら服を着ているうら若い娘たちもいましたが、男性も結構多くいるのです。むむむっ、この人たちは、いわゆる秋葉系という人種でしょうか?
わからないうちに2部が始まりました。

彼女の再び登場した真珠子はピンクの(当然でしょ)メガネをかけていて、でも、待てよ、めがねのレンズの部分はピンクの(はいはい)お花にうずめられて見えていない。つまり目隠しした状態で歌うのです。真珠子のデザインした服を着たダンサーの若い女性が歌に合わせて踊ります。それも、ダンサーのダンスではなく、(もちろん)少女が一人で部屋の中で踊るような踊りです。それで3人のダンサーで3曲、目隠しをしたまま真珠子は歌を歌いました。ピアノの伴奏もついていました。

最後フィナーレが強烈で、ゲスト全員で手をつないで、「いーつの日か会える時まで、とーもだちでいよう、今日の日はさようなら、また会う日までー」「皆さんも歌ってください」……で、私も合唱しました。
そうだ、教室の片隅でマンガを描いていた同級生に始まり、最後は学芸会? 卒業式? そういえば、私の時代も、この歌を歌って、たかが中学校を卒業するくらいで泣いていた女の子っていたな~。

ああいう、おセンチな、中学校ワールドに40年経って連れて行かされました。

『ケーキで避難』2010年 / イラストボード、アクリル絵の具

 

これでいいのか?

目隠しして、世界の現実や、自分のどんどん過ぎてゆく年齢や、成人の女であることなど、見たくもない現実として、目隠しして中学校の時代に足踏みして、少女マンガを描いて、それで平気で、喜んで見に来たり、服(30万円するのもあった)を買ったりするお客さんがいて、それでいいのか? いや、待てよ、それの何が悪いのか? 過去にもいたじゃないか。ゴミ箱の蓋に絵を描いていたGaston Chessacとか、町中にスプレーして歩いたバスキア(Basquiat)。貝殻や瀬戸物のかけらでモザイクを作って家中をそれで覆ったピカシェット(Piccasiette)、いわゆるアール・ブリュット(Art Brut)とかポップ・アートの作家たちと同じではないか? どうなのでしょう?

でも、私の価値観に真珠子がハザードとして感じられたのはなぜなのだろう。

私の生まれ育った昭和30年代の東京では、とにかく進め、知識も意識の感性も成長すべきであって、「幼稚」という言葉は遺棄すべき、やばい状態でしかなかった。どれだけ中学校時代のみっともない自分から頭脳も判断力も洗練された感性を持った大人の人間になれるかが焦点だった気がする。大学を出てから移り住んだフランスはその最たるもので、子供イコールだめ、という価値観で今でもきている。

歌だって音痴はだめ、芸術という尊い殿堂に近づけるのは優れた表現能力と知性を持った選ばれた人、である。

そんな価値基準に真珠子は真っ向から無視してかかっている。そのすごさに私は圧倒された。シェサックはゴミ箱に絵を描いて、アカデミズムの鼻をあかしたし、デユシャンはトイレに泉と名前をつけて作品にしたし。真珠子は女の子の世界に逆行することで何かに挑んでいるのかどうか、は知らないが(たぶん違う)ただ、自分の魅力に自信がない男性の簡単な性のはけ口として存在する小さな弱い女の子を演じながら、実はそんなことを無視して彼女自身で生きている人間を感じるのです。

小さい女の子になりたい=性的弱者になりたい。という図式に、私などは怖気を奮ってしまうのですが、彼女はそんなこと平気らしいのです。ウーマンリブの闘志よりも強いかもしれない。男性への復習や軽蔑があるわけでもなく、媚もないのですから。これはアートなのでしょうか。

子供の世界に足踏みして何が悪い、「子どもの頃から子どもになりたかった」。という真珠子です。著名な写真家の杉本博司さんは人類の根源に迫りたい、とテレビのインタビューでおしゃっていましたが、真珠子は「赤ちゃんになりたい」と。それと杉本さんの目標ってなんか同じような気がしませんか?

作品自体は、一昔前だったら落書といわれてしまうような類ですけど、彼女の絵は力があって、自分の世界を的確に集中力を持って描いている。ミズマアートギャラリーに所属しているそうですが、確かにこれは立派に作品として評価される実力があります。

 

ネオコスというジャンル

真珠子のはただのコスプレではなくて、ネオコスというらしい、一ひねりしたアーチスティックな、という感じ。コスプレをアートまで高めた。ということでしょうか? でもジャンルで括るより、彼女という個人の主張がはっきりしていて強い、と思います。実はほかにも、彼女のような不思議な連中がいるのです。レ・ロマネスクもそうだし、デリシャススイートの人たちもそうです。歌手、と自称していますが、いわゆる歌手とは違うのです。なんだか違う価値観で(しかもゆるぎない)中途半端にうまい音楽家の連中なんか吹き飛ばすパワーで私たちに訴えかけるのです。

『ずっと森だと思っていたそこは、女たちのスカートの中だったのでした。』2010年
/ ケント紙、アクリル絵の具

美しい音色や歌声を楽しむだけならレコードでもよいかもしれない、でもせっかくライブハウスに足を向けるなら、人間に会いたい。この人たちはCDで聞いてしまったらまったくよさがわからない。実際に触れてみないと伝わってこない。すました音楽家ではなく、常識をひっくり返す暴れ者たちにわれわれ大人の固まりかけた神経を逆撫でしてもらうのはとても大事なことだと思います。『SARAVAH東京』、今年もジャンルや価値観を越えて多くのアーチストが出てきます。おどろかせてもらいましょう。ゆさぶってもらいましょう。