『サラの鍵』ジル・パケ=ブレネール監督インタビュー天才的少女を活かしてこそ、
思いどおりの映画ができた。

(2011.12.09)

映画、『サラの鍵』を昨年の東京国際映画祭でご覧になった方も少なくないでしょう。
最優秀監督賞と観客賞をダブルで受賞。
これが一年以上を経て、一般公開されることの意味は大きいと思います。

原作のテーマは、フランスによるユダヤ排斥。

それは、この作品の監督、ジル・パケ=ブレネール、彼自身の思いが叶ったことになるからです。

この作品に描かれた事件は、人類の未来がある以上、決して忘れてはならない過去の記憶の重大な「ひとかけら」なのであるという思い。だから少しでも多くの世界中の人たちに、この映画を観て欲しい。そんな願いが、またひとつ日本で叶ったということに他ならないからです。

日本ではすでに出版されたタチアナ・ド・ロネによる、同名の原作に描かれた、ユダヤ人少女の、ユダヤ排斥からの過酷な生き残りのための日々。それは、永遠不滅の名作として知られる、『アンネの日記』を越えるものかもしれません。

なぜなら、この映画のサラは、少女から大人になり、その体験を引きずっての人生を背負い、生き残った者が課せられる十字架を背負い生きて行かねばならない、そこまでの軌跡を描いているからです。

ブレネール監督は、自らもユダヤ人であり、ユダヤ人音楽家であった祖父が収容所で亡くなったという事実のもと、アウシュビッツ体験をした血統であることに大きく影響されて成長したといいます。しかも、第二次大戦の忌むべき傷跡として語り継がれているホロコーストは、独裁者ヒトラーという指導者やドイツだけでなく、フランス国家も加担していたという耳を疑うようなこと。

彼が監督となって最も描きたかったといってもいいのが、このフランス最大の汚点を小説にして世界へと告発した、『サラの鍵』の映画化でした。

その事件は、シラク大統領が国家責任として承認。

私のようにフランスを敬愛する者にとっては、目をそむけ、耳を閉ざしたくなるような、大変にショッキングなこの事件。それは、記念碑を残して、今やあとかたもなく立て替えられた、パリ市内のヴェルディヴ(元冬季競輪場)で起きました。

第2次世界大戦の最中、1942年、ユダヤ人狩りに精を出していたドイツ軍とは敵国であったフランスの国家が、自らの反ユダヤ主義のもと、ユダヤ人を一斉検挙し収容、そこから多数のユダヤ人を、アウシュビッツに送ることに加担したというものです。

この事実については、1995年にはシラク大統領が国家責任として承認。「ユダヤ人迫害の日」となった7月16日に、この事実を忘れてはならないと、その跡地で演説をしたのです。

一斉検挙の魔の手に、弟を隠したサラの鍵。

1942年のある朝、突然に、その事件は起き、映画の主人公サラの一家にも、容赦なく残酷な、魔の手が伸びるのです。

反ユダヤ主義を正しいことと振りかざすフランスの国家警察のユダヤ人一斉検挙。幼い弟ミッシェルを救おうと納戸に隠し、鍵をかけたサラは、検挙された後に、そこを逃れて、一刻も早く弟が閉じ込められた自宅に戻り彼を救出しようと、必死に行動する。

大人でさえ生還することは絶望的だったはずで、そこをどう逃れるかはもはや、生き残りゲームさながら。なにしろ、一斉検挙の酷い有様をリアルな迫力で、当時の戦時下の混乱の中の悲しいばかりに恐ろしい人間の仕打ちを様々に大胆なカメラワークで、描き出し、そこが、まさに見どころとなっていきます。
観る者のハラハラ感と緊張は並大抵のものではありません。

と、そこで、そんなシーンばかりではしんどいでしょうとばかり、この時代と交差させて、もう一人の主人公ジュリアという現代社会に前向きに生きる女性を登場させる構成力が素晴らしい。

彼女は、どちらかというと観客に近い立場。当時の忌まわしい事件を私たちの目線で追っていってくれるのです。

ジャーナリストである彼女は、若い世代にはもはや、知られてもいない、この事件を仕事として浮き彫りにし、今さらながらに反芻するうちに、身近な自分の家族がこの事件に奇しくも繋がっていることを知ることになるのです。

私生活にも少なからずの悩みを抱えるキャリア・ウーマンの彼女が、サラという少女と不思議な糸で結ばれ、ユダヤ人排斥の手から逃れて弟を救おうとする、その少女の足跡を追うことになる運命をも描きだしていきます。

ハリウッド的とフランス的で誰にも観やすく。

今までにありがちな、アウシュビッツやホロコーストの恐ろしさを、どのくらいリアルに見せようかという意図的な作品とは、あくまでも、全く対照的な作風です。

ミステリアスな展開もあり、女性の生き方としての心象風景をきめ細かに描写していく部分もありで、ハリウッド映画の良さとフランス映画の良さのブレンド具合に、どんなに辛口でも、☆4つは、誰もが異議なしといったところ。

前置きが限りなく長くなってしまいましたが、ここで監督登場。そのブレンド力についてうかがいました。

「それが、ぼくのキャリアなのだと言えるでしょう。過去の作品は、どれも日本では公開されていませんが、60年代のフランスとイタリア映画のオマージュで作ったこともあれば、50年代のテレビシリーズや、70年代のアメリカのフィルム・ノワール的なテレビシリーズをオマージュして作った作品もあった。『サラの鍵』が持つテーマ性が、今回の様な雰囲気の映画を必然的に作りあげたと言ってもいいけれど、私自身が常に、いろいろなジャンルの映画を撮りたいっていう思いがあり、今回は、みんなにアクセスしやすい映画でありながら、なにか考えさせるようなそういうものをもった作品を作りたいと思ったんですよね。より成熟した、より古典的なものを持った作品でありながら、鑑賞主義に陥らない控えめさ、シンプルさを大切にして、出来あがりました」

名女優C・スコット・トーマスも顔負けの子役登場。

過去の時代を現代に蘇らせ、物語を牽引していく役柄の、アメリカ人ジュリア役には、ブレネール監督が出演を熱望したという、クリスティン・スコット・トーマス。

「ジュリアは自分にとてもよく似ている」と、彼女自身も共感を持って、この役を演じたといいます。

しかし、今回は、アカデミー賞候補をはじめ、数々の賞を獲得してきた大物の彼女を抑え、タイトルにもあるように、主軸はサラの存在です。

そして、サラ役の、メリュジーヌ・マヤンスという子役。この逸材が、この作品の実力アップをかなり支えています。小さな名女優、ズバリ、天才少女のメリュジーヌ。

弟をとっさに匿う機転や、その弟を納戸から解放しようと、生き延びることの一念を貫く強さ、その少女になり切るメリュジーヌの演技は、子供ながら鬼気迫るほどで、実力を感じさせます。

観ている者は、弟が生きているわけがないと思いつつ、サラの思いが叶い、奇跡が起きることを知らないうちに願っているのです。彼女の表情、言葉、行動の一挙手、一頭足に金縛り状態。

サラは弟の命を救えるかに、緊張と感動。

その結末に至るまでの緊張の連続は、彼女あってこその成果だと強く感動します。

「弟のミシェルとサラと、ジュリア。この3人の間には非常に複雑ないくつもの層ってものがあるんです。もし、ミシェルを納戸に閉じ込めて、それを気がかりとしていなければ、サラは、必死になって収容された場所から逃げようとせず、両親と一緒にいるのが普通です。だから、本当に彼のおかげで彼女は生き延びたとも言えるでしょうね。そのあと、彼女が生き延びたことによって、そしてまたジュリアという人がサラの人生について探求したことによって、ミシェルという人の記憶もまた呼び戻されるので、絆が人を強くさせるということが、よくわかるでしょう」

その必死の演技を引き出したのは監督ですが、子役を思うように使いこなしてこそ、名監督足り得るというべきと言えそうです。

「確かに、本当に私たちはラッキーだったといえるでしょう。本当の意味での女優に私たちは、出会った思いがあります。メリュジーヌに出会うまでは、非常に私たちも不安でした。ああいう難しい役を演じられる子役になんか出会えるものかと。まあ、カメラの前で自然に演じる、そういう風な子役は、たくさんいますよ。が、あれほど複雑な役柄を演じきる子役は、めったに、いない。才能があるとか、正確な演技をするとかだけでなく、そうですね、演じる人物に対して、深みやパワーっていうのを吹き込むことができるんだね、彼女って。技術的な面でも、カメラワークや光のこととか、テクニック的なものも非常に熟知していて、本当の意味でのプロの女優ですね」

と、感動しながら話してくれました。末恐ろしや、メリュジーヌ。

子役の扱い方のコツとは。

フランソワ・オゾン監督も、自らの作品『Ricky リッキー』(09)でこの恐るべき、小さな女優を起用し、曰くは、「彼女は少女ではなく、女優なんだ」との言葉を残しているそうですからね。

彼女を思うように使いこなし、全編の「動」の部分を際立たせ、名女優のトーマスを抑制的に使いこなし『静』の部分を輝かせて、素晴らしい完成度を手にしたブレネール監督の腕前も並みのものではないわけです。

やはり、子役を制して成功を手にする手腕の持ち主には違いない。子役の扱いのコツをうかがってみました。

「鉄則は、子供は、子供扱いしないこと。話し方も、極めて、普通の大人に話すようにしましたね。どういうことを我々が求めているかを、シンプルでクリアに話さなくてはいけない。もちろん、彼女を選んだ時点で、優れた才能があることを見抜いていますから、彼女たちがキャラクターを自分の力で引き出してくれるよう、彼女に任せるっていうことを心がけました。もちろん、大人の俳優にはない演技のフレッシュ感、そういったものを彼女達、子役達は、持っていると信じることですね」

今の時代になってこそ、気づく、生きることの責任。

いずれにしても、ホロコーストの史実は、生き延びた人間あってこそ、この世にその事実が継承されたのであり、当時から60余年が経った今、そのことに目をそむけては、この事実は忘れ去られてしまう。

その事実だけでなく「生き残ること」の責任の重さが、忘れられてはいけないことなのだと監督は主張します。

生き残れても生還できたということが、喜びを得るだけのものではないということを知って欲しいと。

生きる残り、生き続けることの責任は重い。

その時点から始まる苦悩。生き残れたことと引き換えに、生還した人々のその後の大きな役割、背負う十字架がどのようなものなのか、それを描いた作品『サラの鍵』は、ユダヤ人迫害やホロコーストの映画が多くある中でも、傑出した存在と言えるのです。

これって、日本全体に課せられた、震災後に私たちがめざすべき道筋やテーマとも、かぶっているように思えてしまうのは、私だけでしょうか。

ドイツと同盟国だった日本と日本人。考えたら、ホロコーストについての存在に無関心ではいられないはず。当時はどうだったんだろうと、この映画を観て考えさせられることも大切ですが、説得力あるのは、むしろ震災の爪痕を受けた日本という視点、観点から、この作品に共感すべきものを感じてしまうことなのです。

震災の爪痕は、時間が経つても、生き残った私たち全員の心に残ったままです。

「生き残った者」というキーワードでいけば、この『サラの鍵』は、今の私たち日本人にとっても、限りなく身近にも感じられてくるのです。

ブレネール監督のこの映画は言っています。

忘れてはいけない、加担していない者も、このことを、忘れないで、と。
これからの未来が美しくあるためにも、と。

『サラの鍵』

監督:ジル・パケ=ブレネール 

出演:クリスティン・スコット・トーマス、メリュジーヌ・マヤンス、エイダン・クインほか

原作:タチアナ・ド・ロネ『サラの鍵』(新潮クレスト・ブックス刊) 


2010年/フランス/シネスコ/ドルビーデジタル、ドルビーSR/111分
後援:フランス大使館
協力:ユニフランス・フィルムズ/東京日仏学院/
配給:ギャガ


12月17日(土)銀座テアトルシネマ、新宿武蔵野館ほか、全国順次ロードショー