転生の追憶 – 8 –

(2009.04.13)

前回までのあらすじ

美恵とホテルで朝を迎えた宮脇。しかし男女の境を越えることはなかった。午後のフライトで香港を発つ二人は、恋人同士のようにピーク・トラムで山頂へと向かい、キャットストリートで骨董品のウィンドーショッピングへ。一軒のアンティークショップで、宮脇の目は釘付けとなった。濁って鼠色に変色した、銀製の懐中時計に。店主の話によれば、1937年にこの店で特注品として製造された、この世に一組だけの懐中時計とのこと。だかそれは時を隔て、再びこの店に持ち込まれた曰く因縁モノであった。

「なぜ片方が香港で、もう一方が日本だったのかしら」美恵は急に興味をそそられたようだ。
「『世界中にたった二つしかない時計だから、互いに引き寄せあったのだろう』って… なんか香港の裏通りのバザールで、アラジンの魔法のランプでも見つけたような不思議な気分だ」宮脇と美恵は、懐中時計を互いの手のひらに収めてみた。手巻きの懐中時計は、おそらく何十年とリューズも巻かれず、動きを完全に封じ込めていたはずだ。
 しかし僅かに揺れる小さな振動を、二人は掌の中にはっきりと感じとった。
「ええっ、うそ! 動いたみたい! 」
「俺の方も確かに今」
そんな馬鹿な。不思議な感触が押し寄せる。初めて手にした時計なのに、二人の肉体とは隔たる聖域で、遠い日の何かが目覚めようとしていた。

◆ ◆ ◆

「本当にこれいただいていいんですか? 」九龍のリージェントホテルに向かうタクシーの中で、美恵がつぶやいた。
「もちろん。でも一つだけ約束だ。このどちらかのからくり蓋が、いつの日か開いた時があったら、絶対にもう一度二人で逢おう。半世紀以上も前に封じ込まれたロマンスに、二人で思いを巡らせるんだ。たとえ何十年かかったとしても。そして昨日と今日の二人だけの思い出、そうだな時間にすれば僅か十四〜十五時間を振り返るんだ」「うん。約束」そう言うと美恵は小指の先を、宮脇の小指に絡ませた。
「志津絵ちゃんに怪しまれるとまずいから、ぼくはここで失礼するよ」
「そんなわけないわよ。二人とももう大人なんだし。ところで課長のフライトは? 」
「ぼくは最終便のキャセイだ。君はJ A Lだったよな。気を付けて」リージェントの車寄せに止めたタクシーを降り、美恵は何度も何度も振り返りながらロビーへと消えて行った。

◆ ◆ ◆

 翌、月曜日の営業二課。
「課長色々ありがとうございました」宮脇のデスク脇に立ち、美恵が小声で囁いた。営業課員が居並ぶデスクの影から、射るような鋭い視線が美恵に突き刺さった。
「改まって、送る言葉とかは、柄じゃないから… とにかくお幸せに」宮脇の言葉を受けて課員が一斉に、美恵へ祝福の拍手を送った。
「じゃあ今度の日曜日、披露宴会場で」
「なに言ってるのよ。その前日のシングル・エンド・パーティーで、もう一度逢えるじゃない」美恵は小声でそう囁くと、課員の手荒な祝福を受けながら送り出されていった。

◆ ◆ ◆

 横浜みなとみらいのグランド。
「パパがいる土曜日なんて、随分久しぶりだこと」宮脇の妻、幸子は日傘を広げてベンチに腰を降ろした。
宮脇は軽快なドリブルワークで、小さな二人の男の子をすり抜け、サッカーボールを巧みに操った。
「どうだ圭司、光二! パパだって今度のワールドカップに出られそうだろ! 」不意に宮脇の携帯が鳴った。
「ごめん。部下が一大事だ」宮脇は幸子と二人の子供に、それだけを告げて走り出した。

◆ ◆ ◆

六本木ヒルズのカフェラウンジ。
「一体、赤川君の身に何が? 」宮脇は、美恵のフィアンセである義之と向かい合って座った。
「一昨日から美恵ちゃんと連絡が途絶えていて… 」義之は香港から戻った翌日、美恵に対して疑惑の釈明を行ったという。なんとか美恵自身のわだかまりも納まり、結婚式に向けての準備が進められていた。しかし一昨日から、突然美恵の行方がわからなくなってしまっていた。
一昨日は美恵の両親も、またちょっとしたマリッジ・ブルーに陥って、友達の家にでも泊まったのだろうと、暢気に構えていた。しかし昨日になっても美恵は戻らず、何の連絡も入らなかった。美恵の両親は、心配のあまり義之を頼った。義之とて美恵の会社の交友関係を、全て知りえているわけではない。事件性があるのか無いのか、それさえ全く不明だった。警察に届けたところで、どうにかなるものでもあるまい。むしろ二日後に結婚を控え、できるだけ穏便にと、美恵の両親も義之も考えは同じだった。そして美恵からの音信が途絶えたまま、今日を迎えた。
 義之は困り果て、美恵のかつての上司であった宮脇に、心当たりがないか確かめたいと、恥を忍んで連絡を入れた。「心当たりねぇ… 。会社では、みんなからとても好かれていたし、誰とも屈託無く接していたからねぇ… 」
義之の携帯が鳴った。
「無言の悪戯です。それともワンギリだったのかな」
「… … 」宮脇は美恵の言葉を思い出した。
『結婚が決って、課長に退職届を出した日の夜、家に帰ったら切手もない封書が届いてたの。「結婚は破談にしろ。お前が不幸になる」と』宮脇は自分の脳裏をよぎった、不吉な影を払拭するかのように、頭を大きく振った。
「きっと彼女はパーティーに、何事もなかったようにやって来ますよ」宮脇はまるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

◆ ◆ ◆

 シングル・エンド・パーティー会場。既に会社の同僚達がおめかしをして、ヒロインの登場を今や遅しと待ち構えている。宮脇と義之は、会場入口に近い窓側のテーブル席に陣取り、来客に目を光らせた。
「課長、もっと中央の席にいらしてください。二課のみんなもお待ちかねですから」
課員が気を使い、宮脇を会場の中央へと促した。席を立ちかけたところで、宮脇の携帯が鳴り出した。
「M i e A k a g a w a 」の着信名とナンバーが表示されている。いかにも不慣れなタッチで、キーを操作しメールを呼び出した。
「一十,, 1 - 1 1 0 1 0 4 2 8 」
「マイナスプラスコロンコロン1 - 1 1 0 1 0 4 2 8 … なんだこりゃあ? 」
「宮脇さん、これって美恵の前の携帯番号ですね… 」
「恐らく何らかの事件に巻き込まれ、こんな暗号のような形で送信する他、無かったんだろう。しかも今の携帯は、使うことが出来ない状況にあって… バッグに入れっぱなしの、古い携帯を使ったってことか」宮脇はもう一度、携帯電話のディスプレイを眺めた。
「しかしこの、マイナスプラスコロンコロン… ってなんなんだ? 」宮脇はしきりに首を傾げ、独り言を繰り返した。
「課長、みんなが美恵はまだかって? 」再び課員が、慌しく駆け寄ってきた。
「もううちの課は、全員集まってるのか? 」
「ええ、もうとっくに… っと言いたいところですが、あの変わり者の二之前がまだ… 」
不意に宮脇の脳裏に、美恵の言葉が蘇った。『会社のビルを出た途端、直ぐに電話が鳴るわけ』宮脇はメールの暗号を睨みつけた。「マイナスプラスじゃない! 一十だったんだ! 」宮脇は携帯を片手に握り締めて、パーティー会場を飛び出した。慌てて義之も宮脇の後を追う。

宮脇は大通りでタクシーを止め、飛び乗った。走り去るタクシーのテールライトを、義之はひたすら祈る様に見送るしか術が無かった。

「ああこりゃあだめだ」タクシーの運転手は、四谷通りに曲がり込んだところで独り嘆いた。「ケッ、うんともすんとも進みやしねぇ。ったく、土曜の夜だってえのに」