美濃で作られる、薄く光を通す器。

(2010.06.11)
奥田製陶所の新しい取引国ギリシアで一番人気のある図柄「金魚」文様。薄い肌 から藍色の金魚が透け、光の中を泳いでいるかのよう。

「朝の空気って、気持ちいい」と感じるのは何故だろう。夜の帳は落ち、辺りは闇へと誘われ、この世界は自然界に住まう者へと渡される。再び朝は来て、光は戻り人間の時間が始まる。闇のひととき、計り知れない営みが行われて浄化をされる、だから人は自然にそれを知っていて眠りにつきながらも身を委ねているのかも。闇があってこその光、表裏のように闇と光は一つのもの。眠らない都会では、つい忘れてしまいそうだけど、感じようとすることは、きっとどこでもできる。

ある日の朝、私は美濃焼で有名な東濃地方岐阜県土岐市妻木町に住む奥田直樹さんに案内されて、その裏山へと歩を進めていた。自然豊かなこの界隈、よりいっそう朝を味わいながらのひとときだった。土の上を、草の上を、ふかふか踏みしめ、足の裏に伝わる地肌の柔らかな感覚。アスファルトに慣れている私には新鮮だった。ふと、真っすぐに歩くというルールを破ってみようと思った。規則正しいこと、左右の足を交互に踏むことが、本当に快いか?と身体に問いかけてみる。右、右、左と足を踏んでみたり。永い間、当たり前と思ってきた決まり事を手放してみる。次第に身体はひとつの「考え方」から離脱され、自発的に動き出し、脳の支配から解き放たれ、手、足、腰。それぞれが自由に動きゆく。私の中で遠く埋もれた記憶が呼び覚まされていくような感覚で、とても気持ちよかった。

この町には、その昔妻木城があったという。現在は城跡だけが残され、知る人ぞ知る観光地となっている。キリシタンをまつる細川ガラシャが建てたと噂される建造物もあるそう。現在もなお継がれる妻木城主が始めたと言われる勇壮華麗な神事、流鏑馬という6人の少年が馬にまたがり神社の参道を走るという祭りは、近辺の人々にとって、年に一度の楽しみとなっている。安土桃山、古田織部が生きたその時代を色濃く残す、歴史も文化も深い由緒ある町でもある。

奥田家の裏山。手前にはにわとり小屋。朝日と共に一声あげる。生みたての卵は、食卓へのぼる。
アルミの桶にたまった水が夜のうちの氷にとなっていたのを、奥田さんが「ほら」と見せてくれる。
昔は登り窯があったという裏山の土を掘れば、すぐに器のかけらに出会える。地中の水分を含んで気持ち良さそう。

「ほら、ごろごろと器のかけらが転がってるでしょ? 昔ここはのぼり窯だった。後ろを見てごらん。今日は見えないかな。天気の良い日にはね、御岳山を見ることができる」手に持ったカマで、雑草をざくりざくりと切り分けながら、ぽつぽつとお話くれる奥田さんはなんとも深く、かっこいい。職人という職業ゆえの、静かな深さなのか、奥田直樹さん自身の持つ深さなのか。今日の御岳山は見えなくとも、お話を聞いているだけで、目に心にと保養になるような清々しさだった。見上げれば真っ青な空だ。ところどころに浮かぶ雲が、雄大に流れる。両肺に、思いっきり空気を吸い込んだ、吐く、吸い込む、吐く……。

いつか訪ねた尼寺の庵主様が、今、存在しているだけで本当は完全なのだと教えてくれたことを思い出す。「こうして身体を持って、呼吸していることも、奇跡。嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、日々変わらず呼吸は繰り返すでしょ。当たり前のことを当たり前としてはいけない。心もね、吸って吐く呼吸と同じ、ただ出入りするもの。だから自分のものとしないで、気にしないで。自然界を見て、常に変化するもの。苦しいと名付けた心も、楽しいと名付けた心も自然な、流れるもの。変わるものをそのままに、一瞬の打ち上げ花火のように、表現して、忘れればいい」。

豊かな自然と奥田さんの持つ穏やかなリズムが与えてくれた「間」のおかげ。そんなこと、思い出したりして。脳みそに風を通すことができた。

彼の営む丸直製陶所は、当代で6代目。7代を継ぐのは、ご子息の将高さんである。明治の頃、薄造りの器に目をつけた水野かんべえ氏により、この地域ではヨーロッパへの輸出専門で薄造りの磁器生産が活発になり、発展を遂げていった。今では、それももう2軒ほどしか現存しないそうだが、そのうちの一軒がここ、丸直製陶所だという。

「私が病気をしましてね。一度は閉めてしまおうか……、とも思い休業をせざるおえない時期があって。そんなことで休んでいるうちに周囲では技術能力が上がっていってね。ははは、気付いたら、ここだけがまだ昔のままの作り方。今思えば、おかげさまなのか。手作業の、昔のままの工場がひっそりとだけれど残ってくれている」と語る直樹さん。この不況の中、決して楽ではない業界ではあるが、家族みんなで器を作り続け、畑からの野菜が届けば、ご飯をつくり、順に食事をすませて、また仕事をする。言葉もなく阿吽の呼吸で。淡々と引き継がれて来た繰り事。

母が銅版を貼付け、父は窯へと素焼きの器を入れる。子息は、新しい挑戦に立ち向かい、日々葛藤しながらも作業を続ける。「昔はね、円座の上で正座して、作業をする女性が並び、淡々と銅版を貼ったものでねえ。あんときは厳しかったあ」と語るのは母浩子さん。今でも、銅版貼りは、一番仕事のきれいな彼女の役割。皆、信頼をし委ねている。薄い素焼きに、和紙のようなものを、水と刷毛で貼付けていく。それも迷いはなく、そこという場所にぴたりと決める。私も試しに体験させてもらったのだが、これが見ているよりもずっと難しい。思うようにはいかないもので、目の前のことに太刀打ちできず、降参。

ろくろを引き、独自の器具を使い薄く作り上げる行程も手作業。日の光にも透ける白い肌、薄く美しい造りは、引き継がれる希少な職人技だ。乾きの早さなど、諸々薄造りゆえ考慮しなければならぬ手間もあるという。それでも、奥田家は、淡々と人の手で薄い器を作り上げながら、日々を過ごす。だんだん親戚も年をとったから集まろうかという主旨で最近こそ旅をしたりするそうだが、基本的に、外に出たいという欲は特にないそう。毎日、朝目覚め、散歩を楽しみ、自然の移ろいを愛で、工場に入り、また器を作る。それで充分、それで豊かで満足をしている。なんら疑問を持ったこともなく、寂しいという感覚が、実はよくわからないんだと、素朴に語ってくれた。

薄く光りを通す器は、奥田家の3人により、妻木町の一角でこうして人知れず作られている。自身の作った器の行く先は、気にならなくはないけれど、追うことはしていないそうだ。そういうこだわりというわけではなく、ただ術も知らないし、それで、いいのだと。
 

将高さんが釉薬にくぐらせ浩子さんが底を拭き取る作業を終えた器を並べ、窯を組む奥田直樹さん。
明治の頃流行った透かし技法。芸者さんの古典柄。先日銀座のカフェでガラスケースに陳列されているのを偶然見つけた。
素早く、誠実に、銅版を貼付ける奥田浩子さん。迷いがないということは、長年続け培われた手技を信じているからなのだと思う。
現在の丸直製のカップ。底は透かし技法による文様がそれぞれに入っている。実際にこのカップを口にあてたときの繊細な感覚は、是非一度試してもらいたい。
60〜80年前に登り窯で焼かれていたカップ。トチという窯材の上に碗を乗せ、さや(えんごろとも言う)に入れて窯の中で焼く。碗を伏せて焼くのは薄いから歪まないように。
丸直製陶所の 昔の支払いや釉薬の調合などの記録。右が昭和8年、左が明治32年のもの。
明治の頃の商社が現在は銅版印刷所を営む。すり切れれば発注をしてきているので、古くからの文様の模写にも、微差だがテイストに変化があるという。昔は自分のところで銅版も作っていたそう。

現在は、以前から取引のあるフランスの代々器を使い継ぐ家庭に加え、ギリシアにもお客様ができたという。西洋に出回ることの多い丸直の商品だから、一筋の光を通し、ワインの色も感じることができるような。小皿ならば水に浮かぶという薄造りの技術を活かしての、そんなカラフェの製作が目下の夢だそう。仕上がったあかつきには、是非そのカラフェでデキャンタし、おうちワインを楽しんでみたい。そんなことに思いを馳せながら、奥田家を後にした。「また、来て下さい」ぼそっと直樹さんからの言葉が、私に届いたのを感じた。振り向きはしなかったのだけど、密かに、嬉しかった。

一日の作業の後、陶工達が疲れを落とすべく集う場がこの山里にはある。「とんちゃん」、「けいちゃん」という鉄板で焼かれる新鮮なホルモン焼きとビールできゅっと一杯というのは職人にとって至福のひと時。この町には絶妙な雰囲気を醸すホルモン屋も点在。さらに、美味しい地酒もあり、隣町にはなんとも情緒溢れる陶器商の営むうどん屋さんも見つけた。あまりに隠れ処な場所にも関わらず、何故だか人で賑わう店。生卵をオプションで乗せるのが通だとも聞く。そして、程よい甘さのあずきが、つい何度だって食べたくなるどら焼きの店も。ここもかつて製陶業を営んでいたという菓子店。秀逸な食べ物によく出会うから、味にはうるさい界隈なのかもしれない。

再訪する気満々なのは、わかっていただけるだろうか。

 

丸直製陶所

住所:岐阜県土岐市妻木町116
Tel:0572-57-6433 Fax:0572-57-6489