デキる女のデジタル仕事術。- 2 - バロック作曲家直筆のファクシミリ譜をダウンロードしてシェアする 最先端のヴァイオリニスト。
音楽家 杉田せつ子さん

(2010.11.29)


プロフィール
音楽家
杉田せつ子

東京藝術大学音楽学部を卒業後、ウィーン国立音楽大学に留学。日本室内楽コンクール、パルマ・ドーロ国際音楽コンクールにて受賞。05年にイタリア、フィレンツェでエンリコ・オノフリ氏と出会い、バロック・ヴァイオリン(オリジナル楽器)での演奏の大きな魅力に開眼し、以来バロック音楽を演奏活動の中心に置く。06年以降、オノフリ氏が首席指揮者を務めるポルトガルの古楽オーケストラ、ディヴィーノ・ソスピーロに参加し、数々の公演やレコーディングに参加。07年よりオノフリ氏命名の古楽プロジェクト、チパンゴ・コンソートを立ち上げ、リーダーとして精力的に活動を開始。本年9月にはオノフリ氏と共に東京/福岡にて、コンチェルト、室内楽など数多くの楽曲を共演して大きな反響を得る。当代随一の天才アーティスト、エンリコ・オノフリ氏をここ日本でも、一人でも多くの方々に紹介したいと奔走中。
杉田せつ子website

 
楽曲そのものが作られたバロック時代へ思いをはせ、
インターネットと想像力を駆使して演奏や企画に反映する。
クラシックと呼ばれない「生きた」音楽を届けるために。

ヴァイオリン奏者の杉田さんが見せてくれたのは、バッハの直筆で書かれた楽譜のコピーだ。普段私たちが目にするまっすぐな音符とは異なり、曲がったり、線の太さがまちまちだったりする。

「ファクシミリと呼ばれる、たとえばバッハなど直筆のオリジナルの譜面が出版されているんです。私が専門としているのはバロック・ヴァイオリンといって、曲が作られた当時のままのスタイルの楽器(ピリオド楽器)を使って演奏するもの。当時の響きや、作曲者の思いを再現したいので、オリジナルの楽譜を見て演奏することがとても大切。たとえば、力強く太い線で描かれていたり、強弱記号の位置を何度も書き直した跡を見る事で、作曲者の隠れた意図を発見する事もあります。楽譜は私たちにとっては、役者にとっての台詞のようなものなのです。演奏家はファクシミリ譜面を入手することで、映画の世界での監督や演出家の肉声のようなものを、少しでも読み取ろうとするのです。

印刷の楽譜ももちろん見るが、本番ではできるだけオリジナル譜で演奏したいそうだ。素人目にも、さぞかし高価なのだろうと想像するが、それを聞く前に驚きの事実を教えてくれた。

「世界中の図書館にこのような楽譜の蔵書があるのですが、実はPDFファイルとして保存されはじめています。ボローニャの古い図書館などでは、おびただしい数の楽譜を公開していて、誰でもダウンロードできます。昔は直筆の楽譜を見るためにその国へ渡って、コピーもない時代は手で写していたこともあったと聞きます。それを思うと本当に恵まれた時代になりました」

もっとも、目的の楽譜にたどり着くには、相当の検索能力が必要なのだとか。

「それぞれの時代の様々な知識によるキーワードを、適宜選ぶスキルが結果を左右するのでしょうか。」

● 薬が体に作用するように、ハートに作用するのが音楽。

自身で公演のプロデュースも行う杉田さん。いざ演奏となったら、どれほどのこだわりを見せるのだろうか。

「公演はプログラムの曲順が重要です。素晴らしい音楽作品には、気持ちを弛緩させたり、緊張させたり、興奮したり、という人間の様々な感情の起伏が丁寧に用意されています。ですから曲の順序によっても心への作用が大きく変わりますよね。
曲順を決めるときには、ポストイットに曲名を書いて並べてみたり、iTunesで何度も入れ替えて聴きます。何度も迷ってやっと最後には『これで行こう』と自信を持って言えるものができあがります」

ひとつのコンサートと同じ長さの演目を何度も聞くのだから、相当に時間がかかる。それでも、曲順が決まれば、それ以外の演出は比較的スムーズに決められる。

ところが、杉田さんのこだわりは、ステージ上だけにとどまらない。

「先日の演奏会では、座席をExcelで管理しました。複数のプレイガイドにチケットを配分して販売してもらうわけですが、単純に場所で区切るのではなく、各プレイガイドで購入するお客様に、少しでも良い席を選んでいただけるように、公平に配分ができるようにと、毎日の販売状況を見ながら苦心していましたね。
1席1セルにして、Aというプレイガイドに割り当てたらピンク、Bならオレンジ、というように色分けしていました。売れたら網掛けにして、全体が黒っぽくなってくると『よしよし』って嬉しくなったりして(笑)」

作業の大変さは想像に難くないが「またやりたいですね」と笑顔で即答する。

「演奏は、『一期一会』。ステージからは、お客様の様子を空気感のようなものですごく感じますから、同じ演目を同じ会場で演奏しても、毎回違った演奏になります。『こう演奏すべき』という既成概念を取り払うことが大切で、いつもチャレンジしたいと思っています」

● iPhoneの活用で荷物が格段に減った。

iPhoneも持っているが、活用の仕方は一般のビジネスウーマンとは大いに異なる。

「一番わかりやすいのはチューナーでしょうか。『Cleartune』(※1)というアプリを使っています。ピアノの調律は平均律になっていて、音の周波数を均等に割っています。ところが、バロックの時代は曲に合わせていろいろなチューニングがありました。たとえば、ドとレの間や、レとミの間など、その曲が一番きれいに響くように調律していた。『ヴァロッティ』『ミーントーン』など様々な調律のパターンがiPhoneアプリで簡単に用意されているんです。更に自身のオリジナルの調律をセットアップすることも出来るんですよ!」

iPhoneがなかったら「こんなに大きなチューナーを持ち歩かなくてはいけない」と、両手でメロンほどもありそうなサイズを示してくれた。

「ほかにも、『iStroboSoft』(※2)という別のチューナーや、『Metron』(※3)というメトロノームを使っています。数年前に5万円ほどするチューナーを購入したこともありましたが、すぐに不要になってしまいました。アプリでは非常に安価で、驚きです。それ以外にも自分で演奏した音を入れておいてチェックするなど、本当に便利に使っています」

海外に行くことが多い杉田さんにとっては重い辞書も悩みの種だったが、それもiPhoneで解決した。

※1『Cleartune – Chromatic Tuner』
※2『iStroboSoft』
※3『Metron(Professional Metronome)』

● オリジナルのレターセットを何種類も作成。

学生に演奏を教えることもあり、そこでも杉田さんらしいこだわりが見られる。

「学生それぞれの改善すべき点を、PowerPointのスライドで渡したことがあります。演奏フォームを直した方がいい人には写真を入れて。スライドのテンプレートにちょうどいいものがあったので、そのまま写真と文字を入れました。学生には重宝されたようなのですが、丁寧が過ぎると、本人たちはかえって気が緩んでしまうようで…恋愛と同じで、相手には追いかけさせるくらいじゃないとダメなのでしょうか(笑)」

そうユーモアたっぷりに語る。

「レターセットをWordで作ってあるんです。オリジナルの飾りをつけて、プライベートの手紙やカードなど、6種類ほど用意しています。質感や色の異なる紙を何種類も用意すれば、数え切れないほどのパターンができますよね。
本文はテキストで入力して印刷することが多いですが、宛名とお礼の言葉、自分の名前は手書きで。封筒に入れて投函したり、荷物をお送りするときに付けたり、プレゼントに入れることもありますね。人に送るだけではなく、自分で使うオリジナルのメモ帳としても活用しています」

1日に多いときは100通あまりのメールをやりとりすることもあり、情報の伝達はこと足りるはず。それでも、毎日のように印刷しているというほど、手紙のアナログ感を大事にしているのだ。

● 電子楽譜が実現する日を願って

「世界中の蔵書がインターネットで多く閲覧できるようになってきましたが、もっと活発になってもらいたいですね。ファイルが一同に集まって、簡単に検索できる巨大サイトができたら夢のようです!
公演用の楽譜も、以前は主催者が演奏者に配っていましたが、最近はサーバーにアップして『ダウンロードしてください』というケースも増えてきました。有料でも配信する環境が整って、電子書籍ならぬ『電子楽譜』の巨大サイトが実現してほしいと願っています」

直筆で書かれたアナログの譜面を手に持ち、デジタルで豊かになる世界を想像する。まったく逆のようでありながらも、揺るがない信念であらゆる方法を駆使し、豊かな音楽の世界を実現していこうとしているのだろう。そう感じさせる強さがあった。

 

 

自身が主宰する「チパンゴ・コンソート」のコンサート風景。エンリコ・オノフリ氏との演奏は、聴衆にため息を漏らさせるほど繊細かつパワフル。