梵(ぼん)な道具を聴いてみる。 第二回 立夏:新緑が目にまぶしいこの季節、
寂びた古銅にみる緑青の色。

(2012.05.02)

「梵(ぼん)な道具を聴いてみる」第二回は、緑青が目にも鮮やかな古銅の古物をご紹介。
寂びてから生まれる新しい価値観を、初夏の新緑になぞらえて。

「緑青(ろくしょう)」とは。

緑青の正式名は水酸化炭酸銅といい、酸素と二酸化炭素、そして水分が銅と反応することで生成される錆の結晶である。身近な例だと古い10円玉に散見する緑色、あるいは古い時代に建立された数奇屋建築の銅葺き屋根が緑色に変化している。これが緑青である。特に青銅製の仏像は将来緑青が吹くであろうという前提で作られており、古来より美術的な観点でも利用されている。

また緑青には毒性があると云われているが、それは大きな間違いで素材的には普通物に分類される。我が国の緑青への迷信は、金属精錬が未発達の時代にヒ素類を大量に含んだ銅により引き起こされた「ヒ素中毒」が緑青による毒と曲解されていたり、足尾銅山鉱毒事件のイメージに端を発した結果であり、現在は全くの無害であることが報告されている。

緑青という「色」。

古くから緑青は顔料としても利用されている。マカライトと呼ばれる孔雀石は天然の塩基性炭酸銅を成分としており、組成は緑青の主成分と同じである。このことからもわかるように緑青という変化、つまり銅が空気と水分に触れることによりできる錆がもたらす現象は人類、とりわけ東洋人にとっては特別な価値を持っていることがわかる。それは錆びる(寂びる)ことで初めて手にすることができる芸術であり、古くなるにつれ新しくなるという一種のパラドックスを体験することでもある。仏教美術の世界で不動の人気を誇る平安時代の青銅製経筒は、そのパラドックスが具現化しており何時見ても新しく感じる。写真は高麗時代の銅鏡だが、この色にあなたは古さを感じるだろうか。

現代美術家、杉本博司氏が近著『空間感』(マガジンハウス刊)のヘルツォーク&ド・ムーロンの項で触れているが、氏は最近施工された銅葺き屋根にうつくしい緑青を見られなくなったのは、近年の地球温暖化による酸性雨の影響なのではと推測されている。仮にそれが事実だとすれば、緑青という名の時間芸術が夢想の産物となるのも時間の問題かも知れない。

高麗時代の砂張製什器

写真は高麗時代の砂張(さはり=銅と錫の合金)製の什器である。真言宗・真言八祖の第五祖、善無畏三蔵が翻訳したネパールの経典「蘇婆呼童子経(そばこどうじきょう)」によると砂張とは「妙なる砂石」のことで、修羅宮に入るには砂張で作られた五鈷杵(ごこしょ)を使わねばならないとされている。なるほど、砂張は魔を切り、場を清め、悪霊を祓うと云われており、古来より仏具が砂張で作られていたことからも納得がいく。砂張の製造技術は朝鮮半島から伝わったとされており、正倉院南倉に納められている仏具には砂張製が多く含まれている。

先述の銅鏡やこの砂張製什器は発掘品である。600年を越す時間的な価値はさておき緑青の色が冴え渡り、平安経筒にも勝るとも劣らない気品が充溢している。緑青の顕現とは普(あまね)く天からの恵みであり、その意味では初夏の葉の色と同等である。つまり草木と緑青の相性はすこぶる良い、と花で遊ぶ方々からの支持は上々。この季節、物欲はいよいよ増すばかりである。

<立夏>に聴きたい音楽
ニコ・ミューリー:『シーイング・イズ・ビリーヴィング』

トーマス・グールド (エレクトリック・ヴァイオリン)、ニコラス・コロン指揮 オーロラ管弦楽団

コロンビア大学を卒業後、ジュリアード音楽院の修士課程を首席で卒業というエリートに絵を描いたような33歳の男の名はニコ・ミューリー。しかし男はエリートらしからぬ道へと歩を進め、異種音楽との積極手な交わりにより今やネオ・クラシカルの中心的人物となってしまった。彼が作曲する楽曲の魅力とは、幅広い音楽の知識と愛情から生まれる不純性にあり、不純物ゆえの生命力の強さ、より凶暴な個体へと変化しつづける自由さにあると私は思う。
昨年の立夏にリリースされた本作は、古いイギリスの合唱曲に彼独自の視点で編み上げたミニマル・ミュージックを絶妙な塩梅でブレンドし、初夏の葉のような端々しさに溢れている。オーロラ管弦楽団を始め、鬼才トーマス・グールドをソリストに迎えることで彼の不純性をより純化させているのは間違いないが、凶暴な知性に裏打ちされた温故知新な視点も本作品の魅力のひとつである。

Bon Antiques展示会情報

5月20日(日) 大江戸骨董市へ出店予定
場所:東京国際フォーラム前広場
時間:9:00〜16:00まで(雨天の場合は中止となります)