遠藤伸雄のAgenda Musicale リッカルド・ムーティ、カラヤンを語る。

(2008.09.23)

現在日本ツアー中(9月24日まで)のウィーン・フィルの楽団長クレメンス・ヘルスベルク氏の講演会を聴く(9月17日@サントリー・ホール)。

演題は「二つの生誕100周年」で、今年むかえたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(以下”VPO”)とヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕百周年に因んだもの。もっとも、VPOの方は任意団体として、オットー・ニコライのイニシアティヴでコンサート・オーケストラとしての活動を始めたのは、130年以上前の1872年であるが、ウィーン・フィルハーモニー協会の名のもと、法人として認可されたのが1908年とのこと。

VPOの歴史や、同楽団とカラヤンとの蜜月時代やその後の様々な確執、さらに最晩年の和解、といったストーリーは、今までも色々なメディアで語られてきたので、今回のヘルスベルク氏の講演でも、あまり目新しい話は出なかったように思えたが、当夜の特別ゲスト・スピーカーとして招かれていたリッカルド・ムーティのカラヤンについてのエピソードが興味深かったので、以下紹介したい。

ムーティの見解によると(彼だけではなく、大方の見方だが)、二十世紀を代表する三大指揮者は、トスカニーニ、フルトヴェングラーそしてカラヤンである。各マエストロの特長として、それぞれがオーケストラ(演奏)に求めた点としては、トスカニーニは「エネルギーと正確性」、フルトヴェングラーは「創造性と即興性」、カラヤンは「フレーズとサウンドの美とエレガンス」である。

他にカラヤンの功績としては、良く知られているところ(かつ毀誉褒貶相半ばする点もあるのだが)の、「クラッシック音楽の大衆化の推進」及び「映像を含む最新メディアの先進的な採用」などが挙げられる。

しかし、それらに勝るとも劣らない功績として見逃せないのは、有能なタレントの発掘と彼らへの支援・プロモーションを惜しまなかった点であった、とムーティ氏は言う。この点は、先の二先輩巨匠が明らかに行わなかった(あるいは消極的であった)ことである。例えば、指揮界を見渡せば、今世界中で活躍している小沢、マゼール、アッバード、メータ、レヴァインそれに自分(ムーティ)などの俊英は、少なからずカラヤンのサポートを受け、名声を築いて来た。

これに関連して、カラヤンのエピソードとして感謝の念とともに思い出すのは、1979年にフィルハーモニア管弦楽団を率いてアメリカ・ツアーをしていた時のことである。ノース・カロライナのある田舎町のホテルに滞在していた時、朝7時に電話が鳴った。

ムーティ氏
(以下M氏)
「はい、ムーティですが……?」
カラヤン氏
(以下K氏)
(……例のダミ声で…)「Sono Karajan!(イタリア語で)カラヤンだが……」
M氏 「マ、マエストロ? 本当にマエストロ・カラヤンですか? それにしても、どうして、私の居場所が、それもこんな田舎にいるのがお判りになったのですか?(独白:それにこんな早朝に(半ば怒り!?))」
K氏 「どうしても捕まえたい人物がいて、必死で捜せば、どこにいても捕まるものさ……」
M氏 「……」
K氏 「ムーティ君、一つ頼みがある。1982年からザルツブルグで「コシ」を指揮して欲しい」

(当時カラヤンは毎年8月に行われるザルツブルグ音楽祭の音
楽監督として、演目や演奏者に関する決定権を持っていた。そして、「コシ」ことモーツアルトのオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』は、ザルツブルグではそれまでの7、8年間巨匠カール・ベームの指揮によるプロダクションが毎年圧倒的な人気を博していた。)

M氏 「マエストロ。たいへん有難いお話ですが、「コシ」は
ベーム博士が素晴らしい演奏を続けておられます。私が博士の後を襲い、指揮をするのは恐れ多いことです。それに私は、「フィガロ」は振ったことはありますが、「コシ」は演ったことがありませんし……」
K氏 「そんなことは、どうでも良い。コシを引き受けるのかどうか? Si o No? (Yes or No?)」
M氏 「は、はいそれではやらせいただきます。」
K氏 「よろしい。但し、このことは私がOKを出すまで、誰にも口外しないように……Ciao! (と言ったかどうかは不明?)」

このように、カラヤンはこれと目をつけた若い才能に大きなチャンスを与えることを大きな喜びとしていたのである。その後、ムーティ指揮の「コシ」はザルツブルグでもウィーンでも大成功を収めたことはご承知の通り。今年10月のウィーン国立歌劇場の東京公演でも、ムーティは再来日し、「コシ」を振ることになっている。(といっても、フラダンスを踊るわけではありません)

ムーティ氏のカラヤンのエピソードとしてもう一つ。

「これはあまり進んでは語りたくなかった話なのですが、ヘルスベルグ博士のたってのご希望ですので、世界中で東京の方に今晩初めてお話します」
と前置きして、カラヤンが亡くなった日の翌日の話を披露してくれた。

カラヤンは、1989年7月16日に死去したのだが、亡くなる寸前まで、ザルツブルグで歌劇『仮面舞踏会』(ヴェルディ)のリハーサルをやっていた。そして、側近に「もし自分に何かあった場合には、ムーティに代役を頼むように……」と密かに遺言を残していたらしい。

音楽祭の責任者からの17日未明の電話で、カラヤンの訃報及び『仮面舞踏会』の指揮を依頼されたムーティは、「あまりの衝撃で、今は何も考えられない。朝になったら又電話する」と一端電話を切り、「カラヤンの遺言」のことを一晩中考え続けた。そして、翌朝の電話でこう伝えた。

「カラヤン先生の代役をやれる人は、私を含め世界中に誰もいません。従って『仮面舞踏会』の上演は即刻キャンセルすべきです。」

音楽祭の主催者側では、ムーティの提案を真剣に協議したのだが、最終的には ”The show must go on.“とされ、その年の『仮面舞踏会』は、サー・ゲオルグ・ショルティの指揮で上演されたのであった。

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9月17日サントリーホールで行なわれた『二つの生誕100周年』。リッカルド・ムーティ氏。

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ウィーン・フィルの楽団長クレメンス・ヘルスベルク氏。

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当日は講演の合間にコンサートマスター、ライナー・キュッヒル氏はじめウィーン・フィルのメンバーによるカルテットで、ハイドンやモーツアルト、それにウィーン・フィルにゆかりの深いフランツ・シュミットとオットー・ニコライの作品が演奏された。

写真提供:サントリーホール