遠藤伸雄のAgenda Musicale 21世紀の吟遊詩人、イアン・ボストリッジを聴け!

(2008.10.09)

イギリスの俊英テナー、イアン・ボストリッジは、同国出身の指揮者サイモン・ラトル(ベルリン・フィル芸術監督)とともに、その動向が今世界中で最も注目を浴びている音楽家の一人だろう。「テノール歌手」と言えば、パバロッティ(残念ながら、もう生では聴けなくなった)など「三大テナー」をはじめとするラテン系スター歌手達が一世を風靡して来たが、ボストリッジは、彼らと全くスタイルの違うボーカリストだ。
column_musicale_081008_ph1m

その違い。風貌を見ると、まずボストリッジは、パバロッティなどのいわゆる典型的なオペラ歌手のような「メタボ」ではない。オックスフォード大学で歴史学の博士課程を修了した経歴を知るまでもなく、長身で痩せ型のそのルックスは、大学教授か、ロンドンのシティを闊歩する金融系(今ちょっと旗色は悪いが……)エリートビジネスマンのよう。もっと(あとの仕返しを恐れずに)言えば、スリラー映画の『エルム街の悪夢』シリーズに出てくる主人公を彷彿とさせるミステリアスな雰囲気を持っている。そう言えば彼の博士取得論文のテーマは、”Witchcraft and its Transformations 1650 to 1750 (1650年から1750年の魔術とその変遷)” というものであり、「うーん、やっぱり」って感じるのは筆者だけではないだろう。カツラをかぶって魔女のお婆さん役でハロウィーン・パーティに出て来れば、必ず受けるタイプである(イアンさん、ゴメナサイ)。

大半のテノール歌手との違いの二つ目。彼は、ヴェルディやプッチーニなどテノールの最重要レパートリーであるイタリア・オペラはほとんど歌わない。彼のオペラのレパートリーとしては、モンテヴェルディ、ヘンデル、モーツアルト及びブリテンを中心とする近・現代作品が主なものである。

これは、本人も言っているのだが、この時代(ドニゼッティからプッチーニにいたる)のオペラは「非常に大きな声が必要」なので、自分にそぐわない、とのこと。ただし、例外としては、ワーグナーの限られたレパートリーで、例えばトリスタンでの「牧童」役の録音(タイトルロールはドミンゴ)があるし、ラインの黄金の「ローゲ」は、一度歌ってみたい、と言う(2006年来日時のインタヴューより)。

ボストリッジは極めて「知性的」な歌手との定評があるが、その声の質はクールなものではない。無理を感じさせない、あくまで澄み切った高音部は、少年の面影を残しているし、中音から低音部は、柔らかいバリトンの暖かさを持っている。

彼は前記のようにオペラも歌うが、その声質を十分生かしたパフォーマンスを楽しめるのは、やっぱり、ドイツリートを中心とするソロ・リサイタルでの演奏会であろう。シューベルトやヴォルフなどドイツリートの領域では、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウとエリザベート・シュヴァルツコプフの二大歌手が、20世紀の後半にその演奏解釈を頂点まで極めた、と言われているが、ボストリッジのリートはその二人の成果を土台にしながら、新しい地平を切り開いているように思える。

ボストリッジは、あくまで純粋な(時には「控えめな」と言っても良い)その歌唱の裏で、シューベルトやブラームスなどの音楽と19世紀の詩人達の詩を借りて、現代に生きる我々の不安感や焦燥感を炙り出すように表出する。巨人フィッシャー=ディースカウの解釈が「分析的スタイル」だとすれば、ボストリッジのアプローチは「心理分析的スタイル」といわれる由縁である。ただしその演奏において、ボストリッジは「心理分析」だけに留まらず、詩人松井茂氏の言葉を借りれば「21世紀の憂鬱を官能へと治癒」するために歌うのだ。中世ヨーロッパ貴族達が各地の宮廷で吟遊詩人を待ち望んでいたように、世界中のコンサート・ホールではそんなボストリッジを待ち受けている。

例えば、彼の今年の10月から来年の4月までのコンサート・スケジュールを見るだけでも、世界中でのボストリッジの人気及びレパートリーの広さを伺い知ることが出来る。

イアン・ボストリッジ公演スケジュール

そのボストリッジが上記のように、11月に日本・韓国ツアーを行う。
今回の来日公演中、最も注目されるのが、大阪(11月15日)と東京(11月26日)で歌うマーラーとベルリオーズの歌曲のリサイタルだ。マーラーの『さすらう若人の歌』は、その内容からボストリッジにピッタリだと思われるし、メゾ・ソプラノによって歌われることが多いベルリオーズの「夏の夜」をとりあげているのも興味深い。

これらの曲、ボストリッジは確かまだ録音していないはずで、どう歌うのか、とても楽しみにしているのは、筆者だけではないだろう。フィッシャー=ディースカウがフルトヴェングラーの伴奏で歌った「さすらう若人の歌」の懐かしい名盤を聴き直しながら、ボストリッジの公演を首を長くして待っているところである。

▼来日コンサートに関しては
パシフィック・コンサート・マネジメント

▼ボストリッジのディスコグラフィー
EMIクラシック

column_musicale_081008_ph6

イアン・ボストリッジ

今回の来日公演でも歌う「リーダークライス」が聴ける

今回の来日公演でも歌う「リーダークライス」が聴けるシューマンの歌曲集(ピアノ伴奏:ジュリアス・ドレイク)。

2006年度のレコードアカデミー賞(声楽曲部門)に輝いた

2006年度のレコードアカデミー賞(声楽曲部門)に輝いたヴォルフの歌曲集(ピアノ伴奏:アントニオ・パッパーノ)