田中晃二の道草湘南《犬の鼻、猫の舌》 由比ケ浜の波音が聞こえてきそうな
鎌倉文学館のベランダ。

(2013.03.08)

雛祭りも過ぎて

今年の春は梅の開花が例年になく遅かった。散歩の途中で梅の香りに気がつき、足を停めて辺りを見回すという楽しみが、桃の節句を過ぎた頃になってようやく巡って来た。陽当たりのいい路地のあちこちでは野生の水仙の白い花も目に入る。春一番の花の香りは、一瞬のうちに爽やかな気分を届けてくれる。そんな3月のある晴れた朝、鎌倉市役所のトンネルを抜けた先にある税務署まで確定申告に行った。書類を提出し気分も晴ればれ足取りも軽く、佐助の住宅街を由比ケ浜の方へと歩きながら、久しぶりに鎌倉文学館へ寄ってみようかと思った。大通りの角にある鎌倉彫の店を覗くと、ショーウィンドウに飾られた雛人形たちが早春のうららかな光を浴びて微笑んでいるようだ。春爛漫。

招鶴洞と言うトンネルを抜けて文学館へ。源実朝が鶴を放ったとされる。
鎌倉とミステリーの深い関係

小高い丘にある文学館の見晴らしのいいベランダに立てば、晴れた日には青い海が見えるに違いないと思い、長谷の大仏を目標にして道路案内板を確かめながらの散歩だった。迷うことなく園内まで辿り着き、門のような短いトンネルをくぐって文学館の不思議な洋風建築を見上げた時に、こんなにも緑が濃い場所だったのかと改めて思う。文学館の収蔵品をジャンル別に紹介する展覧会は『ミステリー作家・翻訳家』が開催中(4月21日まで)だった。玄関で靴を脱ぎ、下駄箱に入れてから館内に上がる。ここは旧前田侯爵家の別邸だったものを戦後、デンマーク公使や佐藤栄作元首相が別荘として使用していたそうだ。欧風の様式に和風も加味されたエキゾチックな佇まいの部屋には、美しいステンドグラスが嵌め込まれている。鎌倉ゆかりの文学者は数多いが、ミステリー作家だけでもこれほどいたのかと驚く。横溝正史の『悪魔が来りて笛を吹く』、斎藤栄の『鎌倉神戸殺人迷宮』、鮎川哲也の『材木座の殺人』など、鎌倉が殺人の舞台になった作品が多いのも、湘南とはいえ影のある暗さも併せ持つ土地柄だろうか。切り通しやトンネルなどの不気味な場所があちこちにあるし。ステンドグラスや古い調度品に囲まれた部屋で、作家の手書き原稿用紙を熱心に覗いたり、窓の向こうに広がる庭園を眺めたりしていると、明らかに日常とは違う時間が流れているのを感じる。2階の奥にある談話室からベランダに出てみると、正面に由比ケ浜の海が光って見えた。想定通りだった。ここからの景色は別邸が出来た当時のままなのだろうか。

ミステリーと言われて私の頭にすぐ浮かぶのは、チャンドラーやロス・マクドナルドなどのハヤカワ・ミステリ系で、日本のミステリーには疎いのだが、最近話題なのは、北鎌倉の古書店(架空)を舞台にした『ビブリア古書堂の事件手帖』らしく、2月にはその装丁用のイラスト原画が展示してあった。明るい色調は湘南のイメージそのもの、殺人事件を暗示するような暗さはかけらもなかった。

三島由紀夫が『春の雪』執筆のため取材したという。
2階の海側を取り囲むようにベランダが広がる。
文学館の入場券にも使われているステンドグラス。
海に開けた庭から離れて見上げると青い屋根が美しい。
澁澤龍彦と堀内誠一

館内の小部屋を巡って行くと、北鎌倉に住んでいた澁澤龍彦の没後25年特集展示コーナーを見つけた。彼の遺品や原稿、著作物を見ながら、私が大学生時代に最初に読んだ澁澤龍彦の本、『夢の宇宙誌』を思い出した。天使は男性でも女性でもないアンドロギュヌス(両性具有)であり、ヒエラルキーという言語は天使の九階級ある位を表すという、まあ知らなくてもいいような知恵の愉しみをこの本から教わった。文化や芸術における本流よりも傍流の異端なものに、より興味を持つようになったのは多分にこの本の影響が強い。そういう時代でもあったが。連想ゲームのように、『anan』創刊の頃に翻訳連載していたシャルル・ペローの『猫の親方あるいは長靴をはいた猫』の記憶もイラストレーションとともに蘇った。女性ファッション誌と澁澤龍彦の異質な組み合わせは衝撃的だったが、後になって、『anan』のアートディレクターでもあった堀内誠一さんと親しかったことを知った。その二人が1987年の夏に同じ病で若くして死ぬなんて、なんとも不思議な因縁だ。

園内あちこちに鎌倉ゆかりの文学碑が。鎌倉は生きて出にけん初松魚 芭蕉
水仙は花が終わっても葉を切らないでおくほうがいいと澁澤龍彦は書いた。
バラの頃、再び文学館へ

家に戻り、私の書棚から澁澤龍彦の著作本を数冊探し出して懐かしんだ。ユイスマンの『さかしま』でギュスターヴ・モローやルドンの絵画を知り、パリの美術館へ見に行った経緯を以前のブログに記した(下記にリンクあり)。

『フローラ逍遥』は、水仙や梅、ライラック、葡萄、薔薇、合歓など25の花にまつわる随筆と内外の歴史的な植物図譜を集めた本だ。北鎌倉の彼の自宅にあった梅の老木の話が出てくるが、今年も凛と咲いたのだろうか。薔薇の章では、イランのイスパハーンに旅行した時、ホテル中庭に咲き乱れるペルシアのバラの思い出が語られている。鎌倉文学館の広い庭にも手入れの行き届いたバラ園がある。ガイドによると191種230株あるらしい。6月の花の季節、紅茶のようなバラの香りでいっぱいになる頃にもう一度訪れ、のんびりベランダで澁澤の本を読むなんて、いいかも。

●ギュスターヴ・モロー美術館、
螺旋階段の魔法。

『さかしま』桃源社1966年 『フローラ逍遥』平凡社1987年 『夢の宇宙誌』美術出版社1964年
バラ園には、『静の舞』『鎌倉』『流鏑馬』など当地ならではの品種もある。

鎌倉文学館
住所:神奈川県鎌倉市長谷1-5-3
TEL:0467-23-3911
開館時間:3月~9月 9:00~17:00(入館は16:30まで) 、10月~2月 9:00~16:30(入館は16:00まで) 月曜休館(祝日の場合は開館)