福島原発 池田香代子ブログから “嘘と真のこのくにのメルヒェン”
ふくいちよう、と原発につぶやく声。

(2011.04.18)


 

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」

タイトルは、ツイッターに流れていた表現です。これを見たとたん、私は無限の哀しみに襲われました。



「ふくいち」とは、言わずと知れた福島第一原子力発電所のことで、東京電力がつけた略名です。親しみ深さを狙っているのでしょう。それをそのまま受け止めて、「つもり」という語をつなげて、恐ろしい過酷事故を起こした原発をかわいらしく擬人化しています。過酷事故による放射性物質放出も、「もくもくする」とユーモラスに表現しています。



「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」



そう書いた方に、この事態を矮小化する意図はなかったでしょう。そうではなく、「ふくいち」にこうして呼びかけて、哀しみを表現しているのだと思います。これが私たちの、綿々と続いている心性なのではないでしょうか。「私たち」がどのような範囲を示すのか、私にはわかりません。古来、この列島に住まう人びとなのか、アジアなのか、その一部なのか、あるいは地理的境界に意味はなく、権力からの遠さが「私たち」を規定するのか。わからないままに「私たち」と言っています。



怒るのではない。そこにあるのは哀しみ。どんな凶悪な厄災にも、「ふくいちよう」と呼びかけて、呼びかけ可能なものに変換して、引き受ける。引き受けてしまう。逃げない。たたかわない。



弥生人なら、「おぬしらいつまでわれらを殺すつもりだ」と呼びかければ、縄文人を殺すことに意味はないと悟って、殺すことがばかばかしくなって、ほっておくことにしたでしょう。巨石や巨木を信仰していた人びとは、「そんなのだめだ、カミをまつれ」と言われれば、巨石や巨木の手前に社を建て、「仏をまつれ」と言われれば、社のとなりに寺を建て、なにもかも受け入れて矛盾を感じませんでした。天下人が代わっても、黒船が来ても、戦争が来ても、占領軍が来ても、受け入れて、受け入れて、その果てに、今、「ふくいちよう」と呼びかけています。



フランスの原発も、アメリカのスリーマイル島の原発も、そこで起こっているのがきわめて重大深刻なことであることをいやが上にも強調する、仰ぎ見る者をひれ伏させる、まるで宗教施設のような外観です。ところが「ふくいち」の建屋は、正方形に近いかたちをしていて、水色に白の模様が飛ぶ塗装がなされています。いかにも軽い外見です。原発に威容を誇らせようとしないのは、このくにの特徴です。原発は空の色とも海の色ともつかない薄青をまとって、その安っぽい迷彩は迷彩の用もなさぬまま、海と陸の境界に忍びこみ、でんと居座っています。この様式観は、「ふくいちよう」と呼びかける心性と呼応しています。



こんなことだから、あの戦争で空襲にあった人びとがいくら裁判に訴えても、国民は等しく受忍しなければならない、と一蹴されてきたのです。今、私たちが放射線を受忍させられているのは、まさしくその延長です。



「ふくいちよう」といくら呼びかけても、弥生人と違って、そこから今後もどしどしまき散らされる放射性物質は、私たちの命をうっすらと軽くすることをやめはしません。ふるさとを奪い、生計(たづき)を奪い、家族を、人生を奪うことをやめはしません。

私は無限の哀しみに沈んでいます。
(2011年4月15日08:42)

 

池田香代子ブログ