田中晃二の道草湘南《犬の鼻、猫の舌》 近代美術館 葉山の、
眺めのいいレストラン

(2012.11.28)

初めてクレーの絵を見た記憶

もう40年以上も昔の1969年夏、大学生だった私は鎌倉八幡宮の境内にある神奈川県立近代美術館で『クレー展』を見た。この美術館へ来るのは初めてだったし、美術雑誌などでしか見たことがないクレーの絵の現物を見るのも初めてだった。抽象と具象の境界を細い線で分割し、静かな音楽が流れるような独特な色面の水彩画を今でもはっきり記憶している。それと同時に、白い箱のような美術館のテラスから見た八幡宮の池と境内の深い緑の印象もうっすらと思い出すことが出来る。美術館と絵画がぴったり呼応するような、記憶に残る素晴らしい展覧会だった。その後クレーの絵にはスイスのベルン美術館で再会する機会があったが、鎌倉の美術館にはずっと足を運んでいなかった。逗子に暮らすようになって八幡宮にも度々来る機会があり、森陰の白い近代美術館を見かける度に『クレー展』の記憶がよみがえる。

鎌倉と葉山、二つの近代美術館

八幡宮境内の平家池に浮かぶ白い船のような近代美術館は、坂倉準三の設計で1951年開館した日本の近代美術館の先駆けだ。坂倉はル・コルビュジェの弟子ということだからか、四角い箱形の部屋や、螺旋構造、柱を生かしたテラスや中庭などに師匠の面影を見つけることができる。美術館はすでに還暦を過ぎ、間近で見るとあちこちに傷みもあるが、赤い八幡宮と対をなす現役の建築物として境内の森にとけ込み、今ではすっかり鎌倉の風景となっている。いつまでも元気でいて欲しい、と我がことのように感情移入してしまう。

美術館の裏手まで丘陵が迫る。葉山は山間の町だ。
美術館の中庭の四角い空。秋の雲だ。

その鎌倉美術館の子供とでも言うべき美術館が10年前に葉山に出来た。御用邸の松林が続く一色海岸沿いにあって、何処からでも湘南の明るい海が見え、潮騒も聞こえてくるところだ。照葉樹の明るい丘陵を背景にして、鎌倉美術館と同じように中庭もあるが、その一面は海に向かって解放されている。佐藤総合計画という、鎌倉とは別の設計だが、共通するコンセプトに親子の関係を感じてしまう。年中混雑する鎌倉と違ってクルマで行きやすい葉山ということもあり、逗子に引っ越してからは度々訪れていたが、この美術館の敷地の特等席とでも言う場所にあるレストランは未経験だった。

美術館へ行く理由

10月末の晴れた日に、念願のレストラン計画を実行しようと葉山へ向かう。逗子の自宅から海沿いにクルマで15分ほど。例によって、見る前に食おう、と思いガラス張りのレストラン『オランジュ・ブルー』へ向かったが細長い室内は満席だった。仕方なく企画展を先に見ることにする。まあ、これが順当な行動ではあるのだが。この時は『ビーズ イン アフリカ』という企画展で、国立民族学博物館のコレクションが展示されていた。アフリカで冠婚葬祭などに使われた装身具は現代のモードやアートに通じるものもあり、繊細で緻密で大胆、とても素晴らしかった。パリのケ・ブランリー美術博物館で同様の仮面や飾り物を見たことがあるが、暗くてお化け屋敷みたいな館内には気分が重くなったものだ。葉山美術館の明るい展示室の中では、濃い思いが込められた祭事などで使われた衣裳なども客観的なオブジェとして見ることが出来て、鑑賞する環境や展示の仕方でこうも違って見えるものかと不思議な気がした。現在はイギリスの彫刻家アントニー・ゴームリーの彫刻プロジェクト『ふたつの時間』を開催中。(こちらは屋外での期間限定企画2013年3月3日まで)

湘南の海に開いた、まるで石の舞台のような中庭。
アントニー・ゴームリーの彫刻の男が、海に向かって無言で立つ。作品は西雅秋《大地の雌型より》©Antony Gormley
海に手が届きそうなテラス

レストランは平日の昼だというのに、アラフォー女性客グループで賑わっていた。といっても店内は9テーブルしかないのだが。奥の、海寄りの席に案内される。緑の芝生越しに御用邸の松原と一色海岸が見える素晴らしいロケーション。カレーにしようかと思ったが、横須賀美術館でも食べたし、美術館カレー巡りをしているわけでもないし、2,000円のAランチ(魚のムニエル・コース)を奮発する。美術品の鑑賞と同じで、素晴らしい環境での食事はより美味しく感じるものだ。ほんとうは屋外の海に近いテラス席で食べたかったのだが、トンビに悪戯されるそうなので不可だった。そこんとこ無理を言って、デザートとコーヒーだけ、テラスに運んでもらった。店内はとても明るいのだが、外に出ると海の光が日焼けしそうなほどに強烈で眩しい。秋の風に潮の香も濃く、ライヴ感がわっと迫る。ガラス一枚隔てただけで、こんなにも違うものかと驚く。のんびりとコーヒーのお代わりでもしたい気分だったが、一人だし、長居は無用、ケチな性分の私はレストランのレジで駐車券を貰って帰るのだった。

Aランチは魚のムニエル。写真はそこそこ、冷めないうちに食べないと。
海と空の表情が刻々と変化するのをのんびり眺めていたい。

神奈川県立近代美術館 葉山
神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
「桑山忠明展 HAYAMA」開催中(2013年1月14日まで)
次回展「美は甦る 検証・二枚の西周像」(2013年1月26日~3月24日)