福島原発 池田香代子ブログから “嘘と真のこのくにのメルヒェン”
続々・福島原発で作業している人々

(2011.04.27)

続々 福島原発で作業にあたっている人々の状況は

若葉に照る陽光に目が眩(くら)みます。光の奥に暗闇を感知する瞬間です。進学進級した子どもたちに目を細め、幸多かれと願う心の奥にどうしようもない鬱屈が居座っています。耳の奥では、「ラ・ソ・ミ」とゆっくりと念を押すように降下する音程にのせて歌われる「よん・に・さん」という声がエンドレスに繰り返しています。

これは、1996年の暮れに発生し、およそ4カ月後の97年4月22日に解決を見たペルー日本大使館占拠事件を歌った中島みゆきの「4・2・3」という作品です。なぞめいた数字は、事件終結の日本時間の日付。歴史に記録される日付ではなく、作者があくまでもわがこととして引きつけた結果、選ばれたのかこの日付ということだろうと思います。中島みゆきは、テレビの実況中継を見ている人の視点から、犠牲となった兵士が担ぎ出されていく画面にかぶせられるリポーターの興奮した声が、日本人人質の無事解放のみを伝えることへの異和感を表現しています。同感です。付け加えるとすれば、日本と名のつかないものへの冷淡さは、日本と名がつくものへの冷淡さとじつは等価であり、それが近 代国民国家の「正体」だ、ということです。

ドイツには、悪魔と契約していっとき栄耀栄華を楽しみ、その代償に地獄に連れ去られる人間の伝説があります。ゲーテの『ファウスト』は、この伝説をもとにしています。これはあくまでも見かけ上ですが、今現在の私たち、とくに原発を誘致した地域の人びとにぴったり当てはまってしまいます(見かけ上と言う意味は、あとで書きます)。なかでも、この地域をふるさととし、原発に職を得た人びとに。なぜなら、原発による地域振興も、人びとの人生設計も、事故が起きたらすべてを失ってもらおうという暗黙の約束のもと、その見返りにあたえられた時限つきのものだったことが明らかになったのですから。今このくにの美しい春の空には、悪魔の勝利の哄笑が響いているのではないでしょうか。

原発をうけいれるとは、そういうことだったのです。約束どおり、人びとはふるさとを失いました。さまざまな花がいっせいに咲く春爛漫のふるさとで、丹精こめた牛たち豚たちが餓死していく遠い空を、人びとは今どんな思いで仰ぎ見ているのでしょう。交付金で建ったりっぱな公民館も体育館も、おいしい米や野菜をつくってきた田畑も失われました。原発で働いてローンを返していくはずだったわが家も失われました。

福島原発で働く人びとは、原発の安全を信じ、国のエネルギー政策の一端を担うことを誇りとしてきました。今なお使命感に突き動かされ、家族を避難所に置いて、体育館の床に仮寝の夜々を過ごしています。その人びとの年間許容被爆線量は、かつては50mSvでした。そんな低線量では経済的に見合わないと、90年代に世界の原発を取り仕切る人びとが2倍の100mSvに変えました。それがこのたびの事態をうけて、100mSvから250mSvへ引き上げられたのも束の間、さらに500mSvへと引き上げられるという話が出ています。

そこに一貫しているのは、国民の生命財産を守る国家の厳粛な責任でもなんでもありません。むきだしの経済合理性です。それを国と電力会社は一体となって、日本のエネルギー政策にかかわる事故に日本人なら立ち向かうべきだと、個々人の倫理観の問題にすり替えている、私にはそう見えます。みずから被災しているにもかかわらず緊張した労働に耐えている人びとを、固い床に寝かせ、レトルトの夕食を食べさせ、お風呂にも入れないで平気な神経は、悪魔のそれにも匹敵します。子どもたちの許容被爆量を原発労働者並みにひきあげるのも、経済合理性にもとづいており、悪魔の所業です。悪魔のエージェントがかれらです。

原発誘致が悪魔との契約だと腹をくくっていた人が、地元にいるわけがありません。けれど人びとは、ふるさとを奪われ、家や田畑を奪われ、仕事を奪われました。人生を奪われました。子どもたちの未来まで奪われるのではないかと怯えています。原発は棄民棄土を担保にしなければなりたたない、ろくでもないしろものです。担保を差し出させられるのは、原発を推進したい国家や企業ではありません。悪魔と契約するファウスト伝説と違って原発という悪魔と契約する国家や企業が汚いのは、リスクを支払わされるのが契約した者ではなく、そうではない人びとだということです。それが最初からわかったうえでの、悪魔との契約だということです。しかもそれを、原発を誘致した地域こそが悪魔と契約したかのように、はした金を地域に落として偽装していることです。原発を推進することで真の利益 をあげているのは、地域の人びとではありません。国家と原発の関係には、二重底の下に隠された暗黒の事実がわだかまっています。

電力会社は、逆さにして鼻血も出ないほどすっからかんにして、人びとに償うべきです。それでも、人生もふるさとももとどおりにはならない以上、生身の人間の心に深く残ってしまった傷は消えない以上、電力会社がリスクをとったとは言えません。国家しかり。国家は、日本と名のつく土地だからこそ、人だからこそ、自らが使用できるリソースと考えてこれを担保に原発を推進し、切り捨てうる原資と考えて事故の処理をしているのです。私企業の事故処理に、私たちの税金を増やして注ぎ込もうとするのです。日本と名のつかないものに冷たい国家は、いざとなったら日本と名のつくものにこそ冷たい。このたび日本という国家は、慌てた時に正体を顕しました。

あまりの怒りに、呪詛のような文章になってしまいました。
(2011年4月23日00:30)

 

池田香代子ブログ