from パリ(たなか) – 85 - ギュスターヴ・モロー美術館、
螺旋階段の魔法。

(2010.12.20)
ギュスターヴ・モロー美術館の主役は、優雅な螺旋階段だと思う。

フランス文学が元気だった時代に、何かの成り行きでユイスマンの『さかしま』という風変わりな小説(というより美術評論?)を、少しだけ、読んだ。ほとんど忘れてしまったが、本のカバーだったか口絵にモローの『まぼろし』というタイトルのサロメが踊っている絵があり、初めて見た時はとても衝撃的だった。神話や聖書をテーマにモローが描く絵の人物像は、どこか生き身の人間っぽくなくて、CGアニメーションのアンドロイドのような不自然さがファンタジーの世界にはぴったりな感じがした。他の絵も見たくて画集などを探しても、当時(今でも?)マイナーなモローの絵は、幻想美術や象徴主義をテーマにした澁澤龍彦の書物の図版に載るくらいで、東京の洋書店でもなかなか手に入らなかった。
 

地下鉄トルビアック駅だったかな、このポスター欲しいなと思った。
日の当たる坂道の途中に、モロー美術館はある。

それから10年以上過ぎ、最初にパリに来た時に念願のモロー美術館へ行って、実物を文字通り山ほど見て積年の欲求不満は一気に解消したのだったが……。それにしても“美術館”のがらんとした高い天井の部屋に、壁中が絵だらけという展示の仕方には驚いた。いわば、モローの絵の倉庫に入る様なもので、現物カタログを見るというか、絵に埋もれて窒息しそうな状態をファンとしては喜ぶべきかもしれないが、しかし、歩くとギシギシ鳴る床や、何年も入れ替わってないような空気の感じ、不思議な螺旋階段など、絵よりも写真スタジオのようなアトリエ空間の方が強く印象に残った。

今年の秋にパリの地下鉄駅構内で、偶然モロー美術館のポスターを見た。『パリのユニークなメゾン・アトリエ』というタイトルで、あの螺旋階段と壁面の絵が画面いっぱいに写っている。むかし行った時の記憶が鮮明に蘇る。ポスターのデザインを見て、あの美術館はやっぱり螺旋階段が一番だと思った私の印象が承認されたようで、嬉しくなってしまった。よし、20年ぶりにもう一度行って、踊るサロメに会って、階段からの眺めを楽しんでこよう。

階段を半回転上がって、後を振り返る。
一回まわった踊り場から、下の階の絵を眺める。
手摺のラインと、階段の裏の白い曲面が優雅に絡まり合う。
波打つ手摺。見ても美しいが、手に触れても優しい。
階段の上まで行くと、3階の絵が徐々に姿を現す。
3階の“小品”。モローは絵の展示位置も生前に指定したそうだ。

パリ9区、地下鉄トリニテ・デチエンヌ・ドルヴ駅から北へ、ちょっと坂道を上ったところにギュスターヴ・モロー美術館はある。入口は普通のアパルトマン風なので見過ごしてしまいそうだが、垂れ幕でそれとわかる。元住居とアトリエには膨大なコレクションや作品が公開されていて、日本人見学者も多いのかドアに日本語の表示もあった。むかし来た時は、ちょうど昼休み時間で、しばらく外で待って入ったのを思い出した。まず1階の奥にある居間や書斎、寝室などを見学する。この部屋からすでに壁一面を埋めるように額が並べられ、モローの世界が展開している。ここを見たら、大作が壁いっぱいに掛けられた2階アトリエへ。床が鳴るのは昔通りだ。壁がきれいになったような気がする。天井まである絵に圧倒されながら一回りして、螺旋階段の前まで進む。壁の絵だけでなく、表通り側の窓の下のカーテンの奥や、回転ロッカーみたいな木製の収納家具にも水彩画やデッサンがあって、すべてを見ようと思ったら1時間あっても足りない。とにかく、まずはさらっと一回りするのがよろしいかと思う。

そして、いよいよ螺旋階段。木の手摺に掴まり、少し上がっては振り返って下の絵を見下ろしつつ、ゆっくりと階段を上って行くと、1回まわった位置に物見台のような踊り場がある。ここで休んで、見て来たばかりの壁面の大作を俯瞰する。見下ろす視点が新鮮で、すごく贅沢。なんか、王様にでもなった気分。もう1回まわると、目の位置が天井を突き抜けて床の面になり、せり上がるようにして上の階の絵が眼前に出現する。ドラマチックな演出だ。この階段はモロー自らアトリエと同時に設計したものらしい。2回転の途中に踊り場を作ったのが納得できる。制作中の大作や、完成後の絵を、モローもここから眺めたに違いない。
 

勇敢な一角獣も、乙女にだけは、からきし弱いらしい。
理科室のような収納家具が、素敵です。

フランス(ヨーロッパ)にあって日本にないもの、その一つが螺旋階段だ。シャルル・ドゴール空港のターミナル1にもあるし、ルーヴルのピラミッドの下にもあるし、私のアパートも螺旋階段を上った2階だ。パリでは普通に目にする螺旋階段が、日本では灯台とかビルの非常階段にあるくらい、なぜ少ないのだろう。石の家と木の家の文化の違いだろうか? 機能的で空間の効率も良さそうだし、なんといっても回りながら景色が変って見えるのが素晴らしい。教会の狭くて暗い階段はちょっと勘弁だけど。そういえば、モンパルナスのアンリ・カルティエ・ブレッソン財団の写真美術館にも、明るくてモダンな螺旋階段がある。五線譜のようなデザインの手摺からは、モーツアルトの軽快なピアノ・ソナタでも聞こえてきそうだ。春に行った時には、窓越しに満開の八重桜も見えて、それはもう素晴らしかった。無限に繰り返すような螺旋形には、人を引きつける魔力があるような気がしてならない。
 

カルティエ・ブレッソン写真美術館の、白い螺旋階段。
五線譜のような手摺、階段は鍵盤のようだ。