from パリ(石黒) - 23 - パリ・アート散歩(13)セガン島
ルノー工場跡地、再生の変遷と未来

(2012.10.11)

文化遺産とは?

フランス語でpatrimoine culturel、英語でcultural heritageと言い表される文化遺産。文化遺産というと、まっさきに思い浮かぶのは、ユネスコによる世界遺産ではないでしょうか。人類全体にとっての財産として、経年や忘却による劣化を防ぎ、戦争や国際紛争などによる脅威から保護し、後世に伝えていくべき文化遺産、自然遺産。古都京都の文化財、ヴェルサイユ宮殿と庭園、アメリカのイエローストーン公園などなど…、1972年に締結された条約では、建造物、景観といった形あるものが対象だった世界遺産という概念も、1980年代に入り、慣習、伝統芸能といった無形のものにまで意識が広がり、2003年には無形文化財の保護に関する条約が採択されるまでになりました。モロッコ・マラケッシュのジャマ・エル・フナ広場、スペインのフラメンコやポルトガルのファド、沖縄の組踊といった伝統文化、そして今日では、「地中海の食事」といった日常の生活スタイルにまで及んでいます。文化の多様性、地域性を尊重し、その伝承を推奨していく事は、グローバル化が進む世界で生きる私達の日々の生活の中でも、忘れずに心がけていきたい事ですね。

文化遺産保護に関してフランスは早くから取り組んでいます。フランス革命期、多くの建造物や彫刻物が破壊されましたが、1830年には文化財調査官による視察が行われています。1972年、明治期の日本で、初の文化財調査である壬申検査が行われたのは、廃仏毀釈による仏像破壊や、それに伴う文化財の国外流出の状況を調査するためでもありました。大規模な破壊の後、失われた姿を求めて実況検分・調査が行われるのは、どこの国の歴史でも同じですね。1913年には歴史的建造物に関する法が制定、1962年の税制上の優遇措置法を組み込んだ都市計画など、フランスでは国家主導の文化遺産政策が取られています。それもそのはず、フランスのGDPの6,5%を占めるのが観光業。文化遺産がどれほど観光資源として貢献しているかは、火を見るより明らか。その重要性は、2010年サルコジ大統領によって開かれたフランスの文化遺産に関する諮問委員会の答申結果「1ユーロの投資が、どんな形にせよ10ユーロの経済効果を生み出す」にも的確に表れています。

文化遺産、その様々な形態

上記のような大きな箱物文化遺産のみならず、patrimoineという言葉には様々な形容詞が付けられ、独自の発展を見せています。patrimoine ruralあるいはpatrimoine de proximitéは「地域文化遺産」とでも訳しましょうか。20世紀初頭まで使われていた地元の洗濯場とか風車とか、住民の共同生活の「記憶」の場。日本でいうなら道端のお地蔵様のような感覚で、国家レベルの文化遺産ではないけれど、大切にしていきたい地域に根ざした継承物・慣習などを指します。そしてフランスではここ10数年来で急激に注目を浴びるようになったpatrimoine industriel。「産業」という言葉が示す通り、炭鉱、製鉄工場、鉄道、運河など、地域に根付いていた産業の姿を伝える遺物のことで、ヨーロッパでは特にイギリスが既に1940年代から産業遺産の取り扱いに注意を払っていました。フランスでは、1990年代から産業遺産への見直しがじわじわと始まり、今日ではフランス東部の工業地域アルザス・ロレーヌ地方で、閉鎖した工場跡地を改装して、教育、観光資源として再利用する活動が盛んです。

宮殿や城といった文化遺産は、王家や領主といった所有者の歴史の証。工場や鉄道といった産業遺産の裏にあるのは「企業」の歴史。単なる時系列を追った「社史」(histoire d’entreprise)の中の一項目として埋もれて、忘れ去られてしまうのではなく、その場所が企業にとってかけがいのない「企業遺産」(patrimoine d’entreprise)となるには、「地域文化遺産」と同じように「労働者共同体としての意識と記憶」が必要。当然ですが、工場が「跡地」になるのは、工場閉鎖が発端。工場閉鎖は、そこで働く労働者のみならず、家族、地元の商店、下請け業者、輸送業者などを巻き込んで、大きなインパクトを地域にもたらします。今まさにフランスの生産業・重工業が国内工場の閉鎖を巡って対面している課題。当然ながら、地域全体が「共同生活」の終焉に、喪に服すわけですが、毎日の生活を記憶として昇華するのは容易い事ではなく、「工場閉鎖、ではすぐに会社の歴史見学施設に再利用」とはいきません。この状況を約20年前に生き、20年かけてようやく一つの「形」となりつつあるのが、仏自動車メーカー・ルノーの工場跡地が残るセガン島の再開発計画です。


右・ルノー橋は2009年にブーローニュからセガン島へと掛けられた橋。
左・セガン島内は、緑が植えられ、公園として開放。右奥に見えるのが、 Madona Bouglioneが運営するCirque en chantierというサーカス施設。世界中から著名なサーカス団が公演にやってきます。

右・セガン島内のレストランLes Grandes Tablesは、Arnaud Daguinによるオーガニックでローカル野菜をメインにしたメニュー。
左・ルノーはヨーロッパ初の電気自動車センターを、ルノー橋の足元に開設。予約をすれば、無料で、ルノーの電気自動車をセガン島内のコースでテスト運転することができます。
セガン島、ルノーの自動車工場と閉鎖後のインパクト

セガン島はその昔、ヴェルサイユとパリを結ぶセーヌ河に浮かぶ島として、貴族達の河遊びの場として知られ、19世紀後半には印象派たちが風景画を描くために立ち寄る場所でした。ルイ・ルノーは、1898年にパリ郊外南西部のブーローニュで、自動車会社を設立。瞬く間に周辺の土地を獲得し、広大な工場施設を作り上げていきます。1929年から建設されるセガン島工場は、島を縦断する生産ライン、島内に自前の電力発電、地下テストコースを備え、さらに島から直接河川輸送を行うなどの画期的な生産体制を整え、3万人の労働者が働くルノーの主力生産拠点となります。戦後、ルノーは国営化。50年代以降、ルノーは伝説的大衆車4CVをこの工場から次々と送り出し、60年代には激しい労働組合運動の中心地となり、フランス人にとっては、社会現象のシンボル的存在に。70-80年代以降、日本の自動車メーカーに代表されるようなジャストインタイム生産システムが主流となっていく中、セガン島の設備・ライン配置は時代遅れに。自動車業界の熾烈な競争に対抗できず、1989年に工場閉鎖が発表。1992年に最後の自動車Super5が生産ラインから出され、工場はその歴史に幕を下ろしたのでした。

その後、建物や土地から汚染物質等を除去する作業がなされ、2005年には工場施設が取り壊され更地に。11ヘクタールの広さを持ち、パリから目と鼻の先という最高の立地はまさに再開発業者にとって垂涎の的。セガン島には既に1999年から 、グッチ、ブシュロン等のスーパーブランドや百貨店プランタンなどを傘下に納めるラグジュアリーグループPPRの所有者フランソワ・ピノのコンテンポラリーアートコレクションを展示する美術館建設計画が浮かび上がります。ご存知の通り、このプロジェクトは、行政・交渉の遅延状況等にピノ氏がしびれを切らし、2005年にセガン島から手を引き、ヴェネチアのパラッツォ・ガラシにて2006年に実現することに。周辺地域の経済効果も計り知れなかったであろうドル箱プロジェクトを逃してしまったセガン島は、その後も幾つかのプロジェクトが提案されるものの、実現からは程遠い状況のまま、工場閉鎖より20年弱の年月が経つことに。

セガン島から、南側に位置するムドン市を臨む。緑の丘とセーヌ河に浮かぶ船(péniche)が美しい。

左:ムドン市側からのセガン島の眺めは。色とりどりのタグがいい感じ。
右:ルノー工場時代の地下テストコースや、河川輸送用のアクセス部分などが残っている。

左:ブーローニュ市側からのセガン島の眺め。ルノー工場の入り口がまだ残る。
右:何万人という工員が渡っていたこのデイデ橋は1928年にセガン島に掛けられた。
セガン島再開発プロジェクトとルノーの歴史の位置づけ

20世紀初頭から稼動し続けたセガン島の工場。周辺には、ロシア、東欧からの労働者、戦後はアルジェリアやモロッコなどから出稼ぎに来た労働者たちが多く住みつき、フランス人労働者と共にセガン島工場を共通項に共存していました。工場は、運命共同体。工員たちは、ルーツは違えど、一つの大きな家族として繋がっていました。当時、ルノーの管理職だった人々も、会社の発展のために工場を国外に拡散する戦略の裏で、数々の伝説的な車を生み出し、ルノーの発展に大きく寄与したセガン工場への、気持ちの上での結びつきは大きかったといいます。彼らは工場閉鎖後、有志を募ってATRIS(元工員がメイン)、AMETIS(元工場管理職がメイン)という協会を立ち上げ、SHGR(ルノー元社員による歴史研究称揚協会)と共に、フランスの自動車産業史、社会史に深く刻まれたこの地でのルノーの歴史、社員たちの記憶を分かち合うための活動を続けています。

セガン島を管轄するブーローニュ・ビヤンクール市は、ピノーの美術館プロジェクト頓挫以降、新たに島を、セーヌ河周辺地域の文化・芸術の中心地にする計画を立ち上げます。2009年に建築家ジャン・ヌーベルが都市構造プランを担当することが決定。2010年7月にそのプランが発表。音楽ホールやデジタルアートセンター、映画館やビジネスセンターを備えた複合施設が2017年の完成予定ですが、景観を害するとの理由からタワーの高さを巡って市議会で修正案などが逡巡中。パリ環状地域の政治的思惑や周辺住民との緩衝など、大規模再開発は一筋縄ではいかないのが常ですが、構想の承認を待つ間、セガン島では実験的な期間限定の文化プロジェクトが行われています。そのうちの一つが、ブーローニュ・ビヤンクール市、SAEMヴァル・ドゥ・セーヌ開発会社企業ルノーの合同で、今年2012年9月10日に落成したセガン島の過去・現在・未来を繋ぐパビリオン。ルノーは、セガン工場から出荷された伝説的な車を中心に入れ替え展示の予定。先述したボランティアによるルノーの歴史に関する協会の3つは、工場内での生活、周辺社会との関わり、社員の連帯感などを、豊かな資料を持ち寄り、展示協力しています。


左:カラフルなコンテナを積み重ねた設計のセガン島パビリオン。
右:開館は3年間(予定)の期間限定。入場無料。

伝説的大衆車4CV(4L、R4)は第二次世界大戦後この島で大量生産。夏ヴァカンスはこの4CVで出発が普及。有給休暇を満喫する自由の象徴に。
未来へつなぐ地域と企業の文化遺産マネジメント

今回のような工場跡地を企業の文化遺産として再開発するのは、周辺住民の生活・気持ちに大きく影響し、既に企業の手が離れてしまっており、規模の大きさから政治的にも財政的にも舵取りが難しいケースの一つといえます。企業がどれだけ自社の「歴史的価値」に重きを置いているかという点にも左右されます。一概にはいえませんが、やはり家族経営の大企業は「家族の歴史」を守り、伝えていきたいという意志が強く、歴史的観点からだけではなく、マーケティングへの利用にも秀でていたりします。あるいは、ラグジュアリー産業のように、企業の文化遺産が商品開発やイメージ戦略に多いに関与する分野と、反対に、歴史は知名度以外には直接的なインパクトをもたらさないように見える産業もあるでしょう。有形な文化遺産は、管理のしやすさ、展示のしやすさ、説明のしやすさ、といった要素も異なります。とはいえ、企業の文化遺産とは、形あるものだけに留まらないのが、難しくも、面白い部分。企業の文化遺産に関するプロジェクトや展覧会を見ていて、いいな、と心に響くのは、自社の社員に対する敬意が、展示や説明を通して感じられる時。それゆえ、必ずしも「目に見えるカッコいいもの」が必要ではないように思うのです。社員や職人の情熱、企業から社員への敬意が感じられるような記録の仕方、見せ方があれば、企業の文化遺産マネジメントは、外部へのアピールだけではなく、社内の意識改革・モチベーション向上にも有効な手段の一つになりうるのです。セガン島のパビリオンは、島の過去・現在・未来に続く歴史全般を取り扱っており、ルノーの歴史に特化したものではなく、純粋な意味での企業文化遺産ではありません。ブーローニュ・ビヤンクール市が描く「住民に開かれた島」の青写真とのバランスを取る目的もあるのでしょうが、ルノー時代の展示部分が単なる数字や車種の羅列ではなく、「人」を主体とした内容作りを心がけたとのこと。

工場閉鎖から幾つかの挫折を経て、忘れられたと同時に、島自体が人々を寄せ付けなくなってしまった感のあるセガン島。島内に作られたサーカスやレストランに続いて、パビリオンがその空白を埋めるための活性剤となれるのか、今後に期待です。セガン島ではFIACの開催期間に合わせ、10月16日から21日まで現代アート作品が島内に展示予定。R4というアートプロジェクト。こちらはまたの機会に。

Pavillon sur l’île Seguin

開館時間:水〜日曜14:00〜18:00(11月〜3月までの間は17:00閉館)